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日記のフリindex

01.1202.02

日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。

日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0201.htm#20020101


2002年1月

その他

フランク・キャプラ『群衆』
ウィリアム・ワイラー『ローマの休日』
ビリー・ワイルダー『昼下がりの情事』
テオ・アンゲロブロス『永遠と一日』
ジングル・マ『東京攻略』
金子修介『クロスファイア』
アントワーヌ・フークア『リプレイスメント・キラー』
ペドロ・アンモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』
リドリー・スコット『ブレードランナー』
『市川染五郎と歌舞伎へ行こう!』
杉浦さやか『マーマリング・トーク』
水野晴郎『シベリア超特急』@新文芸坐
水野晴郎『シベリア超特急2』@新文芸坐
佐藤純彌『新幹線大爆破』@新文芸坐
ピーター・コリンソン『そして誰もいなくなった』@新文芸坐
アルフレッド・ヒッチコック『めまい』
テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』
藤野千夜『少年と少女のポルカ』
アンリ・ベルヌイユ『冬の猿』
スコット・ワイパー『ハード・トゥ・ダイ』
佐藤純彌『新幹線大爆破』
ウィリアム・ワイラー『ベン・ハー』@ル テアトル銀座
近藤史恵『桜姫』
ブライアン・デ・パルマ『ミッドナイトクロス』
ナンニ・モレッティ『息子の部屋』@渋谷シネパレス
フアン・カルロス・タビオ『バスを待ちながら』@シネ・アミューズ
黒澤明『デルス・ウザーラ』
ゲイリー・トゥルーズデイル&カーク・ワイズ『美女と野獣』@東京アイマックスシアター
モフセン・マフマルバフ『サイクリスト』@シアター・イメージフォーラム
平田オリザ・青年団『冒険王』@こまばアゴラ劇場


31(木)
あの迫力をもう一度味わっておきたくて、帰り、突発的にゲイリー・トゥルーズデイル&カーク・ワイズ『美女と野獣』@東京アイマックスシアターへ寄ることにした。映画も明日の2/1までですが、東京アイマックスシアター自体が明日で閉館してしまうのです。明日の最終回には全員にバラの花1本が配られるそうです。「中央から後方のほうが良くご覧になれまーす」と係員の人が言ってたけど、みづらくてもまた一番前の中央で。前に人の頭のないのがいいよ。やっぱり胸が震えた。「小鳥」と「図書室」とどっちが好きかというとやっぱり「小鳥」のほうなんだなあ。

結果が出たとたん駅名にゲ〜。確かに以前やったのと結果が違う(駅名もなにも)。当たってないと思う。歯浮くし。

28日にお芝居をご一緒したMneさんが漫画を貸してくれた。やまじえびね『LOVE MY LIFE』祥伝社,2001。女性同士の恋愛みたいです。「どうしたんですか?」と聞くと、「朝日新聞の夕刊に時々漫画評が載っていて、それを見て」と言われました。表紙に並んでいる二人の女性の右側の人と私の髪型似てる。でも左側の髪型に憧れるなあ。


29(火)
会社へ行く道には大きく2つあって、1つは横断歩道を使いもう1つは歩道橋を渡る。信号に間に合うように走ったり急ぎ足になっていることが多く、これが生活にも「あせり」を生じさせている原因のような気がしていたので、年末に読んだ整体の本の中の「あせっていると思ったときは信号を一つ待つくらいの気持ちで(意訳)」と書かれていたのを良く良く思い出すようにしている。今朝は、歩道橋を渡りたい気分になってていた時、ちょうど信号の赤で足止めをくい歩道橋を選ぶことができた。

歩道橋は見上げるのもそこから見下ろすのも好きな建造物で、そういえば電話をかけてくるときにはいつも歩道橋からだった友達がいた。あ、いま犬が通った、とか、私に言ったのではないこんにちはが聞こえたりして会話が臨場感と多重性をおびる。携帯電話の携帯らしさが良い方向に効いた会話。

会社でお茶を飲むために今日からマイカップを持っていくことにした。気に入っているのに使っていないカップがもったいない。コーヒーよりジュースより今は緑茶が飲みたい。入院中(食事に出るお茶はほうじ茶のみでほうじ茶嫌いになってしまった)に使っていたアフタヌーンティーの茶コシ付青い鳥カップ。栗の風味のついた緑茶を飲む。

ドナルド・ペトリ『デンジャラス・ビューティー』(米・2000)

まずは減点から。もっと面白くなりそうなのに、いまいち手を抜いているのかツメが甘いのか盛り上がりに欠ける。準備期間が2日間というのはきっちり仕込めないからもったいない。素も残っている面白さはあるけれど、変身後と素のコントラストが弱いから。他にもミスコン軽蔑してたのがあの程度で案外あっさり翻ったりとか。でも、強くてガサツなだけの人が、強くてきれいにもなってちょっと違う世界を体験してみましたおまけにハッピー! っていう気楽さがいいです。強くて美しいって羨ましい。全体的には期待通り楽しかった。

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2,3日前に見た夢。プールにかなりな高さの巨大な梯子(ジャングルジムの簡素系?)がかかっていて、人々がそこに登って座って本を読んでいる。私もちょっと無理してプールに張り出したところに出たはいいけれど、戻れなくなってしまったことに気付いて怖くなり、後ろを振り返って戻れなくなっちゃいましたと言うと女の子が無言で私のことを押した。落とされたと意識したときからどんどんスローモーションで下に落ちていって、水面ギリギリのところに来たときには水の表面がきらきらとした光のトゲのようになっていて、痛いのかと思ったら全然痛くなくて水に入ったか入らないかわからないまま目が覚めました。

