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日記のフリindex

03.0203.04

日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。

日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0303.htm#20030301


2003年3月

その他

アレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』@ユーロスペース
宮嶋康彦『たい焼きの魚拓 絶滅寸前『天然物』たい焼き37種』
まきの・えり『聖母少女』(上)
まきの・えり『聖母少女』(下)
嶽本野ばら『カフェー小品集』
黒沢清『CURE』
『柳家花緑と落語へ行こう』
桐野夏生『柔らかな頬』
ヘンリー・ダーガー展@ワタリウム美術館
ヨハン・クレイマー『アザー・ファイナル』@シネクイント
スティーブン・スピルバーグ『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』@新宿プラザ
初野晴『水の時計』
霧舎巧『六月はイニシャルトークDE連続誘拐』
マイケル・ムーア『アホでマヌケなアメリカ白人』
マイケル・ムーア『ボウリング・フォー・コロンバイン』@ワーナー・マイカル・シネマズ板橋
パリ・オペラ座バレエ:ディアギレフの夕べ「ペトルーシュカ」「ばらの精」「牧神の午後」「結婚」
ラディスラオ・バホダ『汚れなき悪戯』
近藤史恵『天使はモップを持って
桐野夏生『ファイアボール・ブルース』
野々村馨『食う寝る坐る永平寺修行記』
コーリー・ユン『クローサー』
桐野夏生『ファイアボール・ブルース2』
ジーン・ケリー/スタンリー・ドーネン『雨に唄えば』@シネマロサ
大島真寿美『チョコリエッタ』
志賀直哉「小僧の神様」


3/31(月)
大島真寿美『チョコリエッタ』角川書店,2003を読み終わる。

志賀直哉「小僧の神様」『ちくま日本文学全集 志賀直哉』筑摩書房を読んだ。終わり方に唸るしかない。メタかつ余韻。昔に読んでひどくつまらなく思った「城の崎にて」も今読んだら違うだろうか。


3/30(日)
桐野夏生『ファイアボール・ブルース2』文春文庫,2001(→Amazon)を読み終わる。26日に読んだ『ファイアボール・ブルース』の続編であり完結編。「小説すばる」に連載していた6編に書き下ろしの「近田によるあとがき」を加えたもの。どれも微妙に「宙ぶらりん感」を残して終わる。白眉はなんといっても「近田によるあとがき」。強い人の見せる弱さって、それまでずっと近くにいた人から見たら尚更やるせないんだろうね。本編続編と通したあと最後に読むこのあとがきは、今まで女子プロレスの物語を読んできたんだなあということを改めて思うと同時になんとも言えない味わい深さを残す。

ジーン・ケリー/スタンリー・ドーネン『雨に唄えば』(米・1952)@シネマロサ。(前回みたときの感想)映画館でみたいと思っていたのが叶ったことになります。サイレントからトーキーへ変換を遂げるときの舞台裏を物語にした「映画の映画」。「音を録音する」という大変さをユーモアたっぷりに描いた場面ではやっぱり笑いをこらえきれないし、踊りだしたい気持ちで身体がうずうずしたり。とにかく音楽っていいなあ映画っていいなあと幸福感でいっぱいになる。

ドモーリのGem(85%カカオ、クリスタル粗糖のクランチ入)というチョコレートを食べました。びっくりするビターさ。私もまだまだ子供のようです。100%のPuroってどんななんかしら……。Greenという73%カカオ、ジャスミンティー入のチョコレートも食べたのですが、こちらは香りがまったく合わなくて……。


3/29(土)
コーリー・ユン『クローサー』(中国(香港)=米・2002)@シブヤ・シネマ・ソサエティ。

スー・チー、カレン・モク、ヴィッキー・チャオが共演となればB級だろうとみるぜ〜。実際、序盤のスー・チーの見せ場ではワイヤーアクション全開のあまり少々やりすぎ? と思っていたのに、カーペンターズの「遥かなる影」を流して敵どもを混乱させながらバッタバッタと倒してゆく姿を見た途端ミスマッチとかっこよさにクラクラッ。カレン・モクのクールで賢くそれでいてユーモアもある刑事役も期待通りの素敵さ。でも、驚いたのはヴィッキー・チャオの勝気な顔つきとアクションの迫力。3人の出番というか扱いが対等ですごく気持ちがいい。

