日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。
日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0302.htm#20030201
2003年2月
読・観・聴・その他
ディック・ブルーナ『ちいさなうさこちゃん』『うさこちゃんとうみ』
ユリー・シュルヴィッツ『よあけ』
五味太郎・小野明『絵本をよみつづけてみる』
高峰秀子『台所のオーケストラ』
北村薫『盤上の敵』
山田風太郎『コレデオシマイ。』
『バレエの美神』@Bunkamuraオーチャードホール
清水博子『街の座標』
森下典子『デジデリオ
前世への冒険』
黒沢清『アカルイミライ』@シネ・アミューズ
『寝盗られ宗介』(作:つかこうへい/演出:山崎銀之丞)@紀伊國屋サザンシアター
ジャワーハルラール・ネルー
大山聡訳『父が子に語る世界歴史』
嶽本野ばら『ミシン』
武藤康史『国語辞典の名語釈』
2/28(金)
視力が落ちた気がする。
2/27(木)
お菓子の本を読みながら眠ったら夢にお菓子が出てきて目が覚めてなんとなく満腹。
武藤康史『国語辞典の名語釈』三省堂,2002 (→Amazon)を読み終わる。
2/26(水)
朝一番にかけた電話の保留音が「美女と野獣」。顔がにやけてしまった。いい気持ち。もうちょっと聞きたかったな!
……などと書きながらフンフン歌ってる。
相手が自然に行なっている行為に対して私が嬉しいと思ったとき、それを言葉で相手に伝えるべきか、そんな馬鹿なことでときどき迷う。「嬉しい」と言うとその場で伝わるけどそれで終わってしまうし本当に伝わっているのかひどく不安。だったら、されて嬉しかったことを相手にもするほうがいいのではないか、と。なぜ言葉と行為の両方ではだめかというと、「こうされて嬉しかったからこうするのです」と行動の説明をすることになってしまうため。行動の裏のあからさまな感情を見せるのが恥ずかしい。それよりも、何も言わずに行動して「あれが嬉しかったから同じことをしたのかな」と相手がひっそり感じる程度がいい。相手が嬉しく思ってくれれば私も嬉しいし、それは言葉にしてもらわなくていい。でも、そんな時間をかけるより今この瞬間の言葉のほうが合っている場合があるに違いない。……その見極めがひどく下手だ、このごろ特に。迷う。そして言葉で伝えそびれる。結局行動にもうつせない。ネックなのは私が大げさに嬉しく思っている気がする点にもある。
と、書くことがすでに間違っている。
問われても答える言葉はナンデモナイ。
2/25(火)
佐橋法龍『禅』を読み終わるも目当てのエピソードが出てこなかった。おかしいなあと改めて本を確認すると、出版社が実業之日本社(1980年)だった。私が読みたかったのは角川書店の…。
永平寺と総持寺の抗争(知らなかった!)、戒名の原則、公案のことなどに触れている。基本にあるのは「ちかごろなっとらん」。
たとえば、世間では、「禅の文化」などということをよくいう。禅寺の建築とか庭園、あるいは禅僧の手になって書・画などを、禅文化の粋として多くの人びとが珍重している。だが、こういったものは----特に禅寺の建築とか庭園は、禅僧が常に遠ざけておかねばならない権力者のもつ、力と富を背景にしなければ、絶対に生み出すことのできなかったものである。禅僧が、最小必要限度の「物」にあまんじ、無所得(無)の精神世界を、ただひたすら展開していったならば、生まれてはこなかったものである。つまり、禅文化の粋といわれる建築や庭園は、禅の本領を逸脱した禅匠たちの道楽が生んだ、いわゆる文化財----ということになろう。(pp.247-248)
ちなみに著者はミステリも書いており、たとえば講談社ノベルスから3冊出してる。
..
