26日づけ朝日新聞大阪本社版社会面「鳥取・町立智頭病院 / 遺跡壊し建設計画」 では「智頭」に「ちづ」とふりがなが振ってある。
広辞苑第五版には載っていない。 「牛頭(ごず)」「馬頭(めず)」の例があるから現代かなづかいでは 「ちずちょう」になりそうな気がする。
中学生のとき使った地図帳(←ダジャレにあらず)では「ちず」となっていた。
2003-01-26 (0) 23:15:33 +0900
26日づけ大阪本社版読書面の
「ケセン語訳 マタイによる福音書」(山浦玄嗣訳)。
評者の与那原恵氏は
《そもそもイエスの故郷ガリラヤの言葉は「エルサレムの標準語」ではない。
イエスは「ズーズー弁」なのだ
》
《というわけで、ケセン語を操るイエスは語る
》
と言うが、イエスの言葉の中の(旧約)聖書からの引用までもが
《『目(まなぐ)にァ目(まなぐ)ゥ。歯(は)にァ歯(は)ァ』
》
と「ズーズー弁」であることはどう考えればよいのだろうか。
イエスは自分の方言で聖書を引用したというのが訳者の解釈なのだろうか。
また、この評者の説明に従うと、イエスの言葉でない、 地の文や他の人物の言葉はどう訳されているのか不明である。 例えば、26 章最後のペテロの否認の箇所はどう訳されているのだろうか。 婢女の言葉まで「ズーズー弁」に訳されていた場合、 婢女までガリラヤ出身となってしまわないだろうか。 (そういうこともありえないわけではない。 私と同じなまりがあるからガリラヤの出身とわかる、 ということになる。)
私は、もっと素朴に、 「聖書を自分の言葉に訳したい」と考えて訳されたもののような気がする。 本そのものに当たってみればいいんだけど、5600 円と高いので。
2003-01-26 (0) 23:06:19 +0900
26日づけ大阪本社版スポーツ面の相撲の記事
「多彩な技・強い足腰…逸材ずらり」に
《今の日本人の新弟子にはない、
貧欲(どんよく)さがある
》とあった。
文末には「大野宏」と名前がはいっている。
「どんよく」は普通は「貪欲」と書く。
2003-01-26 (0) 22:36:14 +0900
本文ナシ
2003-01-26 (0) 22:33:13 +0900
「拾うか」は違う。
2003-01-26 (0) 17:30:54 +0900
NHKラジオ第二放送で、 土曜日の 15 時 45 分から日本語講座が放送されている。 説明は英語である。 その番組で今年度から model speaker をつとめている女性 --- 声からするとたぶん若い人 --- は、 ゆっくり発音するとイントネーションが変わってしまうようだ。 ネイティブどうしの間でゆっくり話すのは、 相手がわかっているかどうか確認しながら話す場合だろう。 このときは「きょうは / 学校へ / 行きますか」のように、 普段は区切らないところで区切って発音し、 イントネーションも違ってくる。 どうもそうなっているような気がしてならない。 日本語を学ぼうという人を対象とした model speaker はそれではいけないのではないか。
じゃあお前がやってみろと言われるとむずかしい。 単語のレベルでも、 「複素数」の最初の「フ」「ク」は母音が無声化するが、 ゆっくり発音すると無声化しなくなってしまいがちだ。
2003-01-26 (0) 16:51:26 +0900
例えば「おれが本岡」と「おれが持とうか」。
2003-01-26 (0) 16:38:23 +0900
注:「チャリ」は自転車の俗称。
2003-01-26 (0) 16:36:32 +0900
英語の smart にはそういう意味はない。
2003-01-26 (0) 16:33:23 +0900
本文ナシ
2003-01-26 (0) 16:32:13 +0900
2002年12月12日づけ朝日新聞大阪本社版トップは
「林真須美被告に死刑 / 和歌山地裁判決」。
その中に《ヒ素(亜ヒ酸)
》とあるのは、
「ヒ素」と言っているが正確には「亜ヒ酸」、ということだろう。
広辞苑第五版で「亜砒酸」をひくと 「三酸化二砒素の俗称。→酸化砒素1」という説明もある。 「酸化砒素」をひくとどうもこれのようである。
ヒ素の化合物を「ヒ素」と呼ぶのは化学的にはおかしい。 ナトリウムの化合物を「ナトリウム」 と呼ぶなら塩もナトリウムになってしまうではないか。
2003-01-26 (0) 16:25:54 +0900
かなでは「こうち」、 ローマ字は Kôchi (実際は ^ でなくまっすぐな棒)だった。 車掌は「コウチ」と言っていたようだった。 二年前もそうだったし、最近乗ったときも。
広辞苑第五版で一般名詞の「河内(こうち)」をひくと歴史的かなづかいは 「カフチ」であり、「カハウチの約」と説明されている。
2003-01-26 (0) 14:58:23 +0900
「有理数」の「理」は「比」の意、と聞いたことがあるが。
2003-01-26 (0) 14:37:16 +0900
「しいる」を知らない子どもや、 できのよくない自動読み上げソフトじゃあるまいし、と思ったが、 終止形以外だとそうとも言えない。
「強いる」は上一段である。 ラ行の文字の現れる終止形、連体形、仮定形は問題ないとしよう。 未然形に「よう」のついた「強いよう」は「つよいよう」と読まれないか。 連用形は「強い」だから「強い反発を受けた」 という言い方はありえる。 命令形「強いよ」は「つよいよ」とも読める。
2003-01-26 (0) 14:30:41 +0900
アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロンに移されるまで、 バビロンに移されてからキリストまでがそれぞれ十四代と 1.17 に記されているが、 実は最後は十三代しかない、という話は確か岩波版の注で読んだ。
単なる“バグ”だと思っていたが、 この結果、すべてを合わせると 14 + 14 + 13 = 41, すなわち四十一代となり、 植木算により「生めり」は四十回あらわれることになる。
この「四十」は聖書における「聖数」、聖なる数である。 ということは、これは“バグ”ではなくて“仕様”なのだろうか?
……と思ったがよく見たら、 マリアからイエスが生まれるところは εγεννηθηという別の形が使われている。
文語訳では「…生み、…生み、…生めり」が三回くり返される。 イエスのみは「生れ給へり」である。
補)最後もεγεννησενを用いている写本もあるようだ。 この文章は「マリアがイエスを生んだ」となるのだろうか。
2003-01-26 (0) 14:00:42 +0900
本文ナシ
2003-01-26 (0) 13:33:01 +0900
前が濁るのでつられたのであろう。 昨年末のメモ。番組名や話し手の名前はもう忘れた。
どうせ間違うなら「ジクゾーパズル」のほうが多いような気もする。 「ジク」も「ゾウ」も漢字音にあるから。 でも、本当に「ジクゾウ」という語があったら“なまって” 「ジグゾウ」と発音されていたか。
2003-01-26 (0) 13:24:47 +0900
「鉄道」はフランス語 chemin de fer の直訳だと思うが、 この語が新語だったころ、 「柔道」「剣道」「弓道」のような武術の名前と誤解されなかっただろうか?