出演する男性たちの影の薄さというか頼りなささが際だっていて、見事なまでに女性陣たちの引き立て役だけに徹してしまっているのは物足りないけど仕方ない。3人の鍛え上げられた身体と隙のない見事なアクションは本当に見ごたえがあった。香港の女優さんたちは凛々しくて素敵だなあと改めて思う。久しぶりの香港映画に広東語も懐かしく耳に届く。

アクション監督は、監督同様コーリー・ユンのようです。敵と味方の友情の処理の仕方を決して甘ったるくしないのが香港映画。すがすがしくて、でもほんの少しせつない。ラストシーンの夕陽とセリフもまた。

『雨に唄えば』をみにいこうと思っていたのに夕方から胃が痛くなり、だましだまし過ごしてみたけど具合悪いときにみても楽しいわけがないのでやめにしました。とても残念。


3/28(金)
野々村馨『食う寝る坐る永平寺修行記』新潮文庫,2001(1996)(→Amazon)を読み終わった。なにが好きになれなかったんだろう…と少し考えた。冷たい感じ、血が通ってない感じというのは言い過ぎだとしても。文章のなにかが私にそう思わせたんだろうけど説明することができない。


3/27(木)
いくつドアを通っても空気の温度が変わらない。


3/26(水)
夜中にものすごい寝汗をかいて起きる。全身着替えて寝てまた寝汗で起きる。おまけに寝違えは続く。右首筋だったのに痛みが真後ろに移動。全体的にはいくぶん軽くなったけど、うがいするとき痛い。

桐野夏生『ファイアボール・ブルース』集英社,1995(→Amazon文庫)を読み終わる。今までに読んだ桐野夏生作品からすると随分さらっとした読み物だった。あとがきを先に読むと火渡のモデルは神取忍らしく、ずーっとそのイメージで読みつづけた。彼女のことは外見でしか知らないけれど私も美しいと思う。実は女子プロレス界のことだけだと思っていたので殺人事件が起きたのには驚いた。事件そのものより、事件に対する思いや本気を出したときの凛とした火渡の言動を楽しむ物語かな。

帰り道に聞いた小さい女の子とお母さんの会話。「あ、ちょっと待って○○くんだ。○○くーん。……聞こえなかったみたい」「明日また会えるサ」。


3/25(火)
寝違えてしまった。

「ブッシュよ恥を知れ」 ムーア監督、痛烈批判を映像で見た。

嵐『とまどいながら』(JACA-5005)(→Amazon)。4曲入りミニアルバムで「とまどいながら」を目当てに買ったのですが、「冬のニオイ」もいいなあ。“不器用に楽しみを見つけてる そんなのも悪くないのに”

Glenn Gould“Bach:THE ART OF FUGUE”(SMK-52595)(→Amazon)のパイプオルガンの2曲目に大爆笑してしまった。グールドが弾くとパイプオルガンもこうなるのか。っていうかパイプオルガンにきこえない。


3/24(月)
近藤史恵『天使はモップを持って』実業之日本社 ジョイ・ノべルス,2003 を読み終わる。

キリコって、地に足の着いた魔法使いみたい。ホウキ乗りじゃなくてモップ乗りの。キリコというキャラクターのせいなのかいつもと違った軽やかさを感じながら読み進めていたけれど、やっぱり近藤史恵は近藤史恵。特に、「桃色のパンダ」の終わり方に「そう、こういう感じ」とうなづいた後、「シンデレラ」で見せたキリコの感情にぐっと心をつかまれながら「史上最悪のヒーロー」に連れて行かれたことに近藤史恵テイスト爆発を感じるっ。「史上最悪のヒーロー」は、しょんぼりしながら読み進めてたら逆転されてびっくり、そしてバンザイ。戻って読んでしまった。この物語にはハッピーエンドがお似合いだ。ただ一つ残念なのは続編がなさそうだという点。

