76 陣見舞(参り候)

 木枯しの風も過ぎけり、いざさらば三浦表に赴いて噂に聞きし桜の御所、花の盛りの春
の景色を父と共に眺めんと、一の宮の城主北条新九郎氏綱兵を聚めて出陣の用意をなす折
柄、兵卒一人馳せ来り「只今相模川の彼方より大薙刀を堤えたる女武者唯一騎、当城を望
んで馳せ参り候、敵か味方かそと御覧候え」と注進なしける、氏綱多目権平を連れて櫓に
登り「オー彼の勇ましき武者振は小田原に在りける小桜姫よな、姫が俄に当城へ参ること
必ず昨日の合戦の噂を聞き、虎王丸を助けん為と覚えたり、如何に権平、既に荒次郎を退
けたる上は、虎王丸を此城に置くの要なし、勇婦の目に掛らば面倒なり、汝は直に虎王丸
を守護して裏門より当城を抜け出し、間道を通りて三浦表なる父君の陣へ送り候え、小桜
姫来りなば、我身好き様にあやつりて共に三浦へ連れ行くべし」と智将の先見、忽ち虎王
丸を城外に出したるに、斯くとも知らぬ小桜姫、一の宮の城門に駒を乗寄せて大音揚げ「当
城の陣見舞として小田原より小桜が参りたり、開門々々」と呼びたりける、氏綱士卒に命
じて門を開かせ、小桜姫を城内に迎え入れしむ、姫は虎王丸の事に心激して意気昂れり、
氏綱態と落着払って姫を本丸に誘い「小桜どのには先頃より病に侵され給うと聞きたるに、
最早御全快ありたるか」と尋ねる中にも心竊に一足も遠く虎王丸を落し遣らんと工みしな
り、小桜姫も物語の中に心を配りて城中の様子を窺い「さん候、病気全快致したれば、後
れながらも三浦表へ出陣し、父の合戦を助けんと存じ候、それに就て只今当城に立寄りし
は、昨日此地に合戦ありしよし申し候えば、陣中の御見舞に参りしなり」、氏綱「それは
御志忝けなし、昨日の合戦敵を美事に追い散したれば、最早当城は憂うるに足らず、さる
に依て某も是より父早雲が方へ赴かんと存ず、御身が参られしこそ幸いなり、共に三浦表
へ出陣致し、親々の軍を助けて功名手柄を現わし申さん、御身の如き勇婦と共に出陣する
こそ某が面目にて候」と自ら立って出陣を促しける、小桜姫は立ちも遣らず「扨氏綱どの
に伺いたきことあり、当城に三浦道寸が次男虎王丸を生捕り置き給うよし、虎王丸は妾も
知りたることの候えば唯一目見申したく候、妾をその方へ案内し給え」と申しけるに、氏
綱扨こそと思いて、態と何気無き体を為し「それは残り惜しき事の候よ、如何にも虎王丸
を当城に置き候いしが、先の程父早雲が方より使者参り、虎王丸を三浦の陣へ連れ行きて
候」、小桜姫「ナニ今は当城に在らぬと仰せあるか、氏綱殿の言葉なればよも偽りにては
候まじ」、氏綱「何とて偽りを申すべき、まこと虎王丸に逢いたくば急ぎ某と共に三浦表
へ出陣召されよ」と促し立つるに、小桜姫も詮方無く、此上は一旦戦場に赴きて後に虎王
丸を救うべしと心を定めて立上りぬ、氏綱早くも出陣の下知を伝えければ、城中の勇士八
百余騎皆馬前に来聚す、氏綱乃ち三百騎を残して城を守らせ、自ら精兵五百を率い、小桜
姫を中に囲んで一の宮の城を立出でける、斯くて両人城外に出でたる時、多目権平が手の
者一人馳せ来り「我等虎王丸を守護して遙かに当城を離れたるに、百姓体に装いたる武者
一人後ろより追駆け来り、虎王丸を奪い取らんとなせし故、権平殿立向って其武者と闘い
遂に多勢を以て討取り候」と告げたりける、小桜姫心中に扨は菊名左衛門が討死せしかと
竊に鎧の袖を湿せり、