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日記のフリindex

2002.062002.08

日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。

日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0207.html#20020701


2002年7月

その他
松本大洋『ピンポン』(1)(2)
樋口一葉「琴の音」
内田樹『寝ながら学べる構造主義』
ジャン・ルノワール『フレンチ・カンカン』@シネ・リーブル池袋
高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』
ツァイ・ミンリャン『ふたつの時、ふたりの時間』@新文芸坐
赤川次郎『マリオネットの罠』
生島治郎『黄土の奔流』
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『アモーレス・ペロス』@新文芸坐
川端康成『雪国』
スティーヴン・M・マーティン『テルミン』@新文芸坐
ロマン・カチャーノフ『チェブラーシカ』@新文芸坐
松本大洋『ピンポン』(3)(4)(5)
斎藤耕一『約束』@東京国立近代美術館フィルムセンター


7/31(水)
最後の助走前の停滞感と重力に逆らう時の気味の悪い感覚が大好きで胸が苦しくなる。ドキドキしすぎて本当は不安なのかもしれないと自分の感覚が誤解する。

3人並んだ整備士のおじさんたちが手を振る。窓越しに子供のように手を振り返す。8月になる前に。


7/27(土)
自分が一番つらいときこそ人に優しくできるししたいと思う。そのくせ自分が甘えられる人にすがりつきたいと思っている。偽善的と思うなら思え。

近くでお祭り。笛の音でいろいろな曲を演奏しているのが聞こえる。いまちょうど"Au clair de la lune"が流れてて、どんどん音が重なってってる。先生と一緒に歌ったのを思い出した。


7/24(水)
4時半ころに目が覚めて眠っていたんだなあと気付く。ぼーっとしていたら地震がきて時間は5時。会社で「朝、地震があったよねえ?」と聞かれたので「ありましたよ、5時くらいに」と答えると、他の人が「夢の中で揺れているなあと思ってたんだけど夢じゃなかったんだ」と言って、また別の人が「全然気付かなかった〜」と言ってた。

もちーと一緒に前々から予約していた天ぷら屋さんに行った。7時に予約をしたのに8時には店を出ていたという早さ。天ぷらは揚げたてを出してくれるのだったら即いただくのが天ぷらと作ってくれた人両方に対する礼儀だと思うのです。だからもう出されたらすぐに食べていたんだけど、どうも待ちの時間が出来てしまう。揚げてくれている店主さんに「ちょっとまってくださいね…」と言われてしまった。おいしいので一口食べてはお互い顔を見合わせてうなづいたりおいしいねえなんて言ったりもするんだけど、食べている間も次を待っている間もそれ以上の会話がなくてデート的色気がなかった。

普通はお酒などとともにもっとゆったりいただくものなのかしらん。

デートは1時間で終了し、その後はマルホラン堂に寄らせていただきました。ものすごいレアなCD(でも100円)を聴いたり、ジョージ・マイケルやデヴィッド・ボウイが出ているDVDをみたり、『黒蜥蜴』のビデオを30分ほど見せてもらった。良く食べて良く笑って悲しいことを考える時間なんてなかった。夜が短くなっていい感じです。

冷凍バナナの季節か。


7/23(火)
昨晩ぐすぐす泣いているときに思い切ってわーんと声を出して泣くようにしたら楽になった。告別式に早く着いてしまったおかげで先生の奥様に「主人が喜ぶわ。一番弟子だものね」と声を掛けてもらったのに、なんにも言えずただ涙を浮かべてうなずくだけで情けない。棺に眠る先生はいつもと変わらないようにも見えて不思議な気がする。ドドの写真が胸に置いてあってこれなら向こうで迷わないなと思った。喪主挨拶で、ドドが死んだら俺も死ぬともらしていたと話があり、それは私も良く良く聞かされていてそのたびにそんなことを言わないで欲しいと思ってたけど「ドドが呼んだのではなく主人が行きたかったのだと思います」って聞いた時には涙があふれてそうかもしれないと思った。

もう今日は眠りたいんだけど11時前に寝ようとするのが間違っているのかお酒を飲んでも全然眠くならなくて、やっぱりまだ夜になるとさみしいです。こんなときさすがの私も誰かの声を聞きたくなったりもするんだけどそんなキャラクターじゃないよなんて自分に言い聞かせてみる。