きょうAmazonから受け取れるはずのこれこれは明日受け取ることに。宅配便の配達に間に合わなかった。


3/23(日)
ビデオでパリ・オペラ座バレエ:ディアギレフの夕べ「ペトルーシュカ」「ばらの精」「牧神の午後」「結婚」をみる。少し前にみた「牧神の午後」がすごく気に入ったと言ったら友達が貸してくれたもの。

「ペトルーシュカ」は人間が人形のような動きをするところが見事だし、コミカルな踊りもあって面白い。乳母の履いていた靴はかかとのある普通の靴に見えました。ああいうトゥシューズなんだろうか。「ばらの精」は、男性がばらの精を演じているので扮装に一瞬ギョッとするんだけど、動きは男性的でもあり女性的でもあり、ようは中性的な魅力がありました。ばらの香りに思いを喚起されるという物語自体も素敵。「牧神の午後」ってこんなにエロチックだったっけ……。演じている人が違うからかなんなのか。それでもやっぱり惹かれる演目だなあ。でも、どうして好きなのか説明できないのです。「結婚」に華やかさはなく儀式の雰囲気がシンメトリーとモノクロームで展開してゆく。もっのすごくモダンなセンスだと思った。

..

ラディスラオ・バホダ『汚れなき悪戯』(スペイン・1955)

奇蹟のありがたさと失う悲しみを天秤にかけることなんて可能だろうか。

床に臥した女の子と両親を目の前にして神父が聖マルセリーノ祭の由来を語るという構成。

奇蹟はキリスト像が動き話すことだけだと思ってた。マルセリーノを見下ろす角度からゆっくり彼の目線へと降りるカメラ。これはイコールキリストの視線なんだ! と震え、パンをちぎる手、ワインでマルセリーノを祝福する指のあたたかさにまた震える。

最後の奇蹟を見ていた“お粥さん”の表情が見ていてつらすぎる。2階へ上がると連れ去られてしまうんだよ、というセリフはあながち間違っていなかったことになるのか……。

わからない…と混乱しながら涙するしかなかった。キリスト教を信仰していない限り理解できないと思う。マルセリーノの願いをそのまま叶えることがイコール彼の死であったとしてもキリストが叶えてしまう、ということに愕然としてしまうのだ。

ただ、冒頭でこの物語が女の子に話されることを嫌がった両親を見て、誰だって自分の子供が神に召されるのは嫌に決まっていると思う。それでもそうした“理由”を見つけられることが(キリスト教的)救いなのかもしれない。そんな想像がせいいっぱい。

キリスト教を信仰している人はこの映画をどうみるのかとても興味があります。感想を聞いてみたい。


3/22(土)
マイケル・ムーア『ボウリング・フォー・コロンバイン』(米=カナダ・2002)

とてもみごたえがあり、気付くと眉間にシワが寄ってた。

マリリン・マンソンの分析が的を得ていると感じた。その後の展開が、すべてその発言を軸にすると納得がいくことばかりなのだ。

一度持ったら手放せないものを持ってしまったことの不幸。(主に)銃に関するドキュメンタリーであるこの映画をみて、アメリカが核を手放せないのもわかる気がした。ほぼ環境が同じのカナダとの比較が興味深い。違いがわかるにつれ、アメリカの人を不安と恐怖にとらわれたかわいそうな人たちと思えてくる。「攻撃は最大の防御」という言葉を思い出したりもする。

ただ、「銃を保持する」というのを「寝る前に家の鍵を閉める」レベルに移したとして、私自身も鍵を閉めずにはいられないし、たとえ「みんなでいっせいのせで鍵を閉めるのやめましょう」と言われても果たして従えるかどうかわからない。一度身についた不安と恐怖を取り除くのはなんて難しいことかという想像はできる。