2003-01-26 (0) 13:18:02 +0900
「数え下げる」とは言わないからこう言うしかないか。
付)「十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ、発射!」 とやるのが「秒読み」だと思っているが、違う?
付)そうだ、将棋や囲碁の「秒読み」は確かに数え「上げて」ゆくんだった。
2003-01-26 (0) 13:12:17 +0900
「秒読み」は countdown の訳語だろうか。 もしそうだとすると、 時間の単位が「秒」でない架空の世界の物語の映画が英語で作られて、 その中に「秒読み」という語が出てくる場合、 やはり countdown と言うだろうが、 日本語字幕や吹き替えは困りそうだ。
いまなら「カウントダウン」で通じるか。
2003-01-26 (0) 13:05:05 +0900
みんなでカウントダウンをして、 新年になったとたんに「おめでとう」を言う習慣はあるようだが、 国内に時差があるから、うっかり「おめでとう」の電話をかけると 「こっちはまだ22時だよ」などと言われる可能性がある。
2003-01-26 (0) 12:59:05 +0900
除夜の鐘はあっただろう。 そのころ「おめでとう」を言ったのか、 それとも夜が明けてから?
2003-01-26 (0) 12:57:18 +0900
…書いてあった。 その上には「ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」とあったので、 その直訳なのかもしれない。
2003-01-26 (0) 12:27:30 +0900
タイトルの字数が私の決めている上限を上回っていることに気づいたので、 「書いて」を本文冒頭に回した。
2004-04-19 (1) 21:23:54 +0900
…したら、家具の下敷きにならないのではないか。
実際には、家具がおどり出すそうだから、うまくゆかないんだろうな。
2003-01-26 (0) 12:12:25 +0900
「猛打」があるんだからあってもよさそう。 「好捕」とはちょっと違う。
2003-01-26 (0) 11:58:45 +0900
Google で日本語のページを検索すると 7 件。 どれも、 「猛」はファーストネームで「捕」は「捕手」の「捕」であった。 ウェブ全体からだと 47 件。
2003-01-27 (1) 00:12:46 +0900
タイトル行を「猛補」と誤っていたので訂正した。
2008-08-24 (0) 19:07:39 +0900
25日づけ大阪本社版社会面「帰省中の姉妹不明」に
《同村の祖父宅に来ていた
》とあるがあとには
《祖父の葬儀に参列するため同村に来ていた
》
とある。
亡くなった祖父と訪問先の祖父とは父方と母方で別人という可能性もあるが、 それならそう書くだろう。
私なら「故祖父宅」とか書きそうだ。
2003-01-26 (0) 01:16:25 +0900
25日づけ大阪本社版「声」に《「十三九つ」はどんな月なの》 という 65 歳の主婦の投書が載っている。
《私は今、
新聞の「あすのこよみ」で、
遠い昔に祖母が歌ってくれた
「十三 九つ」の月を探している
》
《月齢は1年近く見ている。
月齢13の月は毎月巡ってくるが、13・1や13・3、13・7などで、
まだ13・9の月にはあえない
》
はっきりしないが、 「十三 九つ」の月を月齢 13.9 の月のことだと思っているのではないか。 私はそれは違うと思う。
違うとわかっていて、でも昔を懐かしく思って見ている、 というのならそれでもいいのだけれど。
編集部はどう考えて載せたのだろう。
2003-01-26 (0) 01:05:31 +0900
松阪大学のこのページで学歌、 応援歌などが聞ける。 大学名は「まつさか〜」が正しいそうだが、「まつざか〜」と聞こえるものがある。 特に松阪大学応援歌の MP3 版の二番。
2003-01-26 (0) 00:56:25 +0900
……やめた。だいぶ前の話。
複数の箇所に同じ翻訳の聖書を置いて読む場合、 どこまで読んだかを記録しておく必要があるのだ。
2003-01-25 (6) 23:41:39 +0900
0 時を過ぎると日付が変わるが、 たいていの人は 18 時間後の午後 6 時を「きょうの午後 6 時」 とは言わず「あしたの午後 6 時」と呼ぶ。 つまり、気持ちの上では日付はまだ前日のままなのである。
それなのに、なぜ大みそかの夜は 0 時になったとたんに 「新年おめでとう」となるのだろう?
2003-01-25 (6) 23:31:10 +0900
「ファジーがいい」「せかせかしたくない」という時代なのに どうして元日の 0 時ちょうどに「おめでとう」といいたがるのか。
2003-01-25 (6) 23:18:50 +0900
きのうは旧暦で十二月22日だった。 わが家のユズ湯はほんとだが、「旧暦の冬至」はもちろんジョーク。 わからない人は冬至の定義を思い出すこと。
2003-01-25 (6) 23:14:29 +0900
「っ」は小書きの「つ」である。 リンクに許可がいると書いてある新聞社に関連するページのようだったので URI は書かないが、 google で「1っ」を検索してみたら、 年齢ではないが「1つ」をこう書いているページがみつかった。
2003-01-25 (6) 01:53:50 +0900
12日の「こち亀」は《大和魂保存会!?》。 外来語を使わず何でも“日本語”に置き換えて言う男が出てきたが、 彼に賛同している(と思われる)妻は自分を「アメリカ人」 と二度ほど言っていた。
なぜ「米国人」と言わないのか。 「アメリカ」は固有名詞だからいいのかな? 深く考えてもしかたないけど。
2003-01-19 (0) 15:39:18 +0900
アップロードするのを忘れていた。これからする。
2003-01-25 (6) 01:57:12 +0900
短縮した形で載っている場合があるから。
2003-01-15 (3) 23:36:49 +0900
付:これは論文を集めて一冊にしたような本のことを言っているのである。
2003-01-25 (6) 02:02:22 +0900
正月休みに矢内原忠雄「民族と平和 キリスト者の信仰V」 (岩波書店、1982 年)のページをめくっていたら、 「基督教と日本の復興」の中の 285 ページからが目にとまった。
戦争以前から私が痛切に考へてをりましたことは、 日本人の神観を純粋化しなければならない。 こんなに雑然とした神観を懐いてゐては、 日本人の精神乃至道徳は純粋とならない。 真理を愛して真理の上に堅く立つといふ人間が出来ないわけは、 日本人の神観が曖昧としてゐるからである。 常にさう考へてをりました。
然るにこの戦争始まりまして以来、 日本人の神観は益々混沌として来たのであります。 靖国神社の臨時大祭がありますと、 新聞は大きな見出しでもつて「神様の遺族」と言つた。 更に進んでは、 英霊となつた戦歿将兵だけでなく、 生きて居る中から特攻隊の人々を神と呼んだ。 豊田聯合艦隊司令長官はフィリッピン沖の海戦に出撃する特攻隊の人たちに激励の手紙をやつて、 「諸子は神なり」といふ言葉を述べた。
(「益々」の踊り字は「ゝ」を縦に二つ重ねたような字だが JIS にないようなので「々」で代用した。)
このあとに 1946 年元日の(いわゆる)天皇の人間宣言の話が続く。
そのことを著者は
「天皇と神との峻別がなされた。
是は日本国民の精神史に於て特筆大書すべき大事件であるのです
」
と評価する。
(この講演が行なわれたのはその年の二月 12 日だそうである。)
ところで、戦死者たちは今も公的には“神”なのであろうか?