森淳一『Laundry ランドリー』@シネ・アミューズの予告は映像と歌だけで文字は映るけれどセリフを喋っていなかった。砂浜にねっころがる、その図に青春を感じる。自分がもうしそうにないことをしているのをみると、青春って思う。その無防備さ。


28(月)
お芝居をみにいく前に急いで吉祥寺の緑碧茶園まで行き目当てのお茶を買ってきた。「福茶」。ほかに半額になっていたお茶も(\2,500が半額というのには惹かれた)。

『冒険王』@こまばアゴラ劇場青年団第42回公演。作・演出:平田オリザ。

イスタンブールの安宿に溜まるバックパッカーたちの数時間(厳密には午後から日が暮れるまで)を描いた作品。平田オリザの『演劇入門』(講談社現代新書)(→言及)を読んだことがあるせいか、印象的だったのは舞台への登場/退場の素晴らしさ。以前は放浪する旅に憧れていたものだったけれど、この芝居をみてその熱がいつのまにか醒めていたことに気付いた。あるいは芝居をみたからか。みおわってから『冒険王』というタイトルに改めて気付いたとき、いくらかの皮肉さも感じる。少なくとも、旅は場所を変えて逃げることではない、と思う、その気持ちは変わらずにある。


26(土)
ゲイリー・トゥルーズデイル&カーク・ワイズ『美女と野獣』(米・1991/2002)@東京アイマックスシアター。スペシャル・エディション。ラージ・スクリーン・フォーマット。

1991年版からカットされた幻の名曲を復活させ、1シーンごとに手を入れたそうです。そして、通常の10倍のラージ・スクリーンでみる映像は、映画が始まった瞬間、会場から感嘆のため息がもれたことでもその圧倒的迫力と美しさがわかります。

一番前の中央にかぶりつきでみていたため余計そうだったのかもしれませんが、自分が映画の中に入ってしまったようでした。一番最初の森の中のシーンの臨場感といったら鳥肌が立つほどで、村の場面に移りベルが歌い出した時には震える感動で泣きそうになりました。まったく、物語が始まってもいないのに泣いてどうするか? と気持ちを落ち着かせましたが、それくらいのすごさなのです。

今回のスペシャル・エディションは日本語吹き替えでの上映です。「Be Our Guest」は原語版のが良かったし、幻の曲「Human Again」のノリはちょっとピンと来なかったけれど、全体としては素晴らしかった。声のイメージが原語版とぴったり変わらず、日本語で表情のあるセリフを聞くということ、歌のうまさ、ルミエールとコグスワースのやりとりの絶妙な間、といった吹き替えならではの楽しさを味わうことができました。

ベルと野獣がお互いを思いあうようになる場面の数々は本当にあたたかい。図書室を案内する時、いたずらっ子のようにベルに目をつぶらせた後、彼女の目の前に手をかざして確かめるしぐさのかわいらしさ!、食事のマナーに一瞬顔をしかめたベルが彼を思いやる気持ちからとったスープの飲み方、そして、小鳥が手に乗った時の野獣の嬉しそうな顔ったらない。

ベルが木の陰に回りこみ自分の気持ちを歌う場面、彼女の頬に瞬間ふわっと紅がさすのです。それはもう微妙に。ダンスの場面は言うに及ばず、動きのある場面の躍動感には感動を超えてそれだけで胸がきゅーんとするほどの体験です。

ところで、魔法が解けて野獣から王子へ変わった時、今回あまりショックではありませんでした。以前より顔が良い感じの王子様……。1シーンごとに手を入れた際、「キャラクターの顔とボディを洗練させた」らしいのですが、もしや?

オープニングと繋がるラストのステンドグラス仕立の場面の、幸福に満ち溢れた色と表情に少し乾き始めた涙がまたあふれ出してしまう。

会場を去るときに思った以上に小さい子供が多いのに気付いて、それなのにぜんっぜん声が聞こえてこなかったんだ! と驚きました。

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みおわってスケートに行く。一週間前ロッカーに入れっぱなしで忘れてた時計を奪還。手巻きなので完璧止まっているはずが取り出して見たとたん秒針が動いたけど20秒くらいでやっぱり止まった。

池袋のジュンク堂に「吉田武 責任編集数学・物理良書50選フェア 「ζ&ψ」(ゼータとプサイ)」を眺めに行った。リンクでわかるとおり一冊一冊に熱い熱いコメントが付いていて未知の世界ながら興味を惹かれてしまう。それらをまとめて小冊子にまでして置いてありました。

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マフマルバフ家族上映という特集でモフセン・マフマルバフ『サイクリスト』(イラン・1989)@シアター・イメージフォーラムへ。64席は満席どころか椅子席まで出ていました。

奥さんの入院費用を稼ぐために一週間自転車に乗り続けることに挑戦した男の人。自転車という乗り物の選択がいい。常に運動が必要(眠れない)、食べ物・飲物のとりかたが難しい、そして不安定(竹馬もこれらを満たす乗り物かしらん)。その不安定さにハラハラ釘付けになる。それにつけても自転車でぐるぐるまわる範囲の狭さよ。ラストは斬新なようでありながら、ああ描くしかないような気もしてくる。不思議。

竹馬も当てはまる乗り物かも。

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雨が降る中電車に乗って帰ってくると雪がバサバサ降っていた。地面もうっすら白くなっていたのに、いま外を見たら雨になっていました。


25(金)
黒澤明『デルス・ウザーラ』(ロシア・1975)