チャールトン・ヘストンの人種差別発言を引き出したのはすごい。映画中盤で「犯罪を犯すのはいつも黒人」というニュースを制作する人のインタビューと、それぞれがお互いを裏付けている。そうじゃないとわかっていてそういう番組をつくる人、そういう番組を作るのを醜いと思う人、差別していることを自分で気付かずにいる人。いろんな人がいるんだな…という絶望と希望がないまぜの感情。希望というのは、まともな人もいるんだな、という意味での希望。

「チャールトン・ヘストンの家を出て現実に戻り」という言い方をしたマイケル・ムーア。チャールトン・ヘストンのことを「現実を見ていない人間」と思ったのではないだろうか。

ものすごく知的で隙のないつくり。行動の人、マイケル・ムーア。


3/20(木)
マイケル・ムーア 松田和也訳『アホでマヌケなアメリカ白人』柏書房,2002 (→Amazon)を読み終わる。過激な口調で書かれているけれど、あれが本当のことだとしたら(というか本当なんだろうなと思わせる迫力と数字の現実性がある)いろいろ納得のいくことばかりで。マイケル・ムーアは口で言うだけじゃなく問題解決に向けて自分で実践する人だというのも感じられて、そういう意味では頭でっかちではない知的さを感じました。

工作舎経由牛若丸出版の本。美しい。

この日にもらった桃の花が咲いているときから芽吹き出したので、花がすべて咲き終わったあと、根付くことを期待して土に植えた。2本を比べると元気に差が出てきている。朝、水をやり、枝をなで、ときどき話しかける。照れくさい。

もし世界の終わりが明日だとしても私は今日林檎の種子をまくだろう。(ゲオルグ・ゲオルギウ)

3/19(水)
駅前の自転車置き場に自転車を預けたい。取りに行くとおじいさんに「おかえり」と言ってもらえるから。でも自転車は必要なくて捨てたんだった。

昨晩、去年と同じようにフォームでメールが届いた。この人から。びっくりした。泣いたのは懐かしい文体のせいもあるなあ。そうか、「文体」ってこういうのを言うのか。やっとわかった。

今回もアドレスはわからない。届く手段が閉ざされていて違う世界に住んでいるみたいだ。どこかに秘密の“落書き帳”があればいいのに。あのときのように。いつも雨雨言うから雨が邪魔して季節を思い出せない。木星探査機はガリレオ。


3/18(火)
妹のことをクールと思ったのを取り消さなくてはいけない。反省と疑問と寂しさで過ぎた一日。矛先が自分なのでなにも問題ないでしょう。


3/17(月)
霧舎巧『六月はイニシャルトークDE連続誘拐』講談社ノベルス,2002 (→Amazon)を読み終わった。


3/16(日)
初野晴『水の時計』角川書店,2002(→Amazon) を読み終わる。臓器移植という問題が「肉体」の問題だけに決して収まらず、「精神」の問題を伴わずにいられないということを改めて意識させられた物語。生々しさとともにガラスの繊細さと美しさを感じた。読み進むにつれ登場人物たちの関係につながりがあることがわかり、何度も前に戻って読み返す。彼らの人間関係に関するくどくどとした説明はないので自分で確認や発見をする楽しさが残されている。読者を信頼している感じがしていさぎよいと思った。


3/15(土)
ヘンリー・ダーガー展@ワタリウム美術館。友達と「桐野夏生の新刊の表紙が印象的」「それはヘンリー・ダーガー」というやりとりをしてたすぐあとに、MAQさん3/13付)のところでちょうど今作品が見られることを知り、なにかのタイミングだ、と思って行って来ました。グロテスクな題材なのに色彩がメルヘンというそのアンバランスさに目を奪われる。同じような場面が繰り返し描かれていることに元となる物語の膨大さを思った。

