小説「夏の出来事」 ART観賞の合間に小説で気分転換!

小説、ART(絵画=抽象・具象・シュール)油絵・水彩・木版画(ARTの現場)GRA-MA

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〈嗚呼小説〉
夏の出来事
(page4)


鱗波海太、街の雑踏に。

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〈4〉

 
なんの変化も無くまた、一週間が過ぎた。もう習慣のようになりつつあった兎内皮膚科通い。いつの間にか、また待合室にいる、と言った感覚だ。受付の女性も止めずにいたみたいだ。
 このへんな先生に慣れてしまったのだろうか。それに、照明も両方ついていて部屋が明るくなっていた。中には診察中の女性がいるようだ、いつもの話声が聞こえる。
 鱗波海太は、もう慣れたよと言わんばかりに何も考えずに待っていると、数分してエレベーターのドアが開き、息をするのも苦しそうに太った六十代の女性が入ってきた。見ると、胸のあたりはケロイド状にただれている。右腕は、左腕の二倍くらいに腫れあがっている。彼は、心無くギクッとしたが、
 『ああ、きのどくだなァ、水虫よりこういう人が、医者を必要としているんだ』と、心を落ち着かせた。
 その女性は、肩で息をしながら少しの動作も大儀そうにゆっくりと歩き、彼の斜前の椅子に座った。これが医者の世界なんだな。人間の声が、心からの声が聞こえる所か。

 若い頃、彼は、清掃のアルバイトをしていた頃の事を思い出していた。東京女子医大病院のゴミを袋につめ、床を掃き、拭くという仕事だ。毎日、救急室にも入り、注射器やゴムチューブに血がついている使用済の医療用具やゴミ等を集めたりもし
た。最初は、この部屋で今まで生死をわける行為があり、苦しんでいる人がいたんだと思うと、なんと、濃い時間がここにはあることかと深く考えさせられたことがあった。しかし、ここで働く若い看護婦たちは何ごとも無いかのように、血を見ようが、傷を見ようが、死を見ようが、顔色ひとつ変えず働いている。
 ほんとうに、人間に必要なものって何。アルバイトをしている時も、思った。これは、ただの感傷的なつまらない考えなのだろうか。こんなに深くて、深刻な現場にいて看護婦さんたちは、化粧をしているし、ヘアースタイルも普通にオシャレだ。誰も、哲学者のような難しい顔をした人はいない。
 『ほんとうに、人間に必要なもの』
彼は、心の中で考えようとしたがやめた。
 そんなことはどうでもいいんだ、この前にいる女性のように苦しんでいる人がいて、外には、はしゃぎまわっている高校生がいる。ただそれだけのことなんだ、その両方を受け入れることなんだ。これが、必要なんだ。 彼は、考えを止めた時、結論を得た。

 前の患者の診察が終わり、名前を呼ばれ中に入っていった。先週着ていた服装と同じものを着ている先生がいた。
 『なるほど、とことん汚れるまで着て、新しいものに替えるというスタイルだな』以前より気にならなくなっていた。いつものお喋りが始まった頃、ドアが開き、さきほどの太った苦しそうな女性が入ってきた。息づかいで彼はすぐにその女性だと分かったが先生は気付かぬ様子だ。その時。
 「先生、奥さんが、来られました」と、受付の部屋から聞こえた。
 「・・・・・・・・」
彼は、先生を見た。先生は、聞こえぬようすで、何時ものようにカルテに書き込んだり、ハンコをおしたりしている。
「どこにいったのかな」ハンコを探しているが、なかなか見つからない。
 「なんのハンコですか」と、聞いてみるが上の空である。目の前にあった。動揺しているのかもしれないと、ふと思った。そのうち、奥さんと呼ばれた太った女性は、また、待ち合い室にもどった。
 『この先生、いったいどう言う人』
あらためて思わざるをえなかった。もう、考えるのをやめようとしたのに。診察が終わり、待ち合い室で薬が出るのを待っていると、奥さんが中に入っていって先生に何やら話している。
 「どうしたの」
 「なぜ、来たの」などと、
優しくいたわる先生の声だけ聞こえる。
 『ここは皮膚科だろ、それなのに奥さんがあんなひどい皮膚病になっているとは。あれは、皮膚病ではないのかも。いや、それにしても・・・。もしかして、先生、奥さんに薬物実験もしたのか』想像がぐるぐる頭をめぐった。
 いつもと何も変わらない表情の受付の女性が「鱗波さん」と名前を呼び、薬をくれた。エレベーターのボタンを押し中に入って、ドアの方に振り返った時、奥さんがゆっくり歩いてこちらに向かっていた。
 「下ですか」
閉まりそうなドアを開けて、その奥さんに言った。
 「う・・」
声が出ないのだろう、苦しそうに首をかすかに横に動かした。
 『この上階に住んでいるんだな、やはり、ここの先生のビルなんだろう』