嶽本野ばら『ミシン』小学館,2000(→Amazon)。「世界の終わりという名の雑貨店」「ミシン」の二編。
「世界の終わりという名の雑貨店」の特になにが印象的かって、手紙のあとの僕の独白が。この部分をもし欺瞞で“美しく”描いたならば全然美しくないと知っている著者と「僕」。美しいものを醜いもの込みで見つめた結果、醜いものが消え去りそこには美しいものだけが残っていた。
「ミシン」を読みおわると、「愛しすぎるからこそ自分の手で殺せる」というのに説得力を感じる。100まで振れた針が、100振れたまま同時にマイナス100反対方向へ振れることもありえるんだろうな、と。もちろん愛しているからこそ殺せるのだろうけど失恋のエネルギーもそれを後押ししている気がする。
2/24(月)
春の雪。
「ゆるす」なんて嫌いな言葉だったのに、土曜日にみた『アカルイミライ』の中で耳にしたときはピーンと強くて惹かれる言葉として存在していた。
「ゆるす」という言葉に愛をみたからか。それも、傲慢ではない愛。与え、無償に投げ出す愛。愛? そこまで言うのは大げさか。
「ゆるす」っていう言い切った言い方をしていた記憶がある。「ゆるすよ」「ゆるそう」じゃなくて、きっぱりとして強い「ゆるす」。それで、愛だなんて感じたのかもしれない。
自分が口にするとすれば、「ゆるす」ほうじゃなくて「ゆるして」のほうだなあ。誰に対して何に対してかが明確でないままそう思う。
「きざし」で終わる映画は好き。ただし、「きざし?」と「?」がつくくらいのわかりにくい目立たなさでちょうどいい。
2/23(日)
ひな人形を出した。
ジャワーハルラール・ネルー 大山聡訳『父が子に語る世界歴史』(1)みすず書房,2002(1959)(→Amazon)を読み終わった。
すごく時間がかかってしまった。おもしろおかしくの世界史ではなくて、父から子への愛に啓蒙をプラスの高尚な世界史。博識に恐れ入る。
でも、獄中から届く父親からの手紙がこれだけだとしたら私はすこーしさみしいかもしれない、な。子供の気持ちになったら嬉しい内容の気がして読み始めたのに。会わないでいて、おまけに自分が獄中という限られた世界の中に入ってしまったら、書けることも限られていってしまうんだろうか。やっぱり娘に手紙を書きたいし、書けることの少なさを補うために、歴史を教えてゆくという手段を取ったんだろうか……なんて思ってしまった。
2/22(土)
ちょっと無理して外に出ないと。
黒沢清『アカルイミライ』(日本・2002)@シネ・アミューズ。
「僕を許して」というのは藤竜也(有田真一郎)個人に言ってるんじゃないと思った。そしてそれを受けての返事も仁村雄二(オダギリジョー)個人に宛てたものではない、と。
私の心の中をだだっぴろい砂漠にたとえるとしたら、局地的にではなくあちこちに雨が降った。降った場所に関連性は(今は)見つけられないけど、もしかしたら後で気付くかもしれないし、雨が降ったことをそのまま忘れるかもしれない。それでも一粒の雨が水の源に落ちたような確実さを感じてもいる。つまり、こういうのを「沁みる」というのだろう。私にとっては魅力的な映画。そもそもフィルムの色あいがとても好きだった。
『寝盗られ宗介』@紀伊國屋サザンシアター。ラスト、宗介が胸を押さえるのと同じ瞬間に私も胸がキューンとしたけれど、それでもやはり、つかこうへいはもう古いのではないかという印象は否めなかった。
新文芸坐の3/1のオールナイトは、『惑星ソラリス』『未来世紀ブラジル』『2001年宇宙の旅』!!! 朝の4:25から『2001年宇宙の旅』って素敵……。
2/21(金)
森下典子『デジデリオ 前世への冒険』集英社文庫,2000(1995)(→Amazon)。友達が探していた本で、もしや品切れかと思ってあせって押さえましたが、まだ普通に入手できると思います。あなたの前世はデジデリオという彫刻家です、と前世が見える人に言われた著者がデジデリオを調べてゆく軌跡。著者自身は前世なんて信じないという考え方なので、いつも冷静に調べ物をしてゆくけれど、その分どうしても説明できない状況や結果が目の前に現れたときの衝撃が大きい。決定的な資料にたどりつけず細い糸をたぐってゆくように、それでも一歩一歩近づいてゆくデジデリオ像。こんなドキドキする旅はないね。