オン・サンデーズでブックカバーを買った。

ヨハン・クレイマー『アザー・ファイナル』(オランダ=日本・2002)@シネクイント。拍子抜けするほどの客数でした。ワールドカップの決勝戦と同日に行なわれた世界最下位ランク決定戦、ブータン対モントセラトのドキュメンタリー。ドキュメンタリーならドキュメンタリーに徹し、ポーンポーンと弾むボールを出さなくても良いのではないかと思う。そこに何かメッセージを加えようとする意図が見えるようでうっとおしかった。実際の試合の場面が少ないので映画館でみなくて良かったかも……という点でも拍子抜けか。ただひとつ、エンドロールでのGod and Buddha made this meeting possible.という言葉はかっこよかった。

スティーブン・スピルバーグ『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(米・2002)。追う者と追われる者の間の奇妙な親しみの感情。寂しさという共通項を見つけてしまったら、なおさら気になって仕方ないかも。お伽話的な物語を許せてしまうのは、これが事実に基づいた物語だからではなく、たぶん主役の二人にいやらしい派手さがなかったからだと思う。ルパン三世と銭形警部の派手さを想像していると「あれれ思ったより地味」って感じで着実な印象。おまけ:エンドロールの途中に入る字幕も見たほうが楽しいと思います。


3/13(木)
火曜日にKinki Kids『F album』を買いました。

月曜日だったか、会社でジャニーズ好きの人と『音楽誌が書かないJポップ批評23 みんなのジャニーズ』宝島社 の話をあれこれしていたら、今日になって「もしよかったら」とMDを差し出されました。「あれに載ってたKinkiのベスト13、持ってるかなと思ったらちゃんと全部あったので」と! うわーん、わざわざ編集してくれたんだー。なんだか嬉しくて顔が赤くなってしまいました。明日から通勤のお供にしよう。

MDも使わないままだと放電しちゃうとは思わず、持って出かけたらいきなりバッテリー切れでただのお荷物になったことがあるので忘れず充電。

工作舎編『101本の緑の物語』工作舎,1996(→Amazon)を買い、バナナブレッドを焼いた。ふと、どうして思い立つのかわからないけど思い立ったのでラジオ体操をやってみたら途中までしか覚えていなくてショック。

すべて、月花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。(吉田兼好)

3/10(月)
昨晩、だらだらと読んでいた『柳家花緑と落語へ行こう』旬報社,2002(→Amazon) を通して読み終わる。

第1章 落語のいろはが一番面白く、今の私にはこれだけで充分だと思った。花緑自身による生い立ちはこれから花緑を好きになったら知りたいことだったかもしれないけれど最初から知りたいというわけではないし、落語の作品ガイドも話を知って落語を聞きにいくよりも落語で聞いたのが初めてというほうが面白そうだと思ったし、噺家の紹介も、花緑が談志、小遊三、小朝、円楽のそれぞれと対談する、といった内容も、もっと落語に親しんでからのほうがデータとして見たり、なるほどーと楽しめそう。

..

「受け止められるだろうか」という危惧や予感とともに読み進めてきた桐野夏生『柔らかな頬』講談社,1999(→Amazon)を読み終えたばかり。たゆたっています。

孤独な漂流。

この本の厚さぶん、中にはきちんと時間が流れていて、最初からの時間を思い起こすと登場人物でもないのに眩暈がしそうです。ああなんて遠くまで来てしまったんだろう、でも進んではいなくてむしろやっと進めるのではないかと。事件は関わった人たちを変えてしまう、という点ではP・D・ジェイムズを重ねたりした。

カスミと内海の寄り添いが言葉どおり「刹那的」。助け合っていることの確信で満ちてはいるけれど刹那ゆえにこれから欠けてゆく月みたい。読んでいると自分の体温が下がりそうなほどさみしくて仕方なかった。


3/9(日)
黒沢清『CURE』(日本・1997)

いやーな感じに満ち満ちた画面に(逆説的だけど)惹かれる。怖くてたまらないけれど好きです。映像を真正面からみる力が私にあればいいのにと心底思います。

最初の最初から、なにも起きてないのになにかを孕んでいるに違いないと思わせる場面にびびりまくり。映画の中の音が怖くていちいちびくびくしてしまう。歪んだ不自然な音に聞こえてならない。「まだなにも起きてないよー」と笑われつつ、早めの防御に救われたことが何度もあった。