7/22/(月)
昨日あれから外出してフィルムセンターで斎藤耕一『約束』(日・1972)をみた。岸恵子にうっとりするつもりで。ショーケンの子供らしさに魅力を感じたり。案の定涙したわけですがこのあとに起こった出来事がまるでフィルタのように作用してその前の記憶をうすれさせてしまってる。

家に帰ると留守電に月曜日の習い事の先生が土曜の夜に亡くなったという知らせが奥様から入っていて、あわてて折り返し電話をするけどずっと話し中でかからなくて、その間に思い出し泣きをしてはまた電話をかけて、でもやっぱりつながらない。やっとつながったときには代理の人が出てお通夜と告別式の日時を教えてくれた。

先生はもともと心臓に爆弾を抱えてた人だし、可愛がってた犬のドドが5/28に死んだショックも遠因なのかもしれないし、ドドもさみしがってたのかもしれないし、奥様が電話をくれたときに不在だった私に結局のところ死因はわからない。一冊の教科書があとほんの数行で終わるところだった。

会社が終わってすぐに出れば大抵時間通りに間に合うけれど、少し遅れると先生は家の前に出て待っている。ほんの2,3分でも。まだドドがいたときにはドドを抱えて。先週も、もうドドはいないけど先生は一人で外に出て待っていてくれて、それに気付いても走れない私は先生がこちらに気付くのを待って手を振った。私はそういうの、せつなくて苦手。嘘。嬉しいけどせつない。

先週は帰るときに日傘を忘れて見送り後にあわてて取りに戻った。忘れ物をしたのは初めてだった。なにを忘れたの? 日傘? じゃあそのことをフランス語で言ってごらん。

帰りにはいつも握手をする。ぬくもりや感触だってやっぱり記憶に残ると思った。今思い出せる。先生がドアの鍵をカチッと閉める音が嫌いで、いつもいつもそれが聞こえないようにすぐにドアから飛びのくようにして帰った。

ときどき外まで一緒に出て見送ってくれるときにはだから鍵の音はない。先週も。道で握手して当たり前のように振り返らずに帰ったのを、どうして今こんなに後悔してしまうんだろう。毎週毎週、振り返ることなんてなかったんだから先週だけ後悔してももう始まらないのに。

昨晩親に聞けば、今はお通夜か告別式片方でいいと言われてその時は納得して電話を切ったものの、明日はとりあえずすぐに駆けつけたいし、あさってちゃんと最後のお別れもしたい、とずっと考えていたら眠れなくなった。会社で上司に両方出るのは変なんですかと聞いたらそんなことはないよと答えてくれたので、告別式に出るために明日会社を休むことにした。

親に報告している間、それほど悲しそうなそぶりを見せないように努力している自分に違和感がある。

真夏に黒い服で道を歩いていれば小さな子には違和感があるみたいですれ違いざまあれなあに、という問いと、お葬式よ、という母親の声が聞こえた。

お通夜で奥様とアイコンタクトが取れて私にうなづいてくれてとたんに涙があふれた。実感がわいてしまってでもやっぱりまだ理解できない。

帰り道あんまりさみしいので空を見上げたら月が満月っぽくて美しくて少し救われた。こんなとき、黙ってるしかない一人の夜はさみしい。だから喋るかわりに書いて、泣く。とてもさみしい。

思い出を一日で回想しきろうなんてほうが無理でときどき亡くなった人のことが断片的に思い出されてそのたびに悲しくなる。少しの間はそれが続く。

とてもかわいがってもらったと思うんです。


7/21(日)
夜中、松本大洋『ピンポン』(3)(4)(5) 小学館 を読む。

5巻は泣きながら読んでた。ドラゴンとの対戦あたりから。そして、ペコに対して遅いよというスマイルに、これでもすっ飛ばしてやって来たんよと答えるペコ。うんとうなづくスマイル。「遅い」の二つの意味。

スマイルが主人公っぽいと思っていたのがそうじゃないんだと気付いてゆく過程で、それでなおのことスマイルの役割がとてつもなく大きかったのに気付く。2巻を読み終えたときにスマイルがうらやましいなんて書いたけど今思えばバカな感想だった。物語の感想は通して読んでからにしよう…。