2003-01-15 (3) 23:29:19 +0900
9日づけ大阪本社版社会面の「青鉛筆」は、 「国語」か「日本語」かをめぐって国語学会が会員の投票を行なう、 という話題。 東京本社版では普通の、もっと大きい記事だった。
2003-01-15 (3) 22:53:09 +0900
本文ナシ
2003-01-15 (3) 22:47:18 +0900
9日づけ大阪本社版スポーツ面の相撲の記事。
モンゴル出身の朝青龍が綱とりに挑み、 韓国出身の春日王が新入幕の門出を飾る。 幕下以下には旧ソ連や東欧圏からやってきた逸材が目白押しだ。 初場所は、近年とみに進む大相撲の国際化を象徴する話題にあふれている。
これらは国際化を「象徴する」のではなく、 国際化現象そのものなのではないか。
《最近、「象徴」という言葉の意味が変わってきていないか? (1999-07-31 (6) 19:20:30 +0900)》で、 「代表する」あたりを使うべき箇所で「象徴する」 が使われていることを指摘したが、ここは「代表する」とも違う。 上の構文にこだわるなら「国際化の実例たる話題であふれている」 ぐらいになろうか。 「国際化の話題であふれている」 は「国際化の是非をめぐる議論であふれている」 の意味にもなるのでまずいと思う。
2003-01-15 (3) 22:39:23 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-18 (4) 02:48:16 +0900
13日づけ大阪本社版総合面の首相訪ロの記事の写真に
《ハバロフスク市内の平和公苑を訪れ、
旧ソ連に抑留され亡くなった人たちの冥福を祈り、
ひざまずき手を合わせる小泉首相
》とある。
「手を合わせる」は死者を拝むことを意味しているのだろうか。
2003-01-15 (3) 02:06:49 +0900
13日づけ大阪本社版総合面《「5日制」良さと悪さと / 全教などシンポ》 の本文に「学校5日制」と使われている。 なんの説明もないが、「学校“週に5日”制」の意味である。 5日だけ学校に行けば卒業できるというわけではない。
「(学校の)週5日制」のほうがいいかもしれない。 「週5日制」が“7日ではなく5日で一週間とする” の意味で使われるケースがないわけではないが、 それはまれなので誤解はないだろう。
2003-01-15 (3) 01:55:15 +0900
「ミン」と読む漢字はほかに「民」「眠」などがあるではないか。 普通、漢字にはないオトだと思っていた。
2003-01-15 (3) 01:49:02 +0900
減刑された男に息子を射殺された父親》はどちらが先?
13日づけ大阪本社版総合面「英断か誤りか / 全米に衝撃」は上の
「イリノイ州 / 死刑囚 167 人を一括減刑」の続き。
そこに《減刑された男に息子を射殺された父親は
》とある。
そのまま読めば減刑されてから射殺されたように読めるが、
実際は「減刑された」よりも「息子を射殺された」のほうが前だろう。
だったら
《減刑された男に息子を射殺されていた父親は》が正しい? でも、
普通はそうは言わないか。
2003-01-14 (2) 21:25:12 +0900
14日づけ大阪本社版第一面「北朝鮮の素顔 第1部 くらし 〈3〉」。
「自主性や創造性をもった社会主義的人間を作る」 ことが教育の目的で、聖書の十戒のように 「隣人を愛せ」「両親を敬え」などと教えた。
「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記 20.12)は十戒の一つだが、 「隣人を愛せ」は十戒ではない。 十戒のうち隣人に関するものは 「あなたは隣人について、偽証してはならない」(同 20.16)と 「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」(同 20.17) の二つだけで、 「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」は レビ記 19.18 である。
(これはルカ 10.25- の「よきサマリア人」の話に引用されるので有名である。 そこでのもうひとつの引用が申命記からなのは覚えていたので、 これも申命記だと思っていた。)
朝日新聞の記事にはどこにも 「これは十戒のひとつだ」とは書いてないが、 気になったので調べてみた。
(聖書からの引用は口語訳によった。)
2003-01-14 (2) 21:09:09 +0900
通販は特に何かに関心をもつ人だけが利用するものではない。 そのカタログに載っているということは、 多くの人が星占いに関心をもっているということだろう。
一方で、 先日の新聞調査によると、宗教には興味・関心がないという人が多くなっている。
宗教は信じないが星占いは信じる、ということか。 どう考えたらよいのか。
2003-01-13 (1) 22:08:56 +0900
スポーツ新聞の見出しに出るだろうか?