静かさが一番音を孕んでいるし、動きのないところに発生する動きはとても目立つ。なにもないところから変化が起きる時に劇的さがまったくない。なだらかすぎる。それは予想のつかなさになり、防御も難しくなるのだ。怖い。

隣でギャーというので、顔を隠してなにも見えないのに一緒になってギャーと叫んでしまう、それほど怖い。私にとっては映画館では無理な映像でした。良かったです、ビデオで思い切りギャーギャー言えて……。

以下、ネタバレかつ、まとまらないメモ。
役所公司は萩原聖人に“伝道者”として見込まれた? 萩原聖人が死んだ後なのに、奥さんは同じ方法で殺された。奥さんを殺したのは誰? その前、画面をみてなかったからか、わからない。役所? 役所だとしたら、彼は奥さんを殺したのに捕まらないままだということになる。「しっぽをつかまれていない」という点で役所に引き継がれたように思えるし、役所以外であれば、役所が萩原の能力を受け継ぎ誰かに殺させたというふうに取ってしまう。ファミレスでウェイトレスが取り出したナイフに萩原から役所への引き継ぎを決定的に感じた


3/8(土)
読み始めた桐野夏生『柔らかな頬』はみっしり詰まっている。あああー、この物語の結末に耐えられるかなあ、そんな予感。だからときどきパタンと閉じてはお湯を沸かしてお茶を飲み休む。

『音楽誌が書かないJポップ批評23』宝島社の特集は、「みんなのジャニーズ」。わりと興味があると自覚しているものに対して人が分析しているものを読むのは面白い。

SMAPのアルバムを1枚と嵐のファーストアルバムだけしか持っていませんでしたが(でも嵐は出た翌日に買った。「すごいもの」と書いたのは実は嵐のアルバムのことでした)、最近「世界に一つだけの花」を買いました。主題歌にしているドラマも見てなければ一度も聴いたことなかったのに、え? という人が買っていたのを知って勢いで。正直言うと、カップリングされている「僕は君を連れてゆく」のほうが好きです。歌うなら「世界〜」、聴くなら「僕は〜」って感じ。

Kinki Kids「solitude」や嵐「とまどいながら」を好きでいいなあと思っていたところに『Jポップ批評』を読んだら買いたい気持ちが強まった。


3/7(金)
水しぶきはスローモーションだった。車が深い水たまりの上を通る横を歩いていて、でも、避けられる幅などなかったのでモロにかぶってしまい。肩の高さまで濡れたのなんて初めてだよ……足が冷えて冷えて駅にストーブがあればいいのにと本気で思った。

昨晩、まきの・えり『聖母少女』(下)KSS出版,1998(→Amazon) を一気に読む。

「何や、お前」と亜紀は、翌日、廊下で擦れ違った相手に言った。
「何やお前なんか、フツー、女が言うか」と相手は言った。
「男でも女でも一緒やろが。それに、何か、文句があるんか」
「ははあ」と相手はわけ知り顔をした。
「お前か、立花の彼女言うん」
「誰がそんなアホなこと言うてん」
「みんな、言うてるわ」
「へえ。みんなて誰や」
「みんないうたら、みんなじゃ」
「お前、頭悪いな。人の名前も覚えられへんのか。みんな言うたら誰か、ハッキリ言うてみい」
「自分……誰に向かって、もの言うてんねん」
「ハハハハ」と亜紀は笑った。
「他に誰もいてへんのに、そんなこと人にたずねるん、よっぽどやな。お前、世界一、頭悪いんと違うか」
「お前て、誰のことや」
「ハハハ」とまた亜紀は笑った。
「話にならへん」
そう言って歩み去ろうとした亜紀に、相手は殴りかかってきた。
「バカにすんな!」
背後からかかってこられた亜紀が、相手の腕を軽く蹴ると、相手は、腕を押さえてコソコソと逃げて行った。(p.21)

稔に感情移入していた上巻とはうってかわって亜紀に心を奪われっぱなしだった。稔なんてどうでもいいさ、早く目ぇ覚ませよ、って感じ。読み終わってみれば、この物語の主役はやっぱり彼女だったのかなあという気がした。

脇の登場人物たちの知らなかった背景が次々に語られるたびホロッとくる何かが描かれる。ほだされたり、手に汗握ったり、やきもきしたり、いらいらしたり、共感したり。とにかく感情が忙しく動き回った。

ドキドキと脈打つ音が聞こえそうな、そんなエネルギーと熱さを持った物語でした。物語がノンストップで全力疾走ならば私もそう読む。

..