人には役割がある、って言い方はあまり好きじゃないけどあえて言ってみるならば、その考え方は自分をつらくもするし救うことにもなる諸刃の剣だ。役割はふってわいてふりかかってくるものではない。自分の中にあるのにそれに気付かなかったり、気付かないふりをしたり、気付いても認めたり共存していくのが難しかったりする。それでもうまくいけば自分を救う。

いやいやいやこんなかたっくるしいこと書くつもりなかったのに。07/21/02 09:34:04


7/20(土)
まっぴるま1時にキャップだけかぶって散歩開始。空気がうねうねしてた。こんな暑い中にマラソンしているおじさんの顔は真っ赤で死にやしないかとハラハラする。

50日間トルコとエジプトを朝から日没まで歩き回って焼けたなあなんて満足しながら帰国して「焼けたでしょ? 」と母にたずねてみれば「別に…。焼けたっていうよりなんだかすすけてこきたない感じ」。

友人の友人が新婚旅行にトルコを考えているのでおすすめがあったら教えてくださいと連絡があった。はずせない食べ物飲み物と、あとは自分がして楽しかったことをいくつか。書きながら、派手なイベントがなにもない、舞台をトルコに移した散歩だなこりゃ、と気付いた。私がしたことといえば、街中を朝から晩まで歩きまわって毎日新しい人と話すはめになって安い定食屋(?)に入って指さしながら食べ物選んでたまに危険な賭けに乗ってみた(嘘)、そういうの。

あつい空気の中で昼寝して首に汗かいてぐったり目が覚めるのは楽しい。でも今日は昼寝なし。


7/19(金)
私鉄からJRへの乗り換えはたいてい2,3分勝負で軽く走れば間に合う。今朝も階段を駆けのぼっていたら男の子がものすごい速さで駆け抜け追い越していった。定期を落として。目の前で落ちた定期を拾って誰が聞いてくれるわけでもないのに「どうしよう」なんてつぶやきながらうしろ姿の男の子を追いかけるけど彼はなにしろ急いでいてとてもじゃないけど追いつけない。駅員さんに預けるしかないか…と少しあきらめかけてたとき立ち止まってあたふたしている男の子を発見。あ、彼だ! 「あの…定期落とされませんでした?」。渡すときにsuicaだ、と気付いた。ドラマチックな朝。

新文芸坐で二本立て。

スティーヴン・M・マーティン『テルミン』(米・1993)。テルミンを使っている映画が中に出てくるんだけど、聞いたこともない妙な映画があって続きがとっても見たかった。銀色鉄仮面の宇宙人とか。ラストシーンの距離が素敵。年老いたテルミンさんを見てたら全然似てないのに祖父を思い出してどうして死んだ人には会えないのかなあなんて考えていたりした。映画とは全然関係ない。

ロマン・カチャーノフ『チェブラーシカ』(ロシア・1969〜1974)。思ってた以上に面白かった。一所懸命さ、けなげさの微妙なからまわりと実現。チェブラーシカはけばだってふわふわしてて汚れてたのが意外だった。ここで水に入ってきれいになるに違いない! という場面でも結局入らず。やっぱり年とったらいじわるばあさんにならないとな。

見事に酔った。冷静に見つめる私も消えうせにこにこ笑い喋る。酔ってるほうが素直なんだろか。


7/18(木)
「relax」のジャイアンリサイタルポスターをあちこちで見せびらかした昨日。昼休みに話をしているときに「昨日の本(relax)読みすぎですよ」と指摘され、話題はドラえもんに。一度ドラえもんが帰っちゃうの知ってる? と聞くと知らないと言うので説明していたら自分でぐっときちゃって涙が浮かんでしまい相手の目を見ると同じようにうるんでいる。増幅しあってしまった。のび太がけなげなんだもの。

朝永振一郎著 江沢洋編『量子力学と私』岩波文庫 を読んでいる。一番最初に載っているのが、鏡はどうして左右が逆になって上下が逆にならないの? について書かれた「鏡のなかの世界」。既視感がある。最近そんなことを読んだ気がする。法月綸太郎だっけ。

物理について書かれているところはどうしたってわからないけど、あまりに平易な言葉で書かれているのでもしかしてわかってしまうんじゃないだろうかと錯覚を起こしそうになる。でも、無理せず飛ばして「滞独日記」を読むことにした。