2/20(木)
昼休み、雑誌「FRaU」の占い特集で「愛しのペット占い」をしてみた。あなたがペットを飼ったとしたらどんなペットでどんな関係になるかという占い。結果は「気ままな風来坊にして、あなたを見守る存在」。ペットはフレンドリーで、家の中や檻の中に閉じ込められるのが好きではなく、散歩が大好きな風来坊。お互い束縛は好まずに適度な距離感をもつだろう。
そのほかペットとの出合いかたや受ける影響などに思いがけないことが書いてあって、ぐっときてしまった。変。言うなれば、「まだ見ぬペットに逢いたいなあ……」といきなり気持ちが飛躍してしまったのだ。対象もいないのに湧き上がる愛情!
でも、植物に対してだってグリーンフィンガーならぬ“ブラウンフィンガー”なので動物を飼うのは絶対無理。あるのは最後の砦、竹とサボテン。サボテンはベランダに置いているだけだけど、雨が降れば水が得られるのかなにもしなくても元気で時々花を咲かせてる。ちなみに上の占いでは、ペットを飼って自分が世話好きということがわかるだろうと書いてあった。
経験したことなのにそれを以前とは違って感じられるとき、感じさせた物体や現象に「生き物」を感じる。そしてそれは私が目をさましていなければ経験できない。
決められないままだった「犬派猫派? 飼うならどっち?」という問い。最近答えを決めた。
2/19(水)
昨日のつづき。凍らせたブルーベリーをジンに入れるのだそうです。ジンはほのかに紫色に染まり、飲み終わったらシャリシャリのブルーベリーを楽しむという寸法。教えてもらった人からブルーベリーを入れて焼いたチョコレートケーキをもらったのですが、それがまたとてもおいしかった。
飲んでみました。ブルーベリーは小さいのでゆっくり飲んでいるとシャリシャリはなくなってしまうね。久しぶりのボンベイサファイア、きくー。さっきまで、音楽を聴いていたたまれないほどせつなかった。そのせつなさは暴力的で、私はこういうときに人を殴るように何かを書きたくなるのかもしれないと思った。頭のいつもは使ってない部分がちりっと動いたような錯覚だったなあ。でももうお酒飲んだし。せつなさは嘘のようにどこかへ消えてしまった。ミロで希釈したら早めに寝よう。
2/18(火)
寒すぎて帰宅するなり冬眠したけど寒くて目が覚めた。
ジンのおいしい飲み方を教えてもらったので早く試してみたい。でも、明日もやっぱり寒そうだ。
2/17(月)
ときどき思い出したようにトルコ語で1から10まで数えてみる。
解説:堀江敏幸に惹かれて手にとった清水博子『街の座標』集英社文庫,2001(1998)(→Amazon)。苦手な文体と、人間の人体に関する生々しい生理的な描写のダブルパンチにあてられて、気持ち悪い内容ではないのに読んでいると気分が悪くなってゆき、読み終わるのに時間がかかった。でも、このあてられ感は物語のラストからすると必然、かつ“作者”にとっては成功ってことになるんだろうなあ……。
気になっていたパティスリー・ドゥ・シェフ・フジウのケーキを食べることができた。水準以上のおいしさと思うけど、特別な驚きはなくて少し甘さが濃い印象。
ベネッセのたまごクラブひよこクラブの今のCMには、CM同様くぎづけになる。ひっこしましまひっこしましま〜ってやつ。
かつてセガ版で遊びましたが新しいシナリオを追加となるとちょっぴり欲しくなります。なんといっても意地っ張りなすみれさんびいき。あまりのけなげさに泣きながらゲームした記憶が。ゲームで泣くなんて。
2/16(日)
雪が降ったの知らなかった。部屋の中では桃が咲いているので。
2/15(土)
昨日のバレンタイン。私のいるフロアでは、近くのケーキ屋さんに甘いものを買いにいってみんなで食べました。「バレンタインにかこつけてみんなでおいしいもの食べちゃおう」なので「義理」の入る余地がなくなってきてる。それに女子とやりとりするほうが張り合いがある。女子から手作りチョコケーキをもらって「おお愛の日だあ」って感じがして嬉しかったし、私が昨日の友達にチョコを用意したのだって好きだからだし。ふと、女性から男性へという「決まり」が揺らいでいて、男性が女性に手作りチョコレート……そういうのももはや普通に行なわれてたり?
