淀んだ『空気』 -見えない敵-
 権力に対立すること自体を『悪』とする空気は、日本全体に漂っている。これは歴史と無関係ではない。日本の民主主義は下から勝ち取ったものではなく米国から与えられたもので、日本の国民は、歴史上、権力に本格的に立ち向かった経験がほとんどない。更に、マスコミが権力そのものと化すことによって体制側有利の情報が支配的となり、「権力=正義」という誤った空気によって社会全体が洗脳されている。根の深い問題だが、ネット社会の到来と民主化への不可逆的変化のなかで、改善の可能性もあると考えている。


 「日経は言うまでもないが、社会全体でも、反体制派なんて、多くて1割くらいじゃないか」。同期の記者とこんな話をしていたのを思い出す。実はこれは私が大学時代から感じていた命題だ。もっと批判精神の高い人間が集ってきているのかと思いきや、全然いなかった。そもそも、社会を良い方向に変えていくには、少なくとも現状の体制に対する健全な批判精神が不可欠であるが、大学には、体制の甘い汁を吸って生きることばかり考えている人間が多かった。私が日本の現体制の問題点と変革について訴えると、「まるで革命児だな」と言われてしまうのだった。特に女性は、体制の権化と化している人が多く、哀れみさえ感じさせた。情報操作の被害者なのである。

 体制に従順である人間は概して文部省の詰め込み教育に疑問を持たないため、偏差値も高く、日本では優等生と呼ばれている。変革を迫られている時代遅れの腐敗した体制における優等生ということは、イコール、本来の意味では劣等生ということだ。そういう輩が、日本では、いわゆる一流と呼ばれる大学に入る仕組みになっていて、同様に難関と呼ばれる企業に入っていくため、体制派が多数を占めるのもやむを得ないのだろう。縦割りの学問体系を批判し「学際的」「実学重視」「問題発見・解決型」を理念にうたうSFCでさえそうなのだから、他大学ではもっと酷いはずだ。(ちなみに私は国語や社会の詰め込み教育に断固反対の意志が固かったため、どちらも偏差値50程度で、受験の延長上の問題しか出せない読売の入社試験など途中で棄権したくらいだ)

 かくして、日本のいわゆる一流大学・一流企業において体制派が社会の中枢を支配し、権力の甘い汁を吸うシステムが出来てしまっている。現状では、それに逆らわないことこそが楽に生きられることを意味し、それこそが正義であり、逆らう奴は悪、という「空気」が支配するようになっている。そして、空気の支配に何らの疑問も持たない。特に、戦後のベビーブーマー世代(我々の親の世代)ではそれが顕著だ。ここで言う空気は、「世間」とも言い換えられる。

 驚いたのは、今回の争いの件で、日経が私の実家に反省を促す手紙を出してきたことだ。卑怯というか、一人前の社会人を、家族かなんかと勘違いしているアホさである。更に驚いたことには、うちの両親が何の疑いも持たずに、日経こそ正しく我が子が悪いのだ、と決めつけたことだ。日経本社に謝りに行こうと考えていた、というのだから絶望的である(勿論、止めさせたが)。両者の話を聞いて論理的に考えるという気は一切なく、とにかく体制側が正しいに決まっている、という思想。いったい、この国はどこまでダメな国なんだろうか。これでは、北朝鮮と何が違うというのか。私はこの件で、親に対して完全に見切りを付けることができた。昔から親を反面教師に生きてきたが、100%価値観が異なる親の下に生まれた不幸を改めて感じた。正義感は、私が最も大事にしている価値観である。もう二度と会う気もしない。

 私がこれまでの人生で実感しているのは、この日本全体を覆っている「体制=善玉、反体制=悪玉」という「空気」こそが、日本の本質的な病理だということだ。日本の腐敗した権力構造(=体制)に批判的な人間は、なかなか周囲から理解されないし、経済的にも報われない。そもそも、回りの空気に流されていれば良い、と考える「メダカ型人間」がとにかく多い。

 しかし、これは日本の民族古来の伝統という訳でもないようだ。山本七平著「空気の研究」によれば、「猛威を振い出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には『空気』に支配されることを『恥』とする一面があったと思われる。『いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて軽挙妄動するとは…』といった言葉に表れているように、人間とは『空気』に支配されてはならない存在であっても『今の空気では仕方がない』と言ってよい存在ではなかったのである」。

 情報を伝達する権力べったりのマスコミが腐っていることにより、「空気」はますます淀んでいる。「週刊金曜日」のような「プライバシー以外の全てのタブーを排す」というジャーナリズムとしては当然の権力批判が可能なメディアは、ごくごく少数派で、むしろ日本の「空気」の中では、まるで悪いことでもしているかのごとくひっそりとしており、存在感もない。しかし、現体制と対極に向かって変わっていくベクトルだけは、変わり様がない。大前研一氏が私財6億円を投じた「平成維新」の理念や、民主党の一部も掲げている生活者(受益者)主権の国・市民が主権を持つ本来の民主主義は、方向としては揺るぎないはずである。私は、「男子たるもの」として、インターネットなど新メディアを活用することで、「空気」の流れを変えるための活動を惜しみなく進める考えだ。

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