人と別れるとき、少し歩き出してから振り返り合図を送りあう。とても好きな人、滅多に会えない人、もう会えそうにない人、そんな思いが人を振り向かせる。第一部の終わりで二人の別れ際お互いの名前を呼び合う場面がまっすぐに響いてきた。

第二部での再会から楽しいひとときを過ごすまでは、季節もまだ待ってくれている。しかし、めぐってきた冬は人生に例えれば終わりの時。キセルをなくしかけたところで大切なものをなくす時は自分の身代わりということを思い出し、いやな予感を感じ始めていた。虎を撃ってしまってからの彼の変貌は、やはり罪の意識が身体を蝕んでいったということなんだろうか。

お互いの友情…というよりは戦友というほどだろう…は成立していた。でも、「住む世界が違う」ということが個人同士のつながりをも超えて厳としてあるのもいやというほど突きつけられた。正直、あんなデルスを見ているのは耐えられなかった。つまり、第一部と第二部の対比は素晴らしいが対比のコントラストが効きすぎててみるのが辛すぎる

最後、デルスは銃ももちろん、そのほか何も持ち物を持っていなかったと言われていたけれど「密林を一緒に歩いてきた人」と表現された木の枝(杖)はちゃんとそこにあった。銃は命と引換えに取られたが、警察官の目には持ち物として認められなかったそれは残った。最後はオープニングへのつながりを思い出すと徹底的に残酷だ。

素晴らしい、けれど再びみたくはない……。そんな矛盾した気持ちを抱かせた作品。

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「なんちって」を逃げとして使うなら、その前に本音を書かなきゃいけないわけで、それは案外難しいことかも。と、そのとき微笑んだ私は気付いた。なに言ってるかわかんなくなってきた。


24(木)
フアン・カルロス・タビオ『バスを待ちながら』(キューバ=スペイン=フランス=メキシコ・2000)@シネ・アミューズ

バスを待つ人々であふれる待合所があった。1日に1回来るか来ないか。来ても1人乗れるか乗れないか。そんなバス待合所が舞台の物語。

みんなで行なうことが少しずつ大きくなっていき、離れたかった場所が離れたくない場所に変わってゆく。「ここにいたい」、こんな短い言葉を耳にするだけで口にした人々の思いに涙ぐんでしまう。みんなで作り上げた幸福感いっぱいの場所を見ていると、物語が一気におとぎ話の雰囲気をかもし出し始めた。

その“おとぎ話”が予感だったのだろうか、なんと今までみてきたものは夢ということがわかる。そう知ったときはあまりに悲しくてこの映画を嫌いになりそうになった。ところが、どうやらそれは一人を除いた全員が共通で見ていた夢のようなのだ……。

そして私もその夢を彼らとともに見ることができた。バスを待つ乗客ではないのに。

みんなで作って一緒に食べるご飯、ダンスするように雨のシャワーを楽しむ人たち、ペパーミントグリーンの壁、思い出そっくりの部屋、夢だった“図書館”づくり……。

この映画をみている間、私はずっと幸せでした。

蛇足:書棚にある書物と物語の雰囲気のギャップが素敵。


23(水)
ナンニ・モレッティ『息子の部屋』@渋谷シネパレス。

不在と欠落は突然やってくるのに、その状態に突然慣れるということはありえない。この映画でも再生が劇的に起こるさまをみることはできない。そして、それはとても正しいことのように思えた。

失った人を語るには家族という密度は濃すぎる。共通の思い出を持つアリアンナの出現は、風穴を開ける解放のきっかけに見えた。彼女はアンドレアにラブレターを送っていたけれど、アンドレアを失った家族の前に現れたときボーイフレンドを連れていた。家族にとって「アンドレアの死」という共通の思い出を持ちながらも、「しかし私たちは生きている」ことを体現してみせた存在なのではないか。死を受け止めながらも生に向いている存在。

彼女とボーイフレンドに結局朝までつきあうことになった家族は、離れがたくてそうしていたようにも思えて、その反面、朝になりいよいよお別れのときには、走りゆくバスのほうへ目を向けることはなかった。

そこに、劇的にではない、しかしなにかきざしが見える。抑制されたところに品を感じた。

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なんちってがなければねえ、なんちって。


22(火)
ブライアン・デ・パルマ『ミッドナイトクロス』(米・1981)

普通のミステリかスリラーかと思いきや、なんという展開で終わるのか!!!

ここで間に合うんだな、それが普通だもの、と思いながらもいやな予感がずっとしていて、その通りになってしまったというところからラストへのもっていきかた……。こんなオチのつけかたがあるなんて思いもしなかった。

悪者は結局裁かれず、彼は依頼されていた仕事をまっとうし……。仕事と愛をむりやりくっつけてしまった、ような気がする。しかし彼女の最後の絶叫をききながら煙草をふかすジョン・トラボルタの横顔の表情がものすごく“良く”、ぐっっと胸をつかまれて張り裂けそうな気持ちになった。

みている間はみおわったらさくっと寝ようと思っていたのが、興奮して感想を書かずにはいられなかった。


21(月)
月曜日の朝に外を見ると雨だとかなりへこむ。

久しぶりに買った本、近藤史恵『桜姫』角川書店,2002を読み終わる。筋の通った思想にぎくっとし、わが身を振り返る。それはまあいつものこと。そしてまた著者の作品を読むと機微や情念を感じ深いなあと思う反面、ただ感じているだけで私に深さの本質はわかっていないんだということにも気付く。つまり、私はおこちゃまなのだといつも気付かされてしまうのだ。読みやすさに甘えていられない厳しさがある。主人公の物語と寄り添うような少年の物語は、語り手による描写がほとんどだというのに(彼の直接の発話は「おめでとうございます」だけなのだ)、不在の存在感というものを確実に感じた。哀切さがたまらない。