と想像してしまった。ほんと、ふつうに愛の日ね。
昨日一緒にみた友達とはバレエの感想のほかに彼女がチェロ音楽にはまってるということもあり楽器の話になった。たとえば「オーケストラで演奏するならどの楽器がいいか」。コントラバスかパーカッション。コントラバスの、低すぎて人間の聴こえる周波数から外れそうなところがいい。パーカッションは楽器を持ち替えたりして忙しそうなところが。シンバル終わったら静かに置かないといけないし変なところで音を出したらすべてがブチ壊しになっちゃうし、かといって鳴らすべきところで恐る恐るやっていいわけないし、繊細かつ大胆さがいるところがカッコイイ。別にシンバル好きってわけじゃなくて、ティンパニとかトライアングルもちゃんと気になります。
2/14(金)
Bunkamuraオーチャードホールへ『バレエの美神』というのをみに行ってきました。生でバレエをみるのは生まれて初めて。
中でも、ただ一つのモダンバレエの演目「牧神の午後」がとても好きだと思った。マイヤ・プリセツカヤとシャルル・ジュド。足が地面に着いたままの跳躍のないバレエ。制限と抑制から醸し出される豊かさとでもいうのか。
バレリーナ! というしなやかさを一番感じたのが「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」のディアナ・ヴィシニョーワ。
イヴリン・ハートとファルフ・ルジマトフの「ジゼル第二幕」では、「精霊」とわかる様子が楽しいと思った。あ、生きてないんだ、とわかるように見せるところが。技術的にもとても難しそう。ずっとトウで立っていたんだ! と気付いたことが何度もあった。
全体の感想は
・案外靴音が聞こえるものなんだなあ。
・女性の踊りより男性の踊りのほうが見ていて楽しい。明確で力強いから。
・踊り終えて挨拶する、その仕草に「バレエ」を感じる。
・そういうとき必ず、男性は女性を迎え、エスコートし、退場するときは女性を追っかけるようにしていくのがすてき。やっぱりバレエだ。
2/13(木)
珍しく、なーんか希釈が足りん! って感じで夜中に目が覚めた。冷たいオレンジジュースが飲みたい。しかし冷蔵庫を開けて目に飛び込んだのは豆乳、シードル、ライチ酒。豆乳飲むくらいなら迎え酒だな……とぼんやりしつつ、りんごジュースを買ってたことを思い出し、紙パックのフタをよいせと開けた午前3時。りんごジュースって甘い。みつの味がする。
『絵本をよんでみる』か『絵本をよみつづけてみる』のどちらにだったか、禅の公案出されて返事のかわりにほっぺたをひっぱたいた、っていうエピソードが載っていた。そのエピソードの出典がもう売ってなかったので図書館にリクエスト。届きました。佐橋法龍『禅』角川書店。
桃の花、ひな祭り、雛人形。つい先日デパートで雛人形が売られているところを通ったとき、立派なのがあるなあ十二単着てる…と枚数数えたりなんかして値段を見たら\5,000,000.-。思わずひゃっと声を出したら隣で見てたおじさんに笑われた。
2/12(水)
桃の花をくれた人がタクシーに飛び乗ったそのすばやさよ。お酒を飲みました。赤ワインを2.5人で1本。栗焼酎。黒糖焼酎。桃のお酒。お酒を飲むのは久しぶりじゃないのにひどく眠いです。今も焦点が合わないのでもう寝ます。
2/11(火)
BEAMSに寄ったあとジュンク堂に行くと、9日からオープンした「谷川俊太郎書店」に午後1時半から店長が来店しますと店内アナウンスが流れたのでのぞいてみることにした。谷川さんは、モスグリーンと山吹色(たぶん)の張り合わせ透明セルフレームの眼鏡をかけていて(ズームインで見たら、緑のフレームに山吹のつるでした)、シックでほっそりとした素敵なおじいさんでした。取材に来ていた「ズームイン!!