嶽本野ばら『カフェー小品集』青山出版社,2001(→Amazon/小学館文庫→Amazon)。12の物語たちは、どこかで繋がっていそうな、続編のような、本当は一つの物語のような。語られないまま残る謎に想像力で見当をつけながら読む。諦念と虚無を感じ、それを好ましく思いつつも、“愛する才能”が描かれた「凡庸な君の異常なる才能に就いて」が一番好きだった。


3/6(木)
妹とメールでやりとりしていると、クールだな……と思う。ちょっとさみしい。

ここ最近、ななくさの郷というところの「松田のマヨネーズ 辛口」を使っているのですが突然気付きました、「松田のマヨネーズタイプ」となっていることに……。袋にはこう書いてありました。

まぎらわしい表示について
JAS規格では、砂糖は良くて蜂蜜は認められていないのでマヨネーズと表示できなくなりました。現品質維持のため原材料を変えずに規格を見直すよう農水省に働きかけていきます。それまではタイプが付きますがマヨネーズと呼んで下さい。

原材料の説明で、蜂蜜は「『日本書紀』に記述がある」と書いてある。知らなかったです。


3/5(水)
会社の女子たちで、「おとうふ工房いしかわ」からここを見ながら取り寄せをしたのが届きました。きらず揚げを食べたらやめられなくなりそうであぶなかった。

宮嶋康彦『たい焼きの魚拓 絶滅寸前『天然物』たい焼き37種』JTB,2002(→Amazon)。昔ながらの一匹ずつ焼く型を使って焼くたい焼きは「天然物」。全国を探して見つけた「天然物」の魚拓。東京三大たい焼きの浪花家総本店、柳屋、わかばから始まって北海道から佐賀県まで。一匹一匹、こんなにバリエーションがあるのか! とびっくり。まんまるのたい焼きまである。たい焼きのデータ(体長・体高・体重)のほかに店のデータも載っている。笑いながら読む本かと思っていたのに実際は読むほどにしんみりしてきてしまうのは、閉店が案外多いことを知って、「天然物」がなくなってゆくこと以上にたった一つしかない店の歴史が閉じてしまったというさみしさのせい。

まきの・えり『聖母少女』(上)KSS出版,1998(→Amazon)。優等生で美少女でケンカも強い亜紀と、いつも亜紀からとばっちりを受けてばかりの稔は幼なじみ。過去の自分に決別すべくボクシンクジムへ通い始めた稔を追って、亜紀もボクシングを始める。「女だから」「女のくせに」と言わせないために何事も人知れず努力をしてきた(ケンカでさえ!)亜紀と、絶対に勝ってやるという気迫が伴わない稔では、いざ試合となったときにその差は歴然。

亜紀に感情移入して読むんだろうと思ったら、稔に感情移入して読んでた。亜紀は努力を土台にした上での自信があるから安心して見守っているんだけど、稔が歯がゆいったらないのだ。自分より弱い人を倒せないだの、なにか大義名分がないと相手を倒せない稔に早いところ自分に対するケリをつけて欲しい。たしかに、理不尽な物言いをする教師にボカンと一発というのも読んでいてスカッとはするけれど、実際のボクシングの試合でスカッと快哉を叫びたーい。

稔と亜紀の曖昧な関係のほかに、亜紀とボクシングジムの会長、会長と過去の女、過去の女と彼女が現在仕事をしている小説家、それぞれが抱く感情がどう収束していくのか気になります。特に小説家の不器用さには胸が痛くなる。