銀京があれだけ作りこまれてる反面あっさり……というのがもったいないような気もしたけれど……。

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電車で隣に座った女の子がちょくちょく鏡を見て髪をとかして忙しく過ごしてた。あれくらい頻繁に鏡を見ればかわいくなれるのかもしれないと、かわいくない私は思う。それは違うと思いながらも彼女と自分の容姿を比べると正しい気もして、しばし考えにふけってみる。かわいいっていいですね。魔性のほうがいいけど。


20(日)
スコーンの会にお誘いをいただき吉井さんとともに谷口さんちにおじゃまする。手作りスコーンと淹れたてのコーヒーとワインにパエリア! 7時間くらいまったり過ごさせてもらった。お礼や感想って直接本人たちに言ったほうがいいことなんだからほかに書くことはないな。


19(土)
半年ぶりのスケートに行く。着替えて靴を履き、リンクに一歩踏み出して滑りはじめると思いのほかブランクを感じさせない調子でいける。なんだ全然オッケイじゃんというのと、ああやっぱり気持ちいいなあという気持ちでいっぱいになる。でも、いろいろやっているとちょっと足の筋肉が落ちてるのにも気付く。先生がにこやかで優しい気がしてそれもまたほっとした。

ウィリアム・ワイラー『ベン・ハー』(米・1975)@ル テアトル銀座。今日が初日で約1ヶ月の上映となります。普段は演劇などの舞台として使うところ。係員の態度がとっても紳士的で気持ちが良かった。

照明が落ち真っ暗な中で長い序曲を聴いているうちに映画をみるモードに切り替わってゆく。4時間を超える物語に少しも飽きることはなかった。

「イエス・キリストの話である」というようなことが文字で見えた。それは、映画をみていくうちにとても納得できることに思えてくる。そもそもキリストの誕生から映画は始まり刑に処されるまでが描かれて終わるのだ。神を信仰し、復讐を誓いながらもその御心のままに運命に寄り添い、そしてキリストと接点を持ったベン・ハーの物語。ベン・ハーの神への信仰告白物語のようだ。

というよりも、この物語は男の復讐譚と表現されやすい物語なんだろう。でも、復讐を行なうのをみてスッキリする内容ではない。そうしたら対決後のあの長い物語をなんと説明すればいいのだろう。この物語は、「復讐心で生きてきた男が、それをまっとうした後にも憎しみの心にとらわれて苦しむところから解放されるまで」と言いたい。

まとまらない感想として、

・悪い人間が改心せず悪いままでいるというのは復讐する側には救いですね、多分。というより、みている観客としては、かな。やっつけることを後悔しなくてすみます。

・カメラが引いたパンの状態で、人がごちゃごちゃいたとしても「この人」と「この人」に焦点を合わせることができていて、その二人のつながる線がピーッと見えるようなのがすごい。


18(金)
実は先週の土曜日、意を決してスケートに行くも先生に会えずに帰ってきてしまった。半年近く行ってないスケートとはいえ、靴はロッカーに預けっぱなしだしこのままやめてしまうのも口惜しい。夜、勇気を振りしぼって(電話が嫌いな上に携帯で、かつ不義理の三重苦)先生に電話をしてみると、12時からが1時からに変更になったと言われ、先週にこそ電話してから行けば良かったと思う。「じゃあおまちしてます」と言われて一仕事終えたような気になった。これで「さぼる」という選択肢は消えた。良いことだ。

佐藤純彌『新幹線大爆破』(日・1975)土曜の夜中にみたもののオリジナル版。フランス語を話していないのが今度は逆に物足りなかったりして。フランス語版は、犯人像の掘り下げ、車内でのパニック、爆弾を発見する方法の模索など、すべてにおいて削っていたのだということがわかった。腑に落ちなかった部分(宇津井健が、まだ爆弾が残っている可能性があるのに列車を止める英断をした点)が理解でき、深みを感じた部分もあった(あの英断を彼は悔い、無事爆弾を除去できたあとで退職を願い出た)。犯人への同情は何もなかったけれど哀しさを感じた。つくりかたがうまいんでしょう。

髪を切ると1週間くらい落ち着かない。それを過ぎてもふいに落ち込むことがある。それはもう突然の嵐のように。5年くらい経つのに未だに繰り返している。人に何言われてもダメなものはダメなんです。違うな、ダメな“時”はダメなんです。結局、自分はこの髪型を好いていないと知っている。落ち込んでいない時はまあいいかと錯覚してるだけで、落ち込む時は嫌いなのだと思い知る、それだけのこと。いつまで経ってもコンプレックスの源なんだなあ。……って書けるだけ良いのだということも知っている。

意識しているやめられない不毛な問いの一つ。


17(木)
スコット・ワイパー『ハード・トゥ・ダイ』(米・2000)

友情の芽生え? なんていう余韻を全く与えてくれないことに驚き、その繰り返しと徹底したところに感服してしまう。それは、ラスト20分、10分、5分とどんどん盛り上がってゆく展開のための抑制だったのかもしれない。

そして、余韻どころか湿度さえ感じられない乾いた感じがあった。かと言って、「冷たい」のとはどこか違う。画面の明るさ、つまりは陽の光のもとでの戦いのせいなんだろうか。天気で言うなら湿度のない晴れの日、そうとしかいえない不思議な雰囲気。