SUPER」に対して本当はレジ打ちをしたかったんだけど混雑しちゃうからあきらめたと言っていました。
2/10(月)
山田風太郎『コレデオシマイ。』角川春樹事務所,1996
(→Amazon/文庫版→Amazon)を読み終わる。1996年に語られてる「今」がひどく遠いことのように思えた。
近くの生協で毎月出している冊子にカラーコーディネイトについての記事が載っていた。洋服の色というのは着る人の心があらわれるもので、たとえば赤やオレンジは気持ちが元気じゃないと着られないなどと書いてある。たしかにそうだ。逆に、いくら似合う色でも自分がイヤだと思えば心が選んでないのだから無理して着ることはない、と。
昔、「non-no」だかで「似合う色を春夏秋冬であらわすとあなたのタイプは?」というのでは秋でした。秋の色が似合うというわけです。そして白や黒は似合わない。白ではなく生成りでないと。特に黒は本当に似合わないなあと試してみるたびに実感するので、上に着る黒は喪服以外一枚も持っていません。
持っているのは紺やグレーが多くて、服を買いに行っても引き寄せられてっちゃうほどのグレーおたくを自覚しています(なぜかグレーを着ている男の人にも弱い。ネズミ男じゃあるまいし……)。でも、紺やグレーはどうやら全然秋の色じゃない! 似合わない色を好きだったのか……。まあ、そこは気合で。
2/9(日)
予想はしてたけど昨日行った場所の夢を見ました。『シッダールタ』のように生きられそうにないので読むの中断。
冬眠してた生き物の気持ちってこんなかな、暖かいと外に向かって動き出したくなる。『くまって、いいにおい』ならぬ、「春って、いいにおい」!
2/8(土)
ネルーが書いた『父が子に語る世界歴史』(→Amazon)を読むつもりでいて、全然関係ないところで『シッダールタ』(→Amazon)を読もうかなと思い、並べて初めて気付いた。……インドつながり?
豆乳に合う甘味ってなんだろう。具体的には有楽町無印のカフェで飲んだ豆乳には何の甘味が入っているのか知りたい。
朝起きたらどうか布団のぬくもりに負けないように。行きたいところに行くために。歩いたことのない場所へ歩きに探しに。02/08/03 00:17:56
いやーもうー行きたいところにたどりつけたはいいけれどカルチャーショックでくらくらです。どこに行ったかは言わないでおきますが、こうべを垂れ私は間違っていた……人生やり直したい……とでもいう感じ。自分のいつも歩いている場所に戻ってきたら、「あれはごくごくごくごく一部である」という当たり前のことに気付いて少し落ち着いた。人には努力で補える部分と持って生まれた雰囲気というものもあるよね……。
そんなこんなで『シッダールタ』を読んでいても自分の欲に気持ちが向いちゃって全然身が入りません。
2/7(金)
木の下を通るとき細い枝枝の隙間に月が見えた。歩くたび枝はいろんな形をつくるのに月はそのまま変わらない。枝は近く月は遠い。
クッキーの中にくるみが入っていて小学生のときに書いた「お話」の主人公の女の子の名前は「くるみ」ちゃんだったなあと思い出した。「お話」を書いたのは、その後一度きり。好きだった男の子に「なにか書いて」と言われてすぐ15分くらいで書いた。でも、それは「お話」だったのかどうか。
明日降る雨はもう春の雨に違いない。
2/6(木)
新しくなった会社のパソコンにgoogleやasahi.comのツールバーを入れたり、きつねとけいを入れたり、クァク・ジェヨン『猟奇的な彼女』(韓国・2001)(→感想)からダウンロードした画像を壁紙とスクリーンセイバーにしたり。私の好きなシーンが画像になっていたので!