2003-01-13 (1) 22:03:35 +0900
西武柳沢は西武新宿線の駅名である。
2006-05-18 (4) 02:50:13 +0900
広辞苑第五版で「ヘレンケラー」をひくと 「ケラー2」を見るようにと書いてある。
2003-01-13 (1) 22:01:09 +0900
エレベータの床に下り階段があったのか、 扉と反対側の壁に階段があったのか、今となってはもう思い出せない。
昨年の九月 4 日のメモ。
2003-01-13 (1) 21:29:34 +0900
安価な腕時計などで、 00 分に秒針と分針が 12 時位置を指すように合わせても、 例えば 22 分ごろになって秒針が 12 時位置を指しているとき分針が 22 分を指しているのか 23 分を指しているのかわからない、ということがある。
こういう時計は「月差 ±30 秒」などと言っても意味がない。 それよりも、 このレベルの精度で作られた時計であることをカタログに書くべきではないか。
2003-01-13 (1) 21:20:54 +0900
開票は完了していませんがこの人の落選は確実です、というお知らせ。
2003-01-13 (1) 21:16:06 +0900
だいぶ前の話だが、 昨年の八月 25 日の「こち亀」でセリフに 「すいどうすい(水道水)」が何度も出てきていた。 私は「すいどうみず」だと思っていたので違和感があったが、 回りの人に聞いてみると「すいどうすい」のようだ。 私は「井戸水(いどみず)」が「みず」だからこちらも、と考えていたらしい。
広辞苑第五版には「水道水」は出ていない。
「水道育ち」を見ると
「江戸っ子が玉川上水・
神田上水などの水道の水で育ったことを自慢することば
」
とある。
戻って「水道」を見てみると、
必ずしも現在の意味での水道に限らない。
だから、「水道水」という言葉はきちんと説明する必要があると思うのだが……。
2003-01-13 (1) 21:07:24 +0900
ワルキューレ第二幕第五場でフンディングはジークムントに 「ヴェーヴァルト」と呼びかける。 それは「ジークムント」と改名したことを知らないからだが、 ジークムントが前の名前をすっかり忘れていてぽかんとしていたらどうだろうか。 ジークリンデに「あんたのことじゃないの!」 と指さされてからあわてて立ち上がるとか。
2003-01-13 (1) 20:54:52 +0900
計算機実習でテキストエディタを使わせる際に意外とむずかしいのは、 目に見えない「改行」の扱いである。
JavaScript か何かを利用して、 ブラウザ内でこれらを徹底的に学ばせることはできないだろうか。 ページをロードするとフォームにすでに例えば
This is a pen.と書かれている。 それを 「pen の前で改行しなさい、a のあとのスペースは残さないように」 といった指示に従って変更しボタンを押すと、 正しくできたかどうか採点してくれるとか。
2003-01-13 (1) 20:44:41 +0900
そもそもイエスの誕生が十二月 25 日であるという根拠はなく、 クリスマスはヨーロッパの冬至の祭りの変化したもの、と聞いたことがある。 だったら南半球では夏至のころにクリスマスでも構わない。 ただそれだと、 北半球の人と南半球の人との間でクリスマスカードを送りあうとき混乱が生じるか。
「北半球の人にはクリスマスおめでとう、南半球の人はヨハネ祭おめでとう」 というカードにすればいいか。 (ヨハネ祭も半年ずらして行なうとして、の話だが。)
2003-01-13 (1) 20:33:26 +0900
本文ナシ
2003-01-13 (1) 20:28:52 +0900
南半球ではイエスでなくバプテスマのヨハネを崇拝する、 なんてことをしたらキリスト教でなくなってしまうが、 暖炉の前でのパーティーといった世俗的な楽しみであれば、 何か理屈をつけて半年ずらして行なうのもいいかもしれない。
2003-01-13 (1) 20:25:26 +0900
南半球では「新秋」のはずだ。
2003-01-13 (1) 20:24:01 +0900
現代の日本で「正義」という言葉が軽視されたり反発されたりしているのは、 TV番組のヒーローが「正義の味方」と名乗って “超法規的”な手段で事件を解決することが多かったせいではないか、 と私は考えているのだが、 本来「正義」は「真理」「善」「美」と同じく、抽象的な概念である。
もしもTV番組のヒーローが「美の味方」と名乗っていたら、 「《美》なんてうんざり」と言われていたのではないか……。
2003-01-13 (1) 19:57:24 +0900
テレビで、クラシック音楽のコンサートのコマーシャルを見ることがある。 演奏する曲と同じ曲がバックに流れることが多いが、 それは誰のいつの録音なのだろうか。 すでにその指揮者が録音していればそれを流すかもしれないが、 オーケストラも独奏者も同じ、ということはあまりないのではないだろうか。 全く別人のもの、ということもあるかもしれない。
また、画像はスローモーションであることが多い。 別の曲を演奏している画像なので音と合わないからではないか、 と想像しているのだが……。
2003-01-13 (1) 19:48:55 +0900
ドイツ人グループがビールを飲みに行くと、 まずそのうちの一人が「私がおごる」と全員にジョッキ一杯ずつ注文する。 それを飲み干すと次の一人が「今度は私が」と全員に一杯ずつ。 これを全員がおごるまでくり返す、と読んだことがある。
これだと、n 人のグループは n2 杯のビールを飲むことになる。 だから、ドイツのビアホールで一日に出るジョッキの数は平方数の和であり、 そうでなかったら経営者は計算が合わないと頭を抱えてしまうのでは --- と一瞬思ったが、1 = 12 である。 すなわち一人できた客のことを考えれば、 一日に出るジョッキの数に何の制限もつかないのであった。
n 人が n 杯ずつ飲んだら、 また初めから同じことをくり返す。 アルコールに弱い日本人はこの時点でかなり酔ってしまっているので、 “第二ラウンド”にはいる直前に「用事を思い出した」 とか言って抜けないと身体がもたない、 というような特派員の話だったかと思う。 (一つの“ラウンド”の途中で抜けるのは非常に失礼なことらしい。)
2003-01-13 (1) 19:41:22 +0900
本文ナシ
2003-01-13 (1) 19:29:37 +0900
いまは高等学校の古文の時間にはうんと古いものを読ませるが、 社会に出たときのことを考えると戦前の「正字・旧カナ・文語体」 で書かれたものを読めるようにしておくほうが大事なのではないだろうか。 いわば「準・古文」である。
役所に勤めたら、昔の書類を読む必要が生じるかもしれない。 大学で研究するにも、戦前の日本語の文献が必要になることは多いと思う。
「源氏物語」や「徒然草」が読めることは私はうれしいが、 全ての人に必須ではないような気がする。
補)「文語体」と書いたが、完全な文語体に限らない。 「〜せしむるものとする」 などのやや古風な言い方になじむことのほうが実用的かもしれない。
2003-01-13 (1) 19:19:52 +0900
過去にその試験で出された問題のことを指すのだが、 昔は受験生の間のジャーゴンだったと思う。 それが今では大学での会議で 「受験生から過去問の請求があったらどうしましょうか」 のように正式な用語として使われている。
《「カコモン」を朝日新聞も使うようになったが意味が少し違うような気もする (2001-02-13 (2) 02:37:08 +0900)》 参照。
2003-01-13 (1) 19:12:37 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-18 (4) 02:53:40 +0900
VでなくWとする流儀もあるだろうが。
2003-01-13 (1) 19:05:16 +0900
別に完全にシンクロしている必要があるとは思えない。
この場合の「同時」は“同じ時期に別の映画館で”の意味なのだろうな。
2003-01-13 (1) 18:54:12 +0900
「ヘボ将棋 王より飛車を かわいがり」とか言うので考えてみた。
最初の駒の配置は普通の将棋と同じ、 王は相手に取られてもよく、取った王は打つこともできる。 問題は、いったん飛車が成って竜王になった場合、 もとの飛車に戻る方法がないことだ。 チェスでポーンがクイーンになった場合も戻れないんだから、 それでもいいか。
2003-01-13 (1) 18:47:40 +0900
本文ナシ
2003-01-13 (1) 18:42:50 +0900
片方の本名が「中津」で、 売れなかったころ「『鳴かず飛ばず』の“鳴かず”じゃないか」 と冷やかされていたのをそのまま芸名にしてしまった、とか。
広辞苑第五版によると元々は軽蔑的な意味ではなかったのか……。
2003-01-13 (1) 18:36:28 +0900
本文ナシ
2003-01-13 (1) 18:33:05 +0900
年末年始に県庁が移転したため、 以前のバス停「県庁前」は「広坂」という名前に変わり、 「県庁前」は新しい県庁の近くのバス停の名前になった。
こういう改名法は、ほかでは記憶がない。 以前のガイドブックを見て兼六園を訪ねる人が間違って新しい「県庁前」 に行ってしまわないことを祈る。 (JR金沢駅からバスで兼六園にゆくときは、 「兼六園下」ではなく一つ手前の旧「県庁前」で降りるほうが早かった。 いまなら「広坂」で降りることになる。)
地名を前につけて「**県庁前」とするとか、 せめて「新県庁前」とするとか、……。
ところで、 前の「県庁前」が区間の片方の端のバス停名として印刷された定期券は新しい 「県庁前」にも有効なのだろうか?