 ドアが閉まり、ため息が出るようにエレベーターは一階まで降りて行った。

 来るたびに、何か変わったことがおきるこの皮膚科。彼は、この先生の医療に対する処置には、多少不安もあったが、なんとなく他の医者に替える気にもならず、いや、それより、ここで爪水虫を完全に治してやるぞ、といったような、へんな意気込みまで生まれていた。先生も奥さんにやさしいところがあって、なかなかいい男と言った感じに思えなくもなかった。
 薬も、効き始めていて皮膚の方は、きれいに水虫は消えていた。後は爪がはえかわるまでこの薬を飲めば完全に治るだろう。

 彼は、その日、会社が終わり週末によく行く焼き鳥屋のほうに無意識に足が向いていた。今日は火曜日だ。いつもだったらまっすぐ家に帰り、ナイターでも見ながら食事をし、その後は寝室のパソコンで自分の世界に入って、いつのまにか寝てしまうはずなのだが。

 「いらっしゃい。ひとり?」
マスターが迎えてくれた。焼き鳥屋なのになぜかここの主人のことをマスターと呼んでいた。六十前後の小柄で中肉中背、どこか品のいいところがあるからだろうか。
 「今日はね。なんかふらっと足がね」
細長い店で、一階は入口の方にテーブル席が三つほどと、カウンターが奥にあり、そのカウンターの一番奥に海太は座った。
 「ビールにしようかな。それと、枝豆、タン、ハツ、レバ」
おしぼりと突き出しをもってきた中年の女性に言った。主婦のアルバイトといった感じだ。
 『そういえば兎内皮膚科の受付の女性もそんな感じだが、この人とはちょっと違うなぁ』そんなことを考えながらまたあの先生の世界をぼんやり思い出していた。
 ここのお客は、ほとんどがサラリーマンである。時間がたつににつれて座席はうまり会社帰りのグループが、それぞれの話題で賑やかにざわめいてきた。会社から離れて少しでもそのかた苦しい気分を切り替えようとしているように見えていた。
 仕事の続きで呑んでいる人たちもいるだろうが、いつもの緊張から解放されたくて来ている。だが、今日の鱗波海太は、違っていた。日常から逃れたくて来たわけではなく、日常に会いに来たような気持ちだった。同じようなサラリーマンや呑んベーたちのいる所。会社も日常、呑み屋も日常。

 「はい」ビールと枝豆を女性が持って来た。
 「いつも一緒にくる人、今日は来ないの」とマスター。
 「呼べばくると思うけど、忙しそうだしね。ま、たまにはゆっくりと一人で、なんてね」仕事仲間のたまり場になっていた。

 政治の話しに夢中になっているグループ、会社の愚痴や、同僚の話題があちこちで盛り上がっていく。
 そういえば、あの先生は飲みに行ったりするんだろうか。そんな日常があるのだろうか。また、頭の中をよぎった。

 「ここの焼き鳥旨いんですよ」お世辞じゃなくそお思っている彼の所に、串にさした焼きたてが来た。

 一時間ほどいて、ビール二本と焼き鳥数本で店を出た。単純なものであるほろ酔い気分で、すっかりあの皮膚科のことも忘れてしまっていた。

 一週間がまたなんの変わりも無く過ぎ、兎内皮膚科の診察室にいた。先生は、やはり先週と同じ服を着ていたし、部屋も本や書類の山が相変わらずそのままであった。何も変わっていない。
 「お願いします」彼は、先週の奥さんのことを先生が気にしているかもしれないと感じ、なるべく何ごとも無かったようにふるまうようにした。
 「どうですか」先生が言った。
 「だいぶよくなりましたが、やはり爪の方がまだ・・」
靴下を脱ぎ見せたかったが、先生は、見る必要がないといったようすである。
 「あなた、ここにケロイドあるね」先生が、いきなり言った。
 「ああ、これ、これはもう治りませんよ」彼は、笑いながら言った。確かに、鱗波海太の左腕にはちょっと見ギョットするほどの火傷の跡があったが、彼自身大人に成ってからはほとんど気にしていなかった。
 『先生、いきなりこんなことを言い出すのは、やはり先週の奥さんの異常な姿のことで、人目を気にしているんだな』彼は思った。
 「・・」彼の、さらっとした態度に先生も安心したかのように顔がゆるんだように見えた。
 『先生も弱いとこあるんだな』
なんだか今までの我が道を行くタイプの人で、人目など全然気にしない人かと思っていたのが一気に崩れ去ったようなきがした。
 『先生、その方が人間らしくていいかも、ついでに部屋も片付けたらいいのに』などと思った。