明日、友達と芝居をみにいくのに待ち合わせも決めてないのでメールを入れたら28日だった。ぽっかり。21日にお蕎麦を食べに行きましょうとNさんからお誘いがあったのはついさっきのメールで、しかし実は気乗りしない。どう断ろうか考えてしまっている。


16(水)
昨晩、本当に11時すぎに寝たのに寝坊して走りづめになる。いつもより早く寝ると誤動作するのかー。年末からこれで3度目。3度あったから当分ないはず。いつもギリギリ間に合うってのが悩ましい。

借りたいものは貸し出し中、別のところでは見つからず。見つけたと思ったものは題名間違えてた……。『ハード・トゥ・ダイ』を借りたかったのに、『ハード・トゥ・キル』を借りたのに気付いたのは、ビデオをセットしてオープニングの出演者を見てたときだった。は? スティーブン・セガール??? そんなはずはない…。タイトル確認したら“キル”だった。かなりショック。みない。

アンリ・ベルヌイユ『冬の猿』(仏・1962)。ジャン・ギャバンとジャン・ポール・ベルモント。冬の花火。春に続かない冬。人生は季節にたとえられる。そのことを、ラストシーンの字幕でいやというほど思い出させられた味わい深い作品。


15(火)
姪から手紙をもらったけれどなんて書いてあるか最後のほうになると読めない。似顔絵付。そこはかとなく似てる。ちゃんと髪が短い。

マリオ・デル・モナコというテノール歌手の歌声を聴き名前を知る。おぼえがきとして。

11時に寝ると決めた。


14(月)
遠いところへ引っ越すことになって自分が今の生活を離れたくないことに気付いたとき目が覚めた。一番最初に思ったのは「・・・・・・・・・・」ということで、できていない自分に疑問を持っていたから夢に出たんだと思う。『クリスマス・キャロル』での目が覚めたあとのスクルージじいさんみたいな気分だな。

テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』(英=米・1985)。歪んだ整合性って感じ。最初おかしくやがて恐ろしき、どうしてこんなバランスが取れるんだろう。変な言い方になるけれど、普通の人の整合性のとれてない話より、いっちゃってる人の(その人自身の中では)整合性の取れてる物語のほうが断然面白いものな…と、ふっと思ってしまった。考えようによってはハッピーエンド

藤野千夜『少年と少女のポルカ』ベネッセコーポレーション,1996を読み終わる。「少年と少女のポルカ」「午後の時間割」の二編。二つを読み比べると、絶対「午後の時間割」のほうが先に書かれたものだと気付くぎこちなさがあるのに、その間はたったの4ヶ月、「少年と少女のポルカ」は、ちゃんとこなれている。スカートとキュロットって女にしてみれば似たようなものじゃんと思うのに、どうして男にとってはそれほど違って見えるんだろう。ただ、キュロットよりもスカートのほうが裾のなびきが強く感じられて、着けている人にも見ているほうにも夢はあるかもしれない。

11日に書いた、

「恋する時の気持ち」を読むんだったら、異性間より同性間のほうが「好きという気持ち」の本質だけを眺めている気になる。ピュアさを感じてしまう。そんなのは幻想かもしれない。でも、不純物の中から純粋なものだけを取り出してゆくことっぽい。

これは異性間と同性間の恋愛を区別している発言でもある。同性間の恋愛を読みながら上で書いたことを思わなくなったとき、つまり何にも感じなくなったとき、区別しなくなったことなんだと思う。


13(日)
文芸坐でのオールナイト、「“シベ超”祭り」に行ってさっき帰ってきたところ。お茶飲んでとりあえず寝ます。

「“シベ超”祭り」の内容は以下のとおり。前売完売、当日券で入れた人は20人ほどだったらしい。ざぶとんもない“立見”だった人たちも数名。

トークショー:水野晴郎/みうらじゅん/西田和晃(佐伯大尉)
水野晴郎『シベリア超特急』(日・1996)
水野晴郎『シベリア超特急2』(日・2000)
佐藤純彌『新幹線大爆破』(日・1975)
ピーター・コリンソン『そして誰もいなくなった』(英=独=仏=伊=スペイン・1974)

トークショーは、みうらじゅん氏の司会で“シベ超”が影響を与えた映画5本(WOWOWでの映画宣伝番組を兼ねていたようだ)の紹介と水野氏のコメント、コントならぬ“シベ超”名場面再現、『シベリア超特急3』の音声なし予告編上映。水野晴郎の憎めなさにちょっと認識が変わってしまった。

水野晴郎『シベリア超特急』(日・1996)
結局この1年で3度みた。いくつかバージョンがあるらしく、今回みたのは「ディレクターズカット・アメリカ版」。プロローグと2度のどんでん返し(?)が加わってた。最初のどんでん返しで「なるほど、なかなかやるじゃん」と思い、これでやっと普通の映画をみたときのように評価できるよ…と思ったのに続いて起きたどんでん返しの貧乏くささに一気に萎えてしまい、やっぱりこの映画は評価不能だ、と思った。最初のところでやめておけば、かなり評価高かったのに(多分)。

それでも、どんでん返しもない一番最初に発売されたビデオのバージョンよりいいかもしれない(慣れもあるか?)。そして、ビデオでみるのと映画館でみるのの違いなのか、妙な魅力を感じてしまった。

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水野晴郎『シベリア超特急2』(日・2000)
1あっての2です。オープニングからして「ちょっとスマートになったじゃん!」と思わせるものがあるものの、バカな踏襲も忘れてはいない。全体的にかなり進歩が見られる。でも、それはベテラン揃いの役者さんたちのおかげかもしれない。ベタベタくさくさの芝居であっても水野晴郎の演出を超えている。