下巻が楽しみ。

いつも読み返すというわけでもないのに、本棚の前面に置いておきたい本が何冊かある。そのうちの一冊。シオドーラ・クローバー 行方昭夫訳『イシ 北米最後の野生インディアン』岩波書店,1970(注文不可。参考→Amazon)。序文を書いたのが著者の娘かつ、作家のル・グウィンらしいのですが、私の持っているのだとルイス・ガネットとなっています。先日この本の話をちらっとしたのを思い出して久しぶりにぱらぱらっとめくってみた。

イシの「ハロー」、あるいは少しあらたまった時の「ハウダド」は丁寧に発音され、たいていあたたかい微笑をともなっていた。別れの言葉を用いるのには最後まで躊躇があった。彼はむしろ、さりげなく「もう行くの?」とか、逆に「あなたは居て下さい。あたしが行くから」と言うほうを好んだ。そう言わねばならぬと感じたときは「グッドバイ」を付け加えたが、心はこもっていなかった。個人的あるいは習慣に深く根ざした理由によって、別れには言葉で認めぬのが一番よいような意義がともなっていたのである。(pp.293-294)

3/2(日)
アレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』(ロシア=ドイツ=日本・2002)@ユーロスペース

真後ろのおじいさんがずーっと写真を撮っているのに気を取られてまったく集中できませんでした。次に撮ったら言ってやる! と何回も思ったものの、話し声を立てたら同じ穴のムジナになる可能性もあるわけで、隣の友達に「我慢できなくてあとで言っちゃうかも」と耳打ちしたのみ。カシャという音がうるさい、著作権はどうなんだよ、映画館になにしに来てるんだ?

映画終了後、どうにも腹に据えかねてひとこと言ってやろうとおじいさんのほうを向きはしたけれど、結局、友達と一緒にスタッフの人に言おうということにした。友達に先に出てもらい、私はおじいさんを逃すまいと後ろにぴったりついて進む。

スタッフの人に事情を説明し、トイレに入ったおじいさんの後ろ姿を指して「あの人です」と明確にしてから映画館をあとにしました。スタッフの人もさすがにびっくりした顔をしてた。一応気が済んだものの、ひとこと本人にも言えば良かったというイライラが少し残る。

「いい歳した大人がなあ…」と言いながらそのおじいさんのほうを眺めていた夫婦づれがいたり、先に出た友達の前でもおばさんたちが「迷惑だったわねえ」と話していたそうで、やっぱりみんな我慢してたんだなあという感じ。

その後どうなったろう。3時の回が始まる前のことでした。

友達は、「立見が出ていなかったら、一度外に出てスタッフに言いにいくのがいいのかなと思ったけど混んでいたしね…」と言っていて、なるほど、そういうやりかたが一番いいんだろうなと思った。

自由が丘に移動して七葉(自由が丘1-25-3)に連れてってもらい、小豆のババロアと雁が音茶を。頼まれごとのためグリーンフラスコ(自由が丘2-3-12)というところでハーブティーと精油を買う。グリーンフラスコの斜め前がモンサンクレールだったので、せっかくだからとケーキを買う。店員教育が素晴らしいなあ……と思った。タルトタタンはカラメルの焦げ具合が大人〜な感じ。


3/1(土)
いろんな有名人が出て場面ごとに変わる夢を見たのでとても疲れた。加藤晴彦とボブ・サップは覚えてるんだけど…。

ワインを飲むとたいていくしゃみが出る。今回、白では出なかったのに赤で出た。

「そう言うと思った」と言われたことで、私がその人にどういう人間と思われているのかわかることがある。

やはり人の家は複数で遊びに行ってもたとえ友達の家であってもいくらか緊張する。

楽しい時間のあとの冷たい雨。少し頭が痛い。

「楽しい」と思い「楽しかった」と思う。でも、うーん、なんだろう。自分に対する疑問。

感情が静かなわりに少し悲しくて頭が疲れている。いや、静かと悲しいは同意語だ。


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03.0203.04