毎日毎日毎日、うまくいかないゆううつおっくう涙もろいはかどらないものがなしい……、そんな言葉ばかりの日記に愕然とした。「マイエルの字引のメランコリーなどいうところを引いたり」(p.188)し、「汽車にのる夢、おやじとおふくろが一しょにいる。そして、心の悲しみをこの二人にあまえる夢」(p.170)を見たりしている。淡々とつづられているぶん、しみる。

「永遠のもの」がなぜいいのだ。それは人間が「存在すること」を価値あることと考えるからだ。なぜそうかというと、人間が「存在して」いるからだろう。しかし、人間の存在の仕方は無常である。だから、存在の面を強調するかわりに無常を強調してみてもいい。そうすれば無こそ価値と言えるだろう。(p.165)
夜、「イミタチオ・クリスティ」をよんでなみだがながれる。ある人が多く享け、ある人が少くうけるのは、神の御心にあるので吾々がどうするというべきものではない。むしろ自分の享けた多くのものを感謝するとかいてあるのである。そうなのだ。ここで神様がぼくの肩をたたいて、なげくのではない、それは私がもうきめたのだ、と言ってくれれば、それでなっとくがいきそうなのである。(p.189)

7/17(水)
ほとんどのび太とサシの飲み会、イコール、ジャイアン のび太に語りを聞いてもらうの巻でした。ある意味“リサイタル”か。しかたない、自分は任侠的だと認めよう。駆け込んで30分でしゃべりたおした方もお疲れさまでした。カフェオレ大福召し上がれ。冷たいともっとおいしいんだけど。


7/16(火)
日本映画の発見VII:1970年代(2)@東京国立近代美術館フィルムセンター(8/13〜10/27)の上映映画がすばらしい。『竜馬暗殺』感想)に『新幹線大爆破』フランス版感想日本版感想)も。『マル秘色情めす市場』はみに行くつもり。ほかに興味があるのは『 狂った野獣』『悲愁物語』『はなれ瞽女おりん』『曽根崎心中』あたり。


7/15(月)
川端康成『雪国』新潮文庫。中学高校の夏休みの宿題で読書感想文があれば「この中から選びなさい本」の中には必ず入っていた気がしますが、初めて読みました。これを読んで感想を書ける中・高校生を尊敬します。心情を読み取るのに努力がいって、それでもたぶんつかみきれてない。情緒や抒情だけで読める物語ではない。私にとっては難解でした。

恵比寿で会合。人と一緒だと食がすすみます。


7/14(日)
夜中、生島治郎『黄土の奔流』角川文庫を読み終わる。やめられなくて家で本を読むなんて久しぶり。読み終えた瞬間、題名がすうっとしみこんだ。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『アモーレス・ペロス』(メキシコ・1999)@新文芸坐。自動車事故に巻き込まれた人物たちに焦点を当て3つの物語のオムニバスにしたもの。メキシコを感じる映像のせいなのか、それぞれの物語の骨組みが不思議と陳腐に感じられない。血と乾きと焼けつく色があらわす焦燥感に追い立てられるように、ドキドキしっぱなしだった。

夕方からpoさんと中国茶とタイ料理。タイ料理では辛いものと格闘。特にパパイヤのサラダにはやられました。


7/13(土)
疲れすぎて早く寝た。起きたらこんな時間! 外はとても明るい。また寝る。07/13/02 05:27:27

スケートへ行くと久しぶりにKさんに会い髪が違うと言われたので伸ばしてるのと答えると伸ばしてるのーわははと笑われてしまった。

帰り道、高田馬場のリンクは2ヶ月休みに入るからティーヌンにも行かなくなるねなんて話をしながら歩く。いつもバスに乗って行くらしく、私はいつも歩いて行くよと言うと、この距離を! と驚かれた。今日は行かないの? 行こうよ一緒なら歩いてもいいよ、と誘われたので、じゃあバスの時間を見てすぐ来るようなら乗ろうか、とバス停で時刻表を見るとちょうどの時刻。まさか今来るの? と見やるとまさにバスが。二人で飛び乗った。

バス楽しい! 5分トリップ。

彼女はいつもいつもセンミートムヤム。私は少し迷ってタイ野菜入りチャーハンにした。ちょっとずつ分け合って食べる。お店のおねえさんが彼女のことを覚えているらしい笑顔で迎えたので、すっかり常連さんだねと言うと、一度フィルムを終わらせたくておねえさんを撮って写真をあげて以来対応が違う、らしい。センミートムヤムはいつも大盛りで、卵つけてくれたり、なにか小皿がついてきたり。そう、頼んだチャーハンもひどく量が多かった気がする。最初に彼女が二人で取り分けたいからお皿ください、と言ったからかもしれない。二人分?