恐ろしいまでのご都合主義はさらに冴え、一同を集めての推理披露では大爆笑の渦が巻き起こる。ラストシーン間際、水野晴郎の行なったとある仕草に爆笑と拍手とそして若い男の人の「かわいい!」というかすかなつぶやきが聞こえた。思わず言ってしまったその物言いは、しかし、その場面をみていた誰もが感じた気持ちだったと思うよ、少なくとも私は同意。

2つをみて、自分の中で“シベ超”に対する評価がますますわからなくなってきてしまった。天然なのか策士なのか、全然わからないところが悩ましい。

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佐藤純彌『新幹線大爆破』(日・1975)
『スピード』の元ネタと噂には聞いていましたが、これは素晴らしい。ただし、フランス語吹き替えに日本語字幕という変り種で、おまけに本編158分よりも50分近くのカットがあり、高倉健ほか犯人側の背景が全部略されているという話。確かに、犯人の意図は何も見えないためただの金欲しさとしか思えず、オリジナル版をみる必要があるなと思った。それにしても、高倉健、丹波哲郎、千葉真一、宇津井健などがフランス語を話しているのが最初おかしくておかしくてどうしようかと思った。「俺だ」→"C'est moi."「要求はなんだ」→"Que désirez-vous?"こんな感じ。

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ピーター・コリンソン『そして誰もいなくなった』(英=独=仏=伊=スペイン・1974)
朝の5時を過ぎていて帰る人も多く、「そして誰もいなくなった」とは言わないまでもかなり人数が減ってきてた。本当は'74年のルネ・クレール版を上映するはずだったらしいのに手違いでこのバージョン。ルネ・クレール版をみたかったなあ。かつてみたことあったのは、このバージョンじゃなかったみたいだ。

今までみた3つと比べるとテンポが違ってちょっと眠くなる。少しだけ寝ました。それにしても、原作との結末の違いに原作の虚無感を改めて認識し、あの恐ろしさを思い出してしまった。

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アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(米・1958)

ああいう結末だからこそ評価できる。彼女に良心の呵責が感じられず、犯罪者が現れたのかとおびえて逃げて飛び降りたというのがいい。後味悪いし恐ろしくはあるけれど。犯罪の主犯が結局のうのうとどこかで暮らしているのに、スコッティのこれからは?というやるせなさも良いし。あの眼鏡の女性(3週間だけの元婚約者)はこの物語の中では報われなかったけれど、この映画が終わった“これから先”に本当に彼の支えになるのかもしれない。


11(金)
小沢健二メールマガジンのvol.3が届き2/27に発売されるアルバム全12曲の曲目を眺めていると変わった部分はまだわからないけれど変わってない部分は確かにあるような気がした。

待っている本が届かないので、杉浦さやか『マーマリング・トーク』二見書房,2002や、藤野千夜『少年と少女のポルカ』ベネッセコーポレーション,1996を読みながら待っている。連休が明けてからになりそう。

『マーマリング・トーク』は、『お散歩ブック』『わたしの日曜日』(ともにベストセラーズより)など、彼女のイラストと日常描写に豊かさを感じる人ならば同じように魅力的な内容であること請け合いです。身近な人たちにだけ配っていた個人新聞をまとめて本にしたもの。こういう才能ってうらやましい。

藤野千夜『少年と少女のポルカ』ベネッセコーポレーション,1996。10ページ目でぎゅっときて、12ページ目でハッ? とした。

男を好きなことで悩むのは自分が生まれて来たことを悔いる気持ちにもなって歩道橋を渡るたびダイブしてしまいそうな衝動を沸き起こらせたものだったが、好きな男の子のことを悩むのはたとえ先行き手痛い破局が待ち構えていようともどこかに希望が残されているぶん仄かな温かさが感じられた。(p.10)

「恋する時の気持ち」を読むんだったら、異性間より同性間のほうが「好きという気持ち」の本質だけを眺めている気になる。ピュアさを感じてしまう。そんなのは幻想かもしれない。でも、不純物の中から純粋なものだけを取り出してゆくことっぽい。そうすることに何か名前が付いてなかったっけ。

今日いきなり興味を持ったもの。本格焼酎。飲んだからではないです。


10(木)
朝、コンビニでホットレモネード飲料を買ってから会社に行くことが多い。喉に熱熱のレモン味が通るのがいいんだ。サントリー「なっちゃんホットレモネード」、カルピス「ほっとレモン」、ポッカ「ホットレモン『ほ〜っ』」。並べた順番=甘さの強い順。ポッカが一番レモンのくしゅくしゅ感はあるかもしれない。3つの中で選ぶとしたらカルピスのでしょうか。

『市川染五郎と歌舞伎へ行こう!』旬報社,2000を読み終わり、「何がわからないのかわからない」というのからは解放されたかもしれない。演目解説には人物相関図が載っているものもあり、それを眺めていても人間の絡み方が複雑に思われ(というよりは狭い世界の中でいりくんでいるからか)、殺し殺され復讐し、義理と人情交錯し、物語にメリハリが効いていてとっても熱いものを感じる。とはいえ、もしみるのだったら、まずは隈取や鬘、衣装など見た目を楽しむ気分で体験してみたい、です。