2003-01-13 (1) 18:13:22 +0900
「魚離れ」は魚を食べなくなることである。
2003-01-13 (1) 18:07:10 +0900
……はないだろうか。 「やおい」と同音、というだけだが。
2003-01-13 (1) 18:03:06 +0900
そういう英語があるのかどうかは知らない。 「人生を投げる」の意味にはならない(と思う)。
2003-01-13 (1) 17:58:59 +0900
後者は「にぎやかな湖」の意。
観光客誘致に失敗し、閑散とした湖なのだが、 美辞麗句を並べてあたかも成功したかのように語っているさま、とか……。
2003-01-13 (1) 17:55:14 +0900
タイピング練習プログラム tx の JavaScript 版が公開されたことのアナウンスと、 そのページへのリンクを tx.html に追加。
2003-01-13 (1) 03:46:23 +0900
…いやな気持ちがするだろうな。
2003-01-12 (0) 22:57:12 +0900
タイトルの引用部分は12日づけ大阪本社版第一面「紙面から」より。 五七五になっているがそれはともかく。 社会面の記事の見出しは 「啄木 熱き恋文 空振り / 「美しき人」/ お相手実は男性」。
こよなく美しき人と思ひつ――。 明治時代の国民的歌人、石川啄木(1886〜1912)が、 女性になりすましたファンの男性の手紙にだまされ、 甘い言葉で恋文をつづっていた=写真。 発覚後は笑って許したとされる。 啄木の人となりを物語るエピソードとも言えそうだ。 手紙は大分県臼杵市の喫茶店で公開されている。
このあたりを読み始めたときは気がつかなかったが、 「平山良太郎さん」が「平山良子」と名乗って手紙を書いた、 というくだりで思い出した。 「ローマ字日記」に出てくる人物である。 岩波文庫「ROMAZI NIKKI」の索引に次のようにある。
Hirayama Yoshiko (平山良子=平山良太郎 1886-1932) 『明星』『スバル』の読者,大分県臼杵のアマチュア歌人. 女性と偽って啄木に和歌の添削を求めていた. 『スバル』第 5 号の啄木選の「秋」に 2 首入選している.
該当ページをみると:
Hirayama Yoshi-ko no hanashi ga deta. (1909.IV.25)
Sore kara Kushiro no Tsubo Jin-ko no natsukashii Tegami, Hirayama Yoshi-ko no Hagaki, Satô Isen no Hagaki nado ga kite ita. (1909.V.7)
この記事のどこに新しさがあるのかわからない。 私には「良子」の名で手紙が出されていたのが 1908 年十一月から 1909 年八月までとわかったのが収穫だったが。 (ローマ字日記のほとんどの部分は 1909 年の四月から六月に書かれている。)
記事の最後の部分にはこうある。
問い合わせは「ふしみや」(0972・62・2237)へ。
知らない人は新しいエピソードかと思ってしまうのでは。 その手紙が最近発見されたとも書いてないし。
付)も一つ。この記事では「良子」を「よしこ」と読むことがわからない。
付)google で「啄木 平山良子」を検索すると数件みつかるが、 その中に臼杵市在住の女性の日記ページがある。 昨年十月 12 日にこの方が訪問されたというのが、 この喫茶店ではないかと想像される。 「啄木茶房」という名だそうだ。 その日の毎日新聞にそのお店の記事が出ていたそうだ。 さかのぼって読んでみたら、7 日のところに新しいお店だと書いてある。 いままでは容易には見られなかったものが公開された、ということか。 だったら記事にもそう書くべきだろうな。
2003-01-12 (0) 22:46:35 +0900
「エディタ」と書いたのはテキストエディタのこと。 朝日新聞では「OS」を「基本ソフト」と“訳して”いる。
でも、それで、コンピュータを使ったことのない人にどのくらいわかるのだろう?