何年かぶりで持って帰るスケート靴が重いうえ大粒の雨に降られる。雨は嫌い。でも傘を持っていないときに降られるのは嫌いじゃない。


7/12(金)
仕事がやりがいありすぎて眠くなる……。

赤川次郎『マリオネットの罠』文春文庫。面白くてどんどん読んだ。出し惜しみをしないという印象。書いているときにアイデアが浮かんでもこれは取っておいて別の作品に使おうなんて思わず、今思いついたんだからこの作品に使ってしまおう、といったふう。それくらいいろいろ魅力的な要素がちりばめられている。濃く掘り下げるというよりは、ばあっとふりかけのようにまぶしてしまうところがいさぎよくて贅沢といえば贅沢だし、もったいないといえばもったいない気もする。


7/11(木)
ツァイ・ミンリャン『ふたつの時、ふたりの時間』(台湾=仏・2001)@新文芸坐

時計が一つ片方から片方へ渡っただけの関係。台湾とパリ、男女の時差は7時間、時間も場所も交わらないのに映画をみている私は二人を俯瞰的に眺めることができ、あまつさえその間につながりを見つけようとしてしまう。そして見つかった気がしてしまう、その不思議。まるい観覧車が時計に時間に“見える”迫力あるラストの構図がすばらしい。

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会話というものはつねに長い会話であるべきです。本物の会話は、もう何も言うことがないとお互いが思ったところから始まるものでしょう。(レオ・レオーニ)

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席替えをして隣席になった人が「これやっぱり何度読んでも泣いちゃう……」と目をうるませながら見せてくれたのはレオ・リオンニ 谷川俊太郎訳『スイミー:ちいさなかしこいさかなのはなし』好学社

お子さんの国語の教科書に載っているのを読んで良かったので買ったそうです。「絶対泣くと思う」と渡されて読む。「うわーん○○さーん。ぼくが目になるよ、だって!」と話しかけると「や〜思い出させないで〜」と彼女はまた泣きそうになる。「魚座の本だね」と私たち魚座はうるうるしながらうなづきあう。この絵が紙の上に印刷されたものじゃなきゃいいのに! 水に印刷されたものならいいのに!

松岡正剛の千夜千冊にも載っていました。ただしネタバレしています。


7/10(水)
高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』岩波新書,2002 を読み終わる。

文章は易しく優しいけど実践するのは難しそうだよ……。

まえがきの印象を強く引きずったせいか、だだっぴろい草原に一人で立っているような気になった。自由であることのとまどいと解放感。歩幅も早さも時間も進み方はすべて自由。進むに限らず座り込んでも寝っころがってもいい。夜になれば星が見えるからそれをたよりに少しずつ歩こうか、あるいは太陽の出ているうちにずんずん歩いてしまおうか。たまにはスキップ、気が向いたら全速力、ときどき後ろ歩き。

一番最後の鍵はキュートできゅんとくる。

ある箇所でヘッセの『デミアン』が思い出されて、でもそんなこと書いてあったかなと気になってパラパラめくってみた。自分の中では合点がいった。

「動物なり人間なりが、ある一定のことがらに、注意力と意志とを全部むけていれば、そうすればじっさい、それを手に入れることができる。それだけのことさ。そしてきみの考えていることだって、まったくおんなじわけあいのものだ。ひとりの人間を、十分くわしく観察してみたまえ。そうすれば、きみはその人間について、当人自身が知ってるより以上のことを、知るようになるよ。」(実吉捷郎訳 岩波文庫版 pp.76-77)

パラパラついでに好きな箇所を改めて読む。ジンクレエルとエヴァ夫人の対話。pp.200-202の願望および愛情についてのとこ。


7/9(火)
槙原敬之の「まだ見ぬ君へ」を聴いていたら矢野顕子(+佐野元春)の「自転車でおいで」を思い出した。


7/8(月)
日傘大活躍。

今週、社食のおいしくなさそなときに外に食べに行こうという話になったのち、「メニュー見たんですけど、木曜日に幽霊なんとかとかわけわかんないのがあってもう一つの定食もピンとこなかったので木曜日にしませんか」という報告が。その幽霊なんとかが気になってしかたない。