9(水)
家に帰ってきて顔を洗っていたら、がくんという音がしてブレーカーが落ちた。まっくら! 懐中電灯もないし、いやこりゃまいったな、このまま朝までもう寝ちゃおうかしらんと思いながら、クイックルワイパーを持ってブレーカーのところまで行き、見えないので適当にえいえい上の方に押しやっても全然手ごたえがない。とにかく明かりがないとどうしようもない……、はっと気付いて玄関を開け、外の光を入れてブレーカースイッチを確認。なんのことはない手で届く位置でかくして光は復活したのでした。

リドリー・スコット『ブレードランナー』(米・1982)。DVDのディレクターズ・カット版にて。

未来は暗くて太陽がなくて雨が降っていて冷たくけむっていた。反して、目に映る映像は美しい。たしかにそう、自分の心の中にある未来のイメージはこんなだ、と思った。でも、それはこの映画のあとに作られた何か他の映画をみて作られたイメージだったのかもしれない。

最後の死闘のあと、鳩が飛び立った方向に一瞬見えた青空が幻のようだった。

作る側は人間そっくりに作りたいと思うのだろう、けれど、ロボットは人間にあまりにも近づきすぎてはだめだと思う。人間との差違が必要で、ロボットとしてのぎこちなさが残る感じ、それを愛くるしいと思うような気がする。というのは前にも書いたことがありました。


8(火)
とても頭にきたことがあって誰かに言って発散するか日記に書くと決めてたけど数時間経った今、どうでもよくなってきた。書いてしまうと消さない限り残るから、ふとしたときに目に入ってきっとイライラする。書かないのが一番。

ペドロ・アンモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(仏=スペイン・1999)

いろいろな母を登場させただけでなく、登場した人物それぞれの背景が凝っている分、散漫な印象。セクシュアリティの問題を絡めるのも良いけれど、「母というもの」と「セクシュアリティ」がうまく混ざってなくてそれぞれが我を張っているような物語に思えてしまった。

息子が事故にあった時の図は、息子から見た最後の映像のようであり、母が事故にあった息子を見ているのではない。母の姿が息子の姿を眺めているのではなく、息子はすでに肉体としての死を迎え、彼の意識だけがそこにあって母の姿を眺めている……、そんな映像だった。

いつもの生活から、何かが、誰かが、それだけが欠けてしまったとき、いつもの生活だからこそその欠けを強く意識してしまう。そんなとき、どこへ移動したって思い出は一番近く心の中にあるものなのに、その場所を離れたくなるのはなぜなのだろう。「今の自分」を知らない場所へ行きたくなるからだろうか。


7(月)
先生相手にものすごいボケをぶちかましてしまって二人で大笑い。面倒なので説明はしませんが、言った後の間で「ボケてしまった?」とピンと来るものだと思った。それから、自分でも「あ、こういうのをきっと天然ボケというんだ……」とわりと冷静に判断してる。

『市川染五郎と歌舞伎へ行こう!』旬報社,2000 というのを読んでいる。歌舞伎に興味はあっても何がなにやらわからないので、簡単そうなこの本を。第二章が、「歌舞伎座ってこんなところ」「チケットを買うために」「舞台構造」「歌舞伎の舞台裏を覗いてみよう」「歌舞伎座周辺食事ガイド」「歌舞伎を楽しむヒント」という内容で、細かなイラスト付なのがわかりやすく楽しく、一番最後の「歌舞伎を楽しむヒント」を読むと「それでいいんだな」と気が楽になるのが嬉しい。行ってみようかという気になる。今は、第三章の演目解説を読んでいるところ。

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アントワーヌ・フークア『リプレイスメント・キラー』(米・1998)。チョウ・ユンファのハリウッド進出第一弾。

ジョン・ウー&チョウ・ユンファを知っていると、この銃撃戦は物足りなく思う。画面がごちゃごちゃとして美しくない。「殺し屋の最後の仕事」って決まりきってる気がする。そして、チョウ・ユンファはもっとかっこいいぞー。


5(土)
寝ようとTVを消そうとしたときに、金子修介『クロスファイア』(日・2000)が始まったのでみることにした。原作を読んでいないのであれこれ言えないですが、パイロキネシスが人を傷つける時に使うナイフやピストルと同じように“ただの”武器に見えてしまい、矢田亜希子自身に能力を使うことの葛藤があまりない感じだったことにもやもや感が残りました。超能力を持つことの哀しさのようなものが薄かったです。

適当に食べたり飲んだりテープ聴いたり昼寝したりTVを眺めたりして気付いたら夜中でした。外出しなかったけどいつもと違ってあまり落ち込まない。電池切れっぽい気分です。


4(金)
仕事始め。朝起きるのは気が重いけれど、それを除けば長い休みに少し息抜きを加えられてすがすがしい気分だった。空気は冷たいし。休みが3日以上続くとなんだか落ち着かなくなって、気が滅入る。休みが終わるのがいやだからです。

ジングル・マ『東京攻略』(香港・2000)

みはじめてすぐに肩のこらない内容だとわかったので、気楽な構えでみることができました。手を替え品を替え、小道具使いまくりのアクションは面白い半面あまり迫力がなかったけれど、血の出ないアクションていいですね……、これも気楽にみられた原因。阿部寛の怪演や渋い仲村トオルも見られますが、物語は、凝っているわりに随分いい加減だったと思います。日本の予告編は映像のつなぎ方も勝手に付けた主題歌も紹介の文章も映画を適切に表現していなくて、現地版のほうが断然みたくなる出来でした。


3(木)
10時くらいから復路の駅伝を見たら昨日と順位が全然違ってる。眠ってる間に何があったんだ! 往路復路とどんな順位の入れ替えがあったか説明できないほど面白い内容でした。