 慣れなのだろうか、もしくは、この先生が意外に小心者なのではないかと感じてきたからなのか、最初のこの皮膚科に対する嫌悪感は薄れ、何も気にならずに診察を受けるようになっていた。
 もしかして、自分はこの変な先生に、社会での出世コースに乗り切れなかった自身を慰めてもらっているのではないかとも感じていた。こんなに仕事場が汚くても仕事している。小心者でも気にすることはない。価値観を変えて気楽になろう。そんな言葉が頭をめぐり始めた。この先生がそんな考えを持っているとは思わないし、小心者の自分を気にしていないとも思えないのだが、なぜか彼にはそう感じた。

 そして、この日の診察も終わり、また一週間が過ぎた。 

 この先生、この先どんな面白い展回を見せてくれるのか、今度は期待のような変な気持ちで鱗波海太は兎内ビルの前に立っていた。
 エレベーターに向かいボタンを押した。
 ドアが開いた。中に入った。
 「・・・・」

 『しばらく、休みます』

 エレベーターの中の階を押すボタンの上に小さな貼紙がしてあった。ボタンを押しても何の反応もない。
 「へーっ、これが落ちなの。先生。冗談きついな。まいったなァ」

 彼は、数時間して、この先生から解放されたような気分になっていた。そして、翌日、会社からこの兎内皮膚科より十分ほど遠くにあるクリニックを訪ねた。
 皮膚科、内科、アレルギー科、小児科、形成外科などがあり万全の設備で対応していた。これが、普通の医者の姿だ、と彼は思った。待ち合い室は明るく、変なイライラもないただただ合理的に流れていく診察手順。
 ここでは、血液検査もし、飲み薬の他に塗り薬も各二週間分(兎内皮膚科は一週間分)出た。飲み薬は同じイトリゾールではあったが注意書きのカードをくれた。

 そこには・・・


 〈注意〉現在のんでいるお薬がある方は、必ず担当医師にお申し出下さい。また、他の心療科や病院・医院を受診される時には必ずイトリゾールカプセル50を
飲んでいることをお伝え下さい。

 と、書いてあった。


 血液検査は、飲み薬のイトリゾールの肝臓への副作用を調べる為ということだ。塗り薬は、飲み薬が免疫性まで奪ってしまうので塗るようにとのことである。兎内皮膚科は、ただ薬をくれただけだ。この薬について何の説明もなかった。それどころか、副作用はないと言っていた。なんということだ、ホームページで調べた時に記載されていたのだ。もっとよく読んで、あの時、追求するべきだだったのか。
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禁忌
(1)テルフェナジン,アステミゾールを投与中の患者
:心血管系の副作用が現れるおそれがある。
(2)トリアゾラムを投与中の患者
:トリアゾラムの作用が増強及び延長される可能性がある。
(3)本剤に対して過敏症の既往歴のある患者
(4)重篤な肝疾患の現症,既往歴のある患者
:不可逆的な肝障害になるおそれがある
(5)妊婦又は妊娠している可能性のある女性
:動物実験 (ラット)で催奇形性が報告されている。

 
併用禁忌
(1)テルフェナジン、アステミゾール
:まれにQT延長、心室性不整脈 (torsades de pointesを含む)、あるいは外国では心停止 (死亡を含む)などの心血管系の副作用が報告されている。
(2)トリアゾラム
:代謝遅滞による血中濃度の上昇、作用の増強,及び作用時間の延長が報告されている。本剤は肝チトクロームP450 3Aを阻害するので、併用により前記薬剤の代謝を阻害し、血中濃度を上昇させることがある。

 
副作用例
(1)急性心不全
:骨髄移植後の免疫抑制状態の患者において、まれに急性心不全が現れることがある。
(2)肝臓
:まれに黄疸、ときにGOT、GPT、LD、γ‐GTP、Al‐P、総タンパク、総コレステロール、血清ビリルビン、LAPの上昇等が現れることがある(3) (外国症例)
:皮膚粘膜眼症候群(Stevens‐Johnson症候群)
:外国においてまれに皮膚粘膜眼症候群(Stevens
Johnson症候群)が現れるとの報告がある。
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 ホームページ“薬110番”に「禁忌」「副作用例」として確かに書かれている。
 俺は、人がいいのか、なぜ、あんな見るからにおかしいと分かる所に何週間も通っていたのか。
 また、何とセンチな気分にまでなっていたことか。

 診察が終わり、鱗波海太は、サラリーマンがお昼の食事をするために
溢れ出た街の雑踏に吸い込まれるように消えていった。



     おわり

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