学生証見せているやつ。
北村薫『盤上の敵』講談社,1999 (→Amazon/文庫版→Amazon)を読んだ。すげえ。こういうの好き。窮鼠猫を噛む。
北村薫は『スキップ』しか読んだことがない。それがあまり好きじゃなかったから尚のこと手に取れなくなった。でも、『盤上の敵』は北村薫を最初から読んでいた人にとってはびっくりとか悪意が描かれているという話を聞いていたので、それなら読めるかもと思い、最近友達と話題にしたこともあってエイッと読んでみた。
北村薫の描く「女性一人称」が好きじゃないんだと思う。今回もそれが出てきて「またか〜」と思ったけど、ラストの場面とそれは悔しいくらいピタッとはまってるんだなあ。
松枝茂夫編『中国名詩選(下)』岩波文庫,1986 で、散歩の語源を知りました。
散歩。魏晋の時代からある語。もとは五石散という劇薬を服用して、熱を発散させるために外を歩きまわったことから起こった。(pp.64-65)
五石散は、石鍾乳・石硫黄・白石英・紫石英・赤石脂に砒素も入ってるとか。
2/5(水)
高峰秀子『台所のオーケストラ』潮出版社,1982
(→Amazon)にひととおり目を通した。サッパリとした、〜しちまいましょう口調が面白い。料理の作り方も、材料のきちんとした量が載っていないのがいい。たとえば醤油だったら“タラタラッ”とか。
で、今日はもう絶対レバーの山椒煮! しっかり火をいれることをせずに、ぷくっとふくらんだところを食べればまったりとろとろ。レバーは小さいときから大好きです。
『よあけ』のモチーフとなった柳宋元の「漁翁」を見つけられたので載せておきます。松枝茂夫編『中国名詩選(下)』岩波文庫,1986 pp.96-97。
漁翁夜傍西巌宿 漁翁 夜 西巌に傍(そ)うて宿り、
暁汲C湘然楚竹 暁に清湘を汲んで楚竹を然(た)く。
煙銷日出不見人 煙銷(き)え 日出でて 人を見ず、
欸乃一聲山水香@ 欸乃一声(あいだいいっせい) 山水緑なり。
廻看天際下中流 天際を回看して中流を下れば、
巌上無心雲相逐 巌上 無心に雲相逐(あいお)う。
漁師のじいさんは、夜は西の岩陰ですごし、夜明け方には清らかな湘江の水を汲んで竹を燃やす。もやが消えて日が出たと見る間に山と水の緑が現われた。もはや人かげは見えず、漁師のうたう船歌が聞こえるだけ。はるかに天のはてをかえり見つつ流れを下れば、岩の上から雲が無心に追ってくる。
今回はただ「漁翁」を探すために手に取ったのですが、漢詩が面白そうに思えてきました。「最後は行方をくらましたので仙人になったのだろうといわれた詩人」(p.54)もいてなんとも中国っぽい。手元に置き折にふれてページをめくりたくなる。
凡例によると、上中下合わせて600ほどの詩を選んでいて「上巻は『詩経』から漢魏の時代まで、中巻は陶淵明から李白・杜甫の時代まで、下巻は白居易から近代まで」。「天上の星の数ほどもあるなかから、僅かこれだけを選びだすということは、到底人間わざで出来ることではありません。非力をかえりみず、敢えてここに蛮勇の大ナタをふるった次第であります」。(pp.3-4)
2/4(火)
いつもの時間に寝るとたいてい朝の4時頃目が覚める。その時間が前日より何分遅いとか早いとか時計を見るのが面白くなってきた。
