17 御行末(祈り候わん)

 谷間の鶯は花を待ち、雪裡の梅は春を待つ、待つ身に嬉しき小桜姫は本城に帰りてより
鎧兜を脱ぎ捨てて、羅綾の衣・珠の簪、緑の髪を丈長に結び給い、昔に帰りし姫君の美し
さ、修羅の巷も昨日の夢と過ぎ行て、今は長閑なる御殿の奥、独り翆帳を押し開き、欄干
に立出で庭の景色を看給えば、まだ咲き残る遅桜の青葉交りに二つ三つ、常盤木の間に見
ゆるも床し、築山に鶯啼き、泉水に鴛鴦浮ぶ、日頃はさまでに思わねど、今視れば此鳥の
雌雄離れぬ睦まじさよと、小桜姫は景色に見惚れて余念も無かりしが、忽ち後ろより「姫
君には何を御覧遊ばす、さぞ鴛鴦の御羨ましく思し召されん、只今三浦家より御使者あっ
て、愈々御輿入は来月三日と定まりたるよし、鴛鴦が姫君を羨むもハヤ遠き事は候わず」
と笑いながら来るものあり、小桜姫振返り「オー八重絹か、其方には尋ぬべき子細あり、
此方へ来よ」と我が居間に誘い給い「如何に八重絹、其方は敵の生捕となって新井の城に
ありし身なれば三浦家の様子は知りつらん、妾が心得に包まず語って聞かせよ」と仰せあ
る、八重絹膝を進め「御尋ねまでも候わず、三浦家の御様子・又荒次郎殿の御噂なんど、
妾より申上げんと是まで参り候なり、そも三浦家は累代の名家にして、一族門葉国中に普
く、諸臣皆武勇に秀でたるが中に、荒次郎殿の御武勇は前代未聞と噂なし候、御武勇はさ
る事ながら、妾の最も頼もしと思い候は、其御心の御情け深くして諸臣を我子の如くに愛
し給い、敵の一人たる妾までも懇ろに痛わり給いたり、斯る英雄こそ姫君が兼て心願あり
しところなれば、妾が御執成致さんと存ぜしに、早くも御縁辺の御定まりありしこそ目出
たく候」、小桜姫「妾こそ心願の成就して嬉しけれど、荒次郎殿はさぞ御不足に思し召さ
れん」、八重絹「イヤ何とて御不足のあるべきぞ、姫君の事は兼て荒次郎殿が妾にも御噂
なし給い、又此度は自ら御懇望ありしに候わずや」、小桜姫「荒次郎殿は兎も角も、道寸
殿は如何には思い給うらん、先頃の合戦に妾が手痛く道寸殿を追詰たれば、定て遺恨に思
い給うべし、今更顔を合せんこと後めたき限なり」と仰せある、八重絹一段声を潜め「イ
ヤ道寸殿をさのみに思い給うな、今三浦家の有様を見るに、諸臣皆荒次郎殿に服して、道
寸殿に服せず、道寸殿は武略人に勝たれ共心正からず、殊に三浦家の嫡流に非ずして、実
は上杉修理大夫高救の三男なるを、三浦介時高が御養子となされ候なり、然るに其後時高
殿に実子生れ、道寸殿を廃せんとなしければ、道寸殿老臣大森越前守と共に養父時高を攻
め殺して新井の城主となられしなり、されども奥方は正しく時高殿の息女にして、荒次郎
殿は三浦家の血統なれば、諸臣皆心を荒次郎殿に寄せて、早く此君の世とならん事を祈り
候」、小桜姫聞いて歎息し給い「扨は斯かりける間柄なるか、それならば猶更妾が参りな
ば、父君の助けを以て荒次郎殿を守り立てんかと道寸殿が心を苦め給うべし、兎にも角に
も道寸殿の心を和げんこそ大事なれ」と竊に行末を案じ給う、八重絹はこれを慰め「姫君
御心を痛め給うな、諸臣の中には道寸殿を廃して早く荒次郎殿を立てんと思うものあれど
も、荒次郎殿至て孝心深く、仮にも父君の意に背き給う事あらざれば、御父子の御仲殊に
睦まじきよし、されば姫君に対して道寸殿が野心を抱き給う事あるべからず、構て御心遣
い御無用に候」、小桜姫は尚懸念去り難し、「孝心深き荒次郎殿なれば、もし妾が舅道寸
殿の御心に叶わぬ時は、荒次郎殿必ず妾を捨て給うべし、さなくとも道寸殿が諸士の心を
失いて、三浦家此に亡ばんとする折あらば、荒次郎殿は父君への孝を立てヽ道寸殿と共に
亡び給うか、それとも累代の家を大事と思いて道寸殿に背き給うか、それこれを思えば行
末の事俄に定め難し」と千々に心を砕き給う、八重絹も其憂を分ち「左様の事のあるべく
も候わねど、姫君の御行末の安からん為、妾は是より峰が岡八幡宮に参詣して、姫君と荒
次郎殿の御武運長久を祈り候べし、暫しの御暇賜わり候え」と主人思いの八重絹なれば、
姫より暇を貰いて峰が岡八幡宮へと赴きける、