2003-01-12 (0) 22:09:48 +0900
現在の七曜はユダヤ教の安息日に起源をもつのだろうが、 そのもとになった暦では毎月の 7 日、14 日、21 日、28 日を休むようにしていた、 と読んだことがある。 これだと月をまたぐところで休む日が不規則になる。 それをユダヤ人は厳密に七日ごとに休むことにしたのだそうである。
これと六曜とは関係ないのだろうか。 六曜は休日を規定するものではないようだが、 大安の日の日付をあげてみると
付) 毎月の 7 日、14 日、21 日、28 日を休むというのは “四分の一カ月ごとに一日休む”のにほぼ等しい。 なかなか合理的なやり方である。 毎月同じ暦が使えるという利点もある。
付)一年間の月の数 12 は 7 では割り切れないので、 七日に一度の休みでは月ごとに日づけを規則的に変えることはむずかしそうだ。
2003-01-12 (0) 15:36:59 +0900
一月・七月 先勝 友引 先負 仏滅 大安 赤口 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 (30) 二月・八月 先勝 友引 先負 仏滅 大安 赤口 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 (30)のようになるだけである。 あまりに簡単で、神秘性も何もない。 すぐに迷信だと気づくはずである。
2003-01-12 (0) 15:30:58 +0900
旧暦 m 月 n 日の六曜は m + n を 6 で割った余りで決まる。 新暦を使っている現在でも六曜の計算は旧暦で行なうが、 明治の初めの改暦の際、 「今後、六曜の計算は新暦で行なう」とはならなかったのだろうか。
もしもそうなっていれば、あまりに簡単な規則であることに気づくから、 すぐにすたれていたかもしれない。
2003-01-12 (0) 15:25:19 +0900
先日よった実家で、壁に貼ってあったカレンダーに書いてあったので、 この際覚えてしまうことにした。
この名前のメンバーで Wizardry をプレイすると仮定し職業と結びつけて覚えようかなどとも考えたが、 三つずつ切って覚れば覚えられるようだ。 「先勝・友引・先負」は“勝ち―引き分け―負け”と覚える。 「仏滅・大安・赤口」は“(一番悪い)仏滅のあとに(一番よい)大安”と覚える。 赤口が最後であることは、なぜか前から覚えていた。
旧暦の日付から六曜を計算する規則は次のような簡単なものである。
あるいは ((m-1)+(n-1)) mod 6 と考えればいいか。
2003-01-12 (0) 14:46:32 +0900
見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた」
冬の嵐は去り、快い月となった。 やわらかな光につつまれ、春は輝いている」
わが妹、わが花嫁よ」
兄にとっておまえは、花嫁にして妹」
雅歌の引用は口語訳、ワルキューレはカラヤン盤CD付属の渡辺護の訳。
2003-01-12 (0) 14:40:00 +0900
ただし、ここで Naomi は英語式に読むものとし、 英語式の中でも「ネイオウマイ」のような「超・英語式」発音 (=全ての母音をその名称と同じに読む発音)だとする。
元々は旧約聖書「ルツ記」に出てくる女性の名前でナオミと読む(らしい)。 「おまいさん」は「お前さん」のなまり。
2003-01-12 (0) 03:04:42 +0900
広辞苑第五版、新明解国語辞典第五版、小学館新選古語辞典、 角川新版古語辞典は「よもぎう」、 岩波古語辞典は「よもぎふ」、 新明解古語辞典第二版は「よもぎゅう」。 ただし、 新明解古語辞典は 「だいしゃう(大将)」を「―ショオ」とするなど表音的表記をとっているので、 実質的には「よもぎう」とそれほど違わないと言えよう。
《「芝生」と書いて「しばふ」だから》と考えれば岩波古語辞典の 「よもぎふ」も納得できる。 岩波国語辞典第三版は古語として「よもぎふ」をあげるが、 この辞書は古語は歴史的かなづかいであげ読み方を記さないので読み方は不明である。
2003-01-12 (0) 01:35:55 +0900
massangeana 氏の 「いろいろ」を読む。 その2002-12-30 分。
鹿児島空港からのバスは今までと異なり, 伊敷の方を通るようになったらしい。 「蒲生 Kamou」という標識を見るが, Kamô ではないのだろうか。
いわゆる「カナ式ローマ字」であろうか、 それとも「蓬生(よもぎう)」などからの類推か。
2003-01-11 (6) 14:49:42 +0900
massangeana 氏の 「いろいろ」を読む。 その2003-01-02 分。
箱根駅伝, 5区の解説者が「気分がわろうはずがありませんね」と言っていた。
これを読んで、一瞬、 「何か変だが、何が変なのかはっきりわからない」状態になった。
「わろうございます」という言い方はある。 このことから、 「『わるい』をていねいに言うと『わろう』になる」 という心理が働いたのではないだろうか。
あるいは、「そんなことがあろうはずがありませんね」 との混同か? この「う」は推量の助動詞であり、 形容詞「わるい」に続けるなら 「気分がわるかろうはずがありませんね」のようになるのが普通だろう。
ところで「動詞未然形+う+はず」のような言い方があるということは、 どうやって辞書をひいたらわかるのだろう?
2003-01-11 (6) 14:39:55 +0900
…していた。きょうの放送分。先生というのはカツオの先生。
あのことわざができたころは現代のような竹馬(たけうま)ではなく、 竹を切ってそれにまたがって遊ぶものを指していた、と読んだことがある。 (その竹馬の絵は広辞苑第五版に載っている。)
# タイコさんの「和服に割ぽう着姿」は初めて見たような?!
# こち亀では纏ちゃんが久しぶりの大活躍。
2003-01-05 (0) 23:32:17 +0900
「宇宙船別冊不滅のヒーローウルトラマン白書第2版」(朝日ソノラマ、1987 年) がそうで、1967 年 12 月 17 日としている。 この日は現在公開されていないウルトラセブン第12話が放送された日であるが、 それは表に載っていない。
これらを見て「この日はウルトラセブンの放送はなく、 代わりにウルトラQの「あけてくれ!」が放送された」と誤解する人が出てくるかも。
ほかの資料では「あけてくれ!」の放送を 14 日としていた。
2003-01-05 (0) 00:16:45 +0900
わざとそういう誤解を広め、 セブン12話は放送されなかったことにしようとしている人たちがいる、 ってことはないだろうな。まさか。
2004-04-19 (1) 21:28:23 +0900
いろいろな漢字が当てられそうなので google で調べる気が起きなかった。
2003-01-03 (5) 19:11:57 +0900
芳賀由衣さんは実在するようである。 高校2年と書いてあるページもある。
2003-01-03 (5) 23:49:12 +0900
「芳賀ゆい」という名前の架空タレントについてのページ (ここ) を教えてくださった方があった。 そう言えば、こんなの聞いたことあったっけ。
「はがゆい」のほかに「みずたまり」とかも考えられるのに、 なんで今回これだけ(私の)頭に浮かんだのかは不明。
2003-01-05 (0) 00:29:21 +0900
本文ナシ
2003-01-03 (5) 19:09:59 +0900
思っている人はいないか?
2003-01-03 (5) 19:07:57 +0900
「こば」は固有名詞。
2003-01-03 (5) 19:05:12 +0900
本文ナシ
2003-01-03 (5) 18:56:30 +0900
…うわさが出ているページあり。このうわさ、私も聞いたことがある。
2003-01-02 (4) 23:43:50 +0900
正月三が日のテレビ・ラジオ番組表が1日づけについてきたが、
その 35 面「だいすっき!幼児番組」の右上端の写真。
「=いずれもNHK提供、
〓は〓NED・NSW・(スタジオ)じゃぴぽ
」
とある。
一つめの〓はマル2。
二つめの〓は © かと思いきや、
マルに小文字のcであった。
先月29日づけ社会面の、
ジョージ・ロイ・ヒル監督死去の記事の写真に添えられた
© と比べてみると違いが明らかだ。
マル2は「にこにこ、ぷん」の写真であり、
どこかがキャラクターの権利を持っているのだな、
と思ったのだが。
2003-01-02 (4) 22:58:04 +0900
正月三が日のテレビ・ラジオ番組表が1日づけについてきたが、
その 11 面に「ほか、人気が集まった番組
」として
「ウルトラマンシリーズ(66年〜、TBS)
」とある。
あのウルトラマンとその後のウルトラマンとを一緒くたにしないでほしいものだ。
「ウルトラQ」も 1966 年だが、これは別?