五味太郎・小野明『絵本をよみつづけてみる』平凡社ライブラリー,2000 (→Amazon)を読み終わる。前の『絵本をよんでみる』では五味さんの独断場っぽかったけど、こちらはちゃんと対談になっている。『こんとあき』をはじめとする林明子の絵本に興味がわきました。
この本の中に出てくる叙事と抒情という言葉の意味が定義できなかったので辞書を引くと、片方を引いたらもう片方を参照するようにと矢印が。意味にも矢印にも納得です。この二つの言葉をつかってではないけれど日頃考えていることだったし、叙事と抒情の定義分けができなかったというのがそのまま自分の考えだったりするんだ、と気付きました。改めて考えたく、この二つの言葉を胸に刻んでおきます。
2/3(月)
季節の目安となる夕方5時がいつもより明るいような気がしたすぐあとに「きょうはあんまり寒くないですね。なんだか日も長くなったみたい」と話し掛けられて春は平等に訪れるものなんだと思った。
バッハのインヴェンションもいいけどシンフォニア、すっごい好きだ……。
金曜日くらいから、日曜日は雪雪雪と思い込んでいたので、家にこもってお菓子に挑戦するつもりだったのに普通の天気だった。どっちにしろお菓子の材料はないので散歩をかねて買い物に出かける。気温だけは、しっかり雪。久しぶりに古本屋にも行ったけど探し物は見つからない。パネトーネ型も見つからなかった。
もらったレシピはショコラフォンデュというもので、チョコレート生地の中にチョコレートソースが入ったしっとりケーキという感じ。チョコレートソースにはグランマルニエを使ってる。
高峰秀子『台所のオーケストラ』潮出版社,1982(現在は文春文庫化しています→Amazon)を読み始めた。とはいえ、素材別にエッセイと料理紹介という形態なので気の向くままにパラパラとめくっている。材料は白菜と豚の薄切りと塩のみ、水もダシもいらない、食べるときに辛子醤油、という簡単さに惹かれて豚と白菜の重ね煮を作った。失敗しようのない料理なので、おいしくできて、もりもり食べました。
2/1(土)
やっぱり実物を読みたいと思い、ディック・ブルーナ
石井桃子訳『ちいさなうさこちゃん』福音館書店,1964(→Amazon)、『うさこちゃんとうみ』福音館書店,1964(→Amazon)と
ユリー・シュルヴィッツ 瀬田貞ニ訳『よあけ』福音館書店,1977(→Amazon)を。
『ちいさなうさこちゃん』は二ひきの紹介とうさこちゃんの誕生まで。ふわふわさんのおくさんは、ふわおくさんだとわかった。『うさこちゃんとうみ』を五味太郎の読みかたを思い出しながら読んでみた。あの読みかたを知らなかったら、ただ「ふーん」と通り過ぎるだけだったと思う。『ちいさなうさこちゃん』のほうも自力でなんとかもうちょっと読めないだろうかと頑張ってみたんだけど……。
『よあけ』のモチーフは柳宋元の詩「漁翁」によるらしいです(→詩へ)。漢文っぽい雰囲気が確かにありました。たき火の場面は素敵だし、そのあとにもものすごい起爆があって、うわあああと感嘆。けれど、どこかとてもさみしい。よあけが明るくて神々しすぎるからか、よあけとともに現世から離れてしまったような、なんていうか、天国への旅だちのように読んでしまったからかもしれない。