1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

6月7日 辛巳 晴
  丑の刻、御所侍所に於いて、宿直の田舎侍闘乱を起こす。即時に死者二人・刃傷の者
  二人なり。鎌倉中鼓騒し、御家人等馳参す。佐々木の五郎これを搦め進す。和田左衛
  門の尉数輩の子孫・僕従等を率い参入せしむ。与党の輩を捜し求め、その罪違を糺断
  するなり。
 

6月8日 壬午 晴
  去る夜の闘乱は、宿直の間の枕相論より起こる。刃傷二人は伊達の四郎・萩生右馬の
  允等なり。死者は両方の郎従なり。今日各々配流す。伊達は佐渡の国、萩生は日向の
  国と。御所中の狼藉殊にその咎有るに依って、急速の沙汰に及ぶと。
 

6月15日 己丑
  常陸の国吉田庄の地下沙汰人等本所の所務を濫妨す。且つは去る文治二年閏七月二十
  五日の故右大将家の御下知に任せ、関東の御沙汰として、彼の下地を本所に付けらる
  べきの旨訴え申すの間、廣元朝臣の奉行として評議有り。文治の御下文と謂うは、計
  らい成敗有るべきの間、院宣を下さるるに就いて、御沙汰をはんぬ。今度はその儀無
  きなり。且つは地頭の輩の事に非ず。本所の沙汰人等の濫吹の事を以て、左右無く御
  裁許に覃び難きの由治定す。仍って今日その趣を載せ、御返事を出さるると。
 

6月20日 甲午
  将軍家寿福寺に渡御す。方丈手づから相伝の仏舎利三粒を進せ給うと。

*舎利[新編鎌倉志寿福寺寺宝]
  三粒あり。玉塔に納む。これを松風の玉と号す。積翆庵にあり。相伝う。実朝の所持
  なりと。(上記記事)方丈は栄西なり。この舎利を後またこの寺に納むるか。
 

6月22日 丙申
  御持仏堂に於いて聖徳太子の聖霊会を行わる。荘厳房以下請僧七人と。
 

6月24日 戊戌
  将軍家和田左衛門の尉義盛が家に入御す。御儲け甚だ丁寧なり。和漢将軍の影十二鋪
  を以て御引物たりと。