2003-01-02 (4) 22:56:43 +0900
正月三が日のテレビ・ラジオ番組表が1日づけについてきたが、
その 1 面に「TV50年
」とか
「1953年のテレビ放送開始から今年は50年
」などとある。
これは日本で始まった年を言っているのか、世界中でこの年に始まったのか。
書いてないようだ。
2003-01-02 (4) 22:54:59 +0900
たとえば1日づけ朝日新聞大阪本社版社会面「条件が整えば家族会で訪朝を」には
「……の子どもを日本に連れて帰ることを北朝鮮が受け入れることなどを挙げた
」
とある。
これを日本の子どもが読んだときのことを考えた。 親戚が大勢いれば心配ないだろうが、 そうでない子は 「もしかして自分の親はどこかの国から拉致されてきたのではないか」 「親がその国に帰ったら、自分も連れて帰られる(?)のではないか」 などと心配にならないだろうか。 非常に幼い子どもの場合は親が帰れば一緒に「連れて帰る」となろうが、 ある程度大きくなり、言葉を覚えてからの場合、どうなるのだろうか。 国際法とかは。
2003-01-02 (4) 22:54:23 +0900
ここ金沢では、
プロ野球のナイターが少し延びるともう翌日の朝刊には結果が間に合わない。
ところが、1日の朝刊には
「天皇ご一家 陛下手術控え静かな新年」という記事が載っていて、
「天皇ご一家は1月中旬に天皇陛下の前立腺手術を控え、
静かに新年を迎えた=写真
」とあるのだ。
写真には幼児も起きて写っている。
おおみそかは 0 時まで起こしておいて写真を撮ったのだろうか。
2003-01-02 (4) 22:51:38 +0900
1日づけ社会面「新年は故郷の味と / 拉致被害者 紅白観戦・大掃除」。 三組の家族について
元旦は**さんの実家を訪ね、近くの神社に初詣でをする」
1日は小中学生時代の同級生らと町内の神社にお参りし」
元日は、**市内にある**さんの実家に夫婦であいさつに訪れる」
元旦は」に意味があるが、 誤解される可能性が高いので「1日朝」のほうがいいような気がする。
付:引用の中では固有名詞を伏せ字にしました。 検索エンジンにひっかかっても意味がないと考えたからです。
2003-01-02 (4) 22:43:59 +0900
1日づけ石川面の下の 「森八」の広告で、 市内局番の次のハイフンが長音符「ー」になっている。 縦書き。
2003-01-02 (4) 22:38:00 +0900
2日は休みなので、
1日づけに2日と3日の「こよみ」が載っているが、
2日には「旧暦11月30日
」とあるものの3日には何も書いていない。
旧暦には31日はなかったはずだし、
六曜の出ているカレンダーを見たら2日と3日の間で飛んでいたので、
3日から月が変わると思われるが。
ことしは新暦二月の初めには旧暦でも新年を迎えるようなので、 3日から始まるのは旧暦の十二月であろう。
2003-01-02 (4) 22:25:05 +0900
この年末年始は、どちらもおおみそかで前の対局が終わり、 元日からは新しい対局が載っている。
2003-01-02 (4) 22:24:28 +0900
1日づけ朝日新聞大阪本社版国際面の下に大修館書店の広告が出ている。 その中の明鏡国語辞典のところに次のような句が。
「役不足ですが頑張ります」
「ケンケンガクガクの議論」
「慌ててやおら立ち上がる」…
まかりとおる誤用
現代の
日本語を斬る!
「役不足ですが頑張ります」は誤用とは言いきれない。 実力より下の役を割り振られ、 普通ならやる気をなくしたり、 自分より実力は下だがいい役をもらった共演者にいやがらせをしたりするところだが、 そうはしないで頑張る、とも解釈できるからだ。
「ケンケンガクガク」は 「侃侃諤諤(かんかんがくがく)」と 「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」のハイブリッド。
「やおら」は「落ち着いてゆっくりと」だから、 「慌てて」との組み合わせは普通にはおかしいが、 「あわてて」は心の中のことで、動作は「やおら」、かもしれない。 festina lente とも言うし。 (ちょっと苦しいか。)
あとの二つはともかく、「役不足ですが」は例文の練りが足りないと思う。
2003-01-02 (4) 22:22:20 +0900
晩年のヴィントガッセンはローゲも歌っていたから、 別に“普通の”テノールでもいいのでは?
《ジークフリート》のミーメはちょっと無理か。
2003-01-02 (4) 22:16:37 +0900
1日づけ朝日新聞大阪本社版 be Extra の 6 面から 8 面に映画 「ターミネーター3」の広告が出ている。(厳密には 1 面にも一部がかかっている。)
6 面には六人のタレント・作家などのコメントが載っているが、
そのうちの「小池栄子さん(タレント)
」の分に
「2から12年も経つだなんてビックリ!
」とある。
助動詞「だ」が動詞の終止形あるいは連体形「経つ」に接続しているのだ。
三行のコメントだが、ほかの部分は
(やや口語的な表現「楽しみにしてます
」を除けば)
標準語と思われるので、
「銀座でベコ飼うだ
」のような方言ではないと思われる。
岩波国語辞典第三版の助動詞活用表には、 「だ」は仮定形「なら」、未然形「だろ」に助動詞「う」がついた「だろう」 の形でなら動詞の連体形を受けることもあると書かれている。 「みんなが行くなら僕も行く」「みんな行くだろう」は確かに言う。
「だなんて」でひとかたまりの感嘆の表現、と考えればよいのだろうか。 「彼が病気だなんて」などからできた言い方。 「だからといって撃ち殺すだなんてあんまりだ」という言い方もあるか。 (前の例文の続きではありません。:-P)
私なら「12年も経つなんて」「12年も経ったなんて」と言うだろうが、 「経つだなんて」には独自のニュアンスがあることも確かである。
きょうの宿題:「なんて」はどう品詞分解される?
付:助動詞活用表をもう一度見直してみたら、 「だ」は形容詞の連体形も同様に受ける。 「寒いならやめておけ」「外はきっと寒いだろう」など。 「寒いだなんて」という言い方もあるのだろうか?