お寿司屋さんの中ってどれくらい人が入っているのか気になるけど大抵は扉が閉じているから全然わからない。前を通ったときにちょうど扉が開いて中をちらっと見ることができた。誰もいなかった。悪いもの見ちゃった気分。

もちーに『新・仁義の墓場』のお誘いを受けたものの題名が怪しいので調べたら三池! こりゃもうずっと耳ふさいで下向いてなきゃならない。「やめておいたほうがよさそうです。いやーん」と返事したら「あっ気付かれた! いやーん」だって。

ジャイアンのリサイタルのポスターが付いてる」の!?

電話苦手だったはず。なのに助けられた。


7/7(日)
先週時点で雨の予報だったのが昨日も今日もいい天気。頭痛さえなければ。


7/6(土)
ジャン・ルノワール『フレンチ・カンカン』(仏・1955)@シネ・リーブル池袋。

街中で人が行き交っているのを遠景でとらえているだけの場面にまるで絵が動いているような錯覚をおぼえた。ニニ(フランソワーズ・アルヌール)は、アンリ(ジャン・ギャバン)に言われた言葉で本当に踊り子になったのかもしれない。ラストのフレンチ・カンカンはあまりにも天国的。幸せすぎるものはときにせつない。

ルノワールの映画は映画館でみたい。少しずつでいいから映画館で上映してくれるといいな。


7/5(金)
きのうの芭蕉の句を眺めていたら大好きな「菜の花や月は東に日は西に」(与謝蕪村)が浮かんできて、今度は菜の花で連想したのかこれまた大好きな「朧月夜」の歌を思い出した。槙原敬之も『Listen To The Music』でこの歌をカバーしてたっけね。


7/4(木)
無数のトンガリで連想するのはコンペイトウ。金平糖って書くよりコンペイトウ。ともかく、「星はなぜ星形なのか」については8/5に発売されたら読みたい。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書,2002 を読んだ。なつかしい面白いぐっとくる。

前史(マルクス、フロイト、ニーチェ)、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロースにラカン。ソシュール部分に物足りなさを感じたのは、昔すでに相当なショックを受けてしまってたからだと思う。反面、読んでないフーコーは刺激的。バルトのところでは『表徴の帝国』で取り上げてた芭蕉の句を久しぶりに見たけどやっぱりいいな。

「こゝのたび起きても月の七つかな」

サルトルの「アンガジェする」という考え方には高校で習ったときにはビリビリしびれたけど、レヴィ=ストロースとの論争はむべなるかなで、今回フーコー部分を読んだことで改めて整理できた気がする。それにしてもラカンでぐっとくるとは思わなかった。ちなみにラカンは「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(『エクリ』)も読み通せてない。

..

怖い夢を見たあとは「ばくにあげます」と3回言う。A宅に行くとその人は死んでいて、おまわりさんのところへ逃げ込んだら「いま、BがAを殺したと連絡があった」ということを聞かされてドキドキしていたのに、小さな部屋の中でおまわりさんと向かい合ってそんな話を聞いていたら目の前のこのおまわりさんすら信じていい対象なのか不安になったところで目が覚めてもっとドキドキ。ばくにあげますを言うのを忘れた。早く忘れたい眠りたい夜中の2:30すぎ。


7/3(水)
両親に連絡しそびれるのは電話番号を覚えていないからなんだ。

スーパーで売られていた笹の葉は入口近くに置かれていて自動ドアにはさまってばかりいる。もはやサラサラならぬカラカラ。

樋口一葉「琴の音」『明治の文学第17巻 樋口一葉』筑摩書房,2000。読み終わって感じたおだやかだけれどたしかな光は、月が見えない晩の月の代わり。「八面玲瓏一点無私」という言葉を知り、最後の一文に震えた。今度は秋、月の美しい晩に読み返したい。


7/2(火)
星はなぜ星形なのか」。……なぜだろう?


7/1(月)
左指に朝露がついてしまう。通り道の葉っぱぎりぎりを歩いているわけじゃないのに油断しているとまた今朝も。

松本大洋『ピンポン』(1)(2) 小学館。甘えと知りつつ言ってみる。スマイルが羨ましい、と。彼の言う「よその家で食事するの苦手なんです」。自分にもそういうところが少しある。


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2002.062002.08