会社の人が年末に貸してくれたニコラス・ツェのライヴをみた。パーフェクTVを録画したものだそうで、間にはさまるCMを見るとこれはまんま香港のチャンネルなんだとわかる。わからないながらも番組紹介が面白い。各々の番組紹介のあとに時間表が出て、東京の2つ下が美国西海岸、アメリカでも放送してるらしい。わからない地名がほかにいくつか載ってた。

テオ・アンゲロブロス『永遠と一日』(仏=伊=ギリシャ・1998)

止まっているかのように静かに静かに動いてゆくカメラのせいで、画面をじっと見ているにも関わらず「気付いたら近づいていた/移動していた」そんなふうに感じる映像。近づいてもうるさくない、遠くても暖かい。手前に老作家と少年を、遠くにバスを配置した場面で、二人にピントを合わせバスを少しボケさせた映像が、二人がバスに乗ろうと決めた瞬間バスにピントが合う、しかし、それもまたひっそりと……、そんな当たり前にも思える映像がひどく印象に残った。

永遠と一日。明日は確かにただの一日。でも明日という言葉をつかって希望を含んだ思いを綴ることができたら、明日を起点にまた次の明日を語ることもできるだろう。


2(水)
駅伝の合間に入るCMは、ビールのものが多かった。Love Beer?は黒ラベル? 酔っぱらって前後不覚のケリー・チャンへ36歳の男の人がささやかな介抱をするCMが良い。

NHK-BS2でビリー・ワイルダー『昼下がりの情事』(米・1957)。これも再びみたもの。

ゲイリー・クーパーとオードリー・ヘプバーンの年齢差が気になる(実年齢が56歳と28歳のときの作品)。二人の性格は遊び人か純情かしかわからないので、お互いのどこに惹かれたのかは置いておいて単純に「プレイボーイ」対「純粋娘」の対決として楽しもう。純粋娘が悪ぶっているのがバレてやっぱり純粋娘でした、ってのは一番“効く”と思います。その逆を考えてみてください。性悪女が純粋ぶってましたが化けの皮がはがれましたじゃ本当に愛想つかされておしまいだもの。

ヘプバーンの父親役であるモーリス・シュバリエと楽団が良かった。


1(火)
毎年初詣には神田明神へ行きます。1日に行くのは初めてでしたが予想していたほど混んでいなかったです。池袋でいったん降りて街中をぐるっと歩いてみると、人のいないところといるところが極端に分かれているように思いました。

昔と同じように31日と三が日はお店も全部休みというのが悪くないと思っても、いったん1日や2日から営業にしてしまったら、もう戻すことはできないんだろう。

フランク・キャプラ『群衆』(米・1941)。前半、“ジョン・ドー”の唱える精神や支持者たちの登場などなんとなく好きになれない気持ちで眺めていたものの、後半のゲイリー・クーパーの真摯さに心打たれるものがあった。

物語の作者と物語自体は、わけて考えたい。たとえば、「これは実話です」と言われ感動して聞いた物語が実は作り話だったと聞かされたとしても、物語自体に感動した事実は残り、感動を取り消すことも、物語を否定することもできない。そんなことを思った。

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NHK-BS2で放映していたウィリアム・ワイラー『ローマの休日』(米・1953)をみて泣く。中学時代にみたときにはかなりショックを受け呆然としていた私に一緒に観ていた母は一言「人生ってそんなものよ」と言いましたが、現実とおとぎ話のバランスが良いこの物語が最後きれいに決まるためにはああなるしかないのは今は理解できる。現実を考えても。今も昔もせつなさの残る映画であることに変わりはないです。グレゴリー・ペックのまっすぐなまなざしもまた良かった。

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2001cooler。31日に出したものから少し減らしました。少しずつ削ってゆく、か?


31(月)
モーニングショー、朝10:00からの山中貞雄『人情紙風船』(日・1937)@シブヤ・シネマソサエティをみにいく。

29歳にして戦争で亡くなった山中貞雄の遺作。長屋暮しの人々の生活を描く。これが武士の妻というものなんだ……。全体を覆うやりきれなさにほんの少しのユーモアを感じるとき、かえって哀しくなる。地面に打ち付ける雨の描写は、ぞっとするほど美しく、冷たい。

人を通じ「死」について考えることの多い年でした。焦り気味に過ごしているような気がしているので、前のめりではなく後ろに重心を置いた姿勢で毎日を送りたいです。

2001coolestならぬ、2001cooler。全然coolじゃないよ…。


29(土)
遅く起きて年賀状を書いてから新宿TSUTAYAにビデオを返して借りて。午後の電車は空いているのに街の中は異常に混んでいた。

アニエス・ジャウイ『ムッシュ・カステラの恋』(仏・2000)感想)のCMをTVでみた。予告編なんてメじゃないほどの最っ低ーなつくり。映画の映像を流している中、フランス人とおぼしき男女数人が「ムッシュ・カステラの恋、いいです」「ムッシュ・カステラの恋、楽しいです」「ムッシュ・カステラの恋、みてください」などと繰り返し言うだけ。勘弁して。

ジョン・カサヴェテス『グロリア』(米・1980)を再びみる(前回感想)。スローモーションだからこそ動きと勢いを含み、それが画面に収まりきれずに広がってってしまう豊潤なあの場面には本当ぐっとくる。あの場面には魔法がかかってる。

年末年始で山中貞雄『人情紙風船』(日・1937)ロマン・マチャーノフ『チェブラーシカ』(ロシア・1969-1974)を考え中。

“おやしゅみ”


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