1260年 (正元2年、4月13日 改元 文應元年 庚申)
 
 

6月1日 丁酉 疾風暴雨洪水
  河辺の人屋大底流失す。山崩れ人多く磐石の為圧死せらる。
 

6月4日 庚子
  検断の事に就いて今日定めらるるの條々有り。且つは六波羅に仰せ遣わさるるなり。
  所謂、
  一、国々守護人召し進す犯科人の事
   右、関東に召し進すこと謂われ無し。定め置かるるの旨に任せ沙汰せらるべきの由、
   守護人に相触れしむべし。但し事を左右に寄せ、守護人非據の沙汰を致すの由訴え
   申すの時は、尋ね成敗せしむべし。
  一、関東に召し進すべき犯科人の事
   右、殊に重科の張本に於いては、先例に任せこれを召し進すべし。軽罪に至りては、
   六波羅に於いて尋ね沙汰有るべし。
  一、放免の事
   右、殺害人に於いては、日来十一箇年以後所犯の軽重に随いこれを免さるると雖も、
   今度に於いては、諸国の飢饉と云い、人民の病死と云い、法に過ぎるの間、別の御
   計を以て、年記を謂わず、殊なる子細無きの輩は、当年の所犯に至りては、放免せ
   られをはんぬ。
 

6月5日 辛丑 雨降る
  止雨の御祈りを行わる。安祥寺僧正良瑜一字金輪法を修す。今日放生会供奉人の散状
  を整えらると。
 

6月7日 癸卯 雨降る。未の刻晴に属く
  去る月十六日より霖雨休まず。今日適々晴を迎う。これ偏に法験の致す所か。
 

6月12日 戊申
  人庶疾病退治の為、祈祷を致すべきの由、今日諸国守護人に仰せらると。その御教書
  に云く、
    諸国の寺社大般若経転読の事
   国土安穏・疾病退治の為、諸国の寺社に於いて大般若経・最勝仁王経等を転読せら
   るべきなり。早くその国寺社の住僧に仰せ、精誠を致し転読すべきの由、地頭等に
   相触れしむべきなり。且つは知行所に於いては、堅固に下知せしむべきの状、仰せ
   に依って執達件の如し。
     文應元年六月十二日      武蔵の守
                    相模の守
    某殿
 

6月16日 壬子
  放生会御参宮供奉人の惣記、小侍より武州に献ぜらる。これ計り沙汰せしめ給うべき
  の由なり。而るに例に任せ、御所に進覧すべきの旨を仰せられこれを返し遣わすと。
 

6月18日 甲寅
  供奉人の記を和泉の前司行方に付けらる。而るに仰せ出さるる條々有り。所謂、
   御息所御参宮有るべき事。
   相模の太郎・同三郎(元は随兵たるべしと)は、彼の御方の御共たるべしてえり。
   武蔵の前司は、供奉人数として御合点有りと雖も、廻廊に参候すべしてえり。
   佐々木壱岐の前司は、御点有りと雖も、今度は催すべからずてえり。
   小山出羽の次郎は、御点無しと雖も、随兵に催加すべしてえり。
 

6月19日 乙卯 霽
  浜の鳥居の辺に於いて、天文博士為親朝臣風伯祭を奉仕す。御使は安藝右近大夫重親。
  今度は御気色に依って旧祭文を用いらると。
 

6月22日 戊午
  相模の四郎は布衣を着すべし。同三郎は元の如く随兵たるべきの由と。
 

6月25日 辛酉 晴
  酉の刻京都の飛脚参着す。去る十五日より一院瘧を煩わしめ御うの由これを申す。

[続史愚抄]
  一院御悩御願の為、御劔を石清水宮に献らる。
 

6月26日 壬戌 晴
・ 和泉の前司行方の奉行として、以来昨(酉の刻)の院の御悩の事を問う。御占いを行
  わる。今月二十六日七日御減の由これを勘じ申す。その後薩摩七郎左衛門の尉祐能御
  使節として上洛す。院の御悩に依ってなり。
 

6月27日 癸亥 [続史愚抄]
  一院御瘧疾落居の賞、法印道浄僧正に直任す(御験者)てえり。
 

6月30日 丙寅 晴
  木工権の頭親家御使として上洛す。猶御悩の事を申せらるるが故なり。