2003-01-02 (4) 22:12:25 +0900
「共役」は「共軛」の「軛」が当用漢字にはいらなかったための書き換えである。 原語(の英訳)conjugate は con(共に)と jugate(くびき)からなり、 「軛」はくびきの意味だから、 「共軛」はもとの意味を伝えているが「共役」はそうではない。 単にオトが同じだというだけである。
このような書き換えをするよりは原語のまま conjugate と書いて日本語式発音で 「コンジュゲート」と読めばよい、という人もある。
英語にこだわる必要はないのだからラテン語の conjugatus (a は長い)を使えばよい、という人もある。 読み方は「コンユガートゥス」のようになろうか。 さらに、語尾 -us はラテン語の“都合”でついているのだから省いて conjugat とし、「コンユガート」でいいじゃないか、という説もある。 日本語は「コンビニ」「リストラ」のように四モーラを好むので、 「コンユガート」は「コンユガ」になりそうな気もする。
私自身が「共軛」から「共役」への書き換えに立ち会っていたら 「共ヤク」のようなかな書きを支持したと思う。 あるいは、やまとことばで「ともくびき」とするとか……。
2003-01-02 (4) 22:05:22 +0900
殺されたフンディングのうめき声かと思ったほどだった。
2003-01-02 (4) 16:22:32 +0900
ここ三年ほどのバイロイトの《ジークフリート》 では第二幕でアルベリヒが少年を連れて登場し、 最初の年はそれが誰なのか話題になったそうだ。 答えはハーゲンだそうだが、 《ワルキューレ》第二幕第二場のヴォータンのせりふによると、 このときハーゲンは胎内にいたようだからジークフリートとほとんど同い年であり、 《神々のたそがれ》第二幕第一場のハーゲンのせりふからすると、 実際の年齢よりはふけて見えたのではないかと思われる。
だから、《ジークフリート》にハーゲンを出すとしたら、 ジークフリート役よりも年上でないとおかしい、ということになろう。
付)私は、 ハーゲンはグンターやグートルーネと同様にギービヒ家で育てられたのだと思うが、 アルベリヒが別に育てて、割と最近ギービヒ家にはいった可能性もないわけではない。
2003-01-02 (4) 16:14:33 +0900
……しているようだ。
私が聞いている英語番組は 「英会話レッツスピーク」が 10:00-11:30, 「英語リスニング入門」が 14:15-15:45 に再放送を行なっている。 今までは十二月 31 日から一月 3 日まではお休みになるのが普通だった。
一カ月ほど遅れて聞いているのでどちらも録音しておいたが、 おおみそかの「英語リスニング入門」は年賀状を書きながら聞き流してもいた。
十月第一週・第二週の六回分の再放送だったが、 最初にいきなり「きょうは Unit 1 の復習です」と言われたのでちょっとびっくり。 Unit 1 の復習は第五回目の放送分だと思ったからだが、 この「復習」というのはこの年末年始の放送全体を意味しているのだった。 いま録音したテープを聞き返してみたら、 そのあとに「後期は」という、 十月第五週のときに録音しなおしたと思われる一言が流れ、 それから本放送時の「ラジオニュースや」につながっているようだ。 声の高さは「後期は」の部分が一番低い。 (《NHK「英会話リスニング入門」十月五週目の再放送は冒頭部分の声が違う (2002-11-28 (4) 22:34:41 +0900)》参照。)
1月号のテキストには金塊が 23 カラットであることの説明が間違っていたと訂正が載っていたが、 ここは元のまま放送されたようだった。 録音しなおすのがむずかしかったのでテキストで訂正したものか。
西垣知佳子先生のはきはきとした話し方が心地よく、年賀状書きがはかどった。
なお、六回分が次々と放送されたが、間に 15 時の時報が流れたのが意外だった。
ほかに、「ラジオ名人寄席」も聞いた。
2003-01-01 (3) 02:38:51 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-18 (4) 02:58:44 +0900
「マイスタージンガーの祝祭的な音楽と共に新年を迎えました」 のように言っていたが、 0 時ちょうどには第三幕への前奏曲が流れていたと記憶している。
2003-01-01 (3) 02:19:12 +0900
「靴屋」というと単に靴を売っているだけともとられかねない。
2003-01-01 (3) 02:13:12 +0900
曲が終わっていないのに拍手が始まる。 “聖地”バイロイトがそんなことでいいのか?!
2003-01-01 (3) 02:11:58 +0900
ちょっと調べてみたところ、7ケタの郵便番号は町名で決まるらしい。
今の住居表示は、昔の町名をなくしてしまったと評判が悪い地域もあるようだ。
そこで思ったのだが、町名は変えずにおき、 7ケタの郵便番号を合理的につけたらどうだったろうか。 ここで「合理的」というのは、 同じ番号の地域はひとまとまりになるように、 隣りあった番号の地域はなるべく隣りあうように、などとし、 郵便を配る際の便宜をはかることを意味する。 そうしておけばその番号を頼りに訪問する際も便利なはずである。 町名はどんなにごちゃごちゃしていてもよいとする。 町名と郵便番号の間の対応は複雑になってしまうが。
2003-01-01 (3) 01:47:35 +0900
町名を新しくしたとき、番地もふりなおしたのを見落としていました。 7ケタの郵便番号+昔の番地では、便利にはなるとは限りません。
2003-01-26 (0) 13:37:45 +0900
本文ナシ
2003-01-01 (3) 01:40:12 +0900
「゛」は左の点が先で、もちろん左上から右下へ。 「゜」は上のあたりに筆をおろして反時計回りだと思う。 どちらも、まずカナを書いて、それから書く。
「。」は下のあたりから始めて時計回りだと思うが、 これだと「゜」と逆回りになる。これであってる?
2003-01-01 (3) 01:33:42 +0900
上代特殊かなづかいも一致する。「と」は乙類。
2003-01-01 (3) 01:27:25 +0900
あの曲が流れるのは彼の遺体を殺害現場からギービヒ家へ運ぶシーンであり、 葬送のシーンではない。 彼の葬りはブリュンヒルデの自己犠牲による火葬、と考えるべきだろう。
2003-01-01 (3) 01:20:42 +0900
《ワルキューレ》のジークムントと 《神々のたそがれ》のジークフリートを同じテノール歌手が、 《ワルキューレ》のフンディングと 《神々のたそがれ》のハーゲンを同じバス歌手が演じた場合だ。
1956 年のバイロイト音楽祭の、 8 月 13 日からの「指環」でのヴォルフガング・ヴィントガッセンとヨゼフ・ グラインドルがそうだった。 これはジークフリート役に予定されていた歌手が不調であったためらしい。 《ジークフリート》のファフナーも同じバス歌手だったらここで“リベンジ” となるが、この公演では別人(アルノルト・ヴァン・ミル)が歌っている。
付: 前に 《指環>ジークムント・ジークフリートは父子ともに槍で殺されるんだった…… (2002-01-16 (3) 19:10:55 +0900)》を書いたが、これはあまり関係ない。
2002-12-31 (2) 02:39:45 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-18 (4) 03:00:25 +0900