勇気のない知識人たち
 活動の場を奪われることを恐れる知識人たちは、大マスコミに何も言えなくなっている。今、彼等に必要なのは「勇気」だ。権力と癒着し統治構造に組み込まれ利権のおこぼれに与るのではなく、おかしいことは「おかしい」と言える勇気を、是非とも持って欲しい。言わないということは消極的な賛成だ。特に「トリプルAクラス」の知識人には、徹底的に大マスコミを批判して貰いたい。
 「知識人はいろんな定義がありますけど、これだけは抜かせない条件というのは誠実さのほかに、勇気だと思うんですよ」(「滅び行くジャーナリズム」本多勝一)。いささか死語になりつつあるが、マスコミの腐敗状況を見るにつけ、学者・エコノミストといった、いわゆる「知識人」の役割は大きいと思う。しかし実際には、一部を除いて、魂を売り払っているような輩ばかりに見える。

 大新聞・テレビに対する批判は、そこが知識人の重要な活動の場であるだけに、難しいのだ。知識人は、完全に大新聞・テレビのステークホルダー(利害関係者)なのである。彼等にとっては、公の利益や社会正義のために日経を批判することよりも、日経の「経済教室」に出ることのほうが、私利私欲を追及する上で、はるかに重要なのである。特に、売り出し中の若手や、メディアに出て講演料を釣り上げたい人たちは、とても記者クラブや再販制について、一般的な規範論でごまかす以上のことはしない。徹底的に本質を論じることはない。結局、「自分かわいさ」が優先なのだ。

 メディアを批判してきた勇気ある論客は、確かに活動の場を奪われている。井沢元彦氏、猪瀬直樹氏、佐高信氏などがそうだろう。彼等は新聞に叩かれることはあっても、原稿の依頼が来ることはない。言うべきことを最もはっきり述べる大前研一氏もそうだ。大前氏は世界に通用する数少ない日本の論客だが、日経についてごく当り前の意見を述べただけで、紙面から排除されてしまっている。本来なら「経済教室」ほか、様々な欄に登場して然るべき人材であることは疑いがないが、大前氏は少なくとも過去一年、全く日経の紙面に出ていない(書籍紹介を除いて)。以下のような意見を平然と述べるからである。

「『日本経済新聞』は経済の専門紙を名乗っていながら、いくらその中身を丹念に読んでいても日本経済の実態は全く分からない。なぜなら、『日本経済新聞』は経団連などの経済界や大蔵省の言い分を伝える“財界クラブ機関紙”だからである。同紙は、株価が一万五千円を割った時も、本来なら1面のトップ記事にして警鐘を鳴らさなければいけないのに、左下の片隅に小さく扱っただけだった。大蔵省から『危機感を煽るな』と言われていたのかと勘ぐりたくなる主体性のなさである。」「たとえば『ウォールストリート・ジャーナル』には『オポエド』という『朝日新聞』の『論壇』や『読売新聞』の『論点』と同じようなオピニオン・コラムがある。私は『オポエド』に世界で最も多く意見を発表している人間の1人だが、『オポエド』が毎日3、4人の意見を全段を使い掲載するのに対し、『論壇』や『論点』は週1回1人だけである。」(以上、SAPIO 98/11/11)「日本経済新聞を読んでいると、日本経済がわからなくなる。企業の次期社長が誰かということが、他紙より半日早くわかるだけ。日本経済界新聞、日本財界新聞に過ぎません。」(SAPIO 98/12/9)

 結局、こうした「批判する者は許さない」という新聞社の悪しき体質がある限り、勇気のある知識人は活躍の場を奪われ、体制派、権力迎合的な知識人が幅を利かせるようになるのだ。

 例えば、「御用学者」として名を馳せる草野厚氏などは、経済に疎い政治学の教授でありながら、「経済教室」欄に頻繁に登場する。これは編集委員などにすり寄り(つまり権力と癒着し)、絶対に日経を批判しないという取引きが暗黙の内に出来ているからだ。実は、本心では大マスコミの情報独占に批判的だったりするから始末が悪い。「勇気がない」「公人としての自覚がない」と言わざるを得ない所以である。読者から見たら「経済教室」は、やはり草野氏でなくて大前氏のものを読みたいであろう。日経にとっては、読者や公の利益、紙面のクオリティーなど、そもそも眼中にないのだ。

 ちなみに、草野氏は、今回の私の内部告発が発覚し、日経から圧力がかかるやいなや、手のひらを返すように、態度を180度変えた。それは驚くほどの変わりようだった。それまでは、「いや〜、SFCのことを説明する時には、いつも君のことを引き合いに出すんだよ」などと、週刊朝日に掲載された件について半ば上機嫌に言っていたくせに、日経の幹部が怒り出すやいなや、「君がやったことは議論の余地がなく悪い」などと突然、言い出したのである。開いた口が塞がらないとはこのことだ。確かに、ここで日経側につかないと今後、編集委員を通して得ている官庁からのリーク情報など「利権」のおこぼれに預れなくなるし、紙面にも登場できなくなる。「御用学者」として築いてきた官僚との関係も崩れ、仕事もやりにくくなるだろう。しかしそれならば、最初から立場を一貫させるべきだった。私のやっていたことは全て知っていたのだから。権力から圧力がかかるやいなや立場をコロっと変えるあたり、日本の知識人の暗部を象徴していてあまりに滑稽だ。私は、人間とはどこまで私利私欲に忠実になれるものだろうか、どこまで御都合主義に走れるものか、と真剣に考えてしまった。


 こうした「批判する者は許さじ」という姿勢があるため、紙面の論調には当然、聖域が出来る。少しでも日経の利益に絡むと見たら、それは徹底的に排除されるのだ。例えば、amazon.comという好調な米国経済を象徴するベンチャー企業があるが、amazon社が成長できた決定的な要因は、再販制度という規制がないことであった。ネットで書籍を販売することによって流通経費を抑え、価格を最大で半額にまで下げたことが消費者に受け入れられたのである。再販制で定価販売が義務付けられている日本では、絶対に生まれ得ない企業なのだ。日本が本当に新産業を育成して経済を活性化させたければ、こうした規制の撤廃を本気で進めなければならないことは明白である。

 しかしアマゾン社について、株価の騰落を伝えはしても、こうした「規制」の論点から論じる新聞はない。自ら再販制などの規制に守られ、政府と癒着して、ぬるま湯にどっぷり浸かっているからである。既に、安全性などに関する「社会的規制」は別として、経済活動に関する「経済的規制」を撤廃すべきという方向性では、誰もが賛成している。そして、再販制は明らかな「経済的規制」だ。しかし経済人や知識人までもが、自らの活動の舞台である新聞・雑誌に嫌われることを恐れ、この問題をタブー化してしまっている。ここにも、日本の深い病理がある。 


 従って、メディアを批判できるとすれば、力関係で圧倒的な上位に位置するような「トリプルAクラス」の知識人でないと無理である。彼等は、干されるリスクを考える必要がない。活躍の場は沢山あるからだ。それは例えば、野口悠紀雄、筑紫哲也、田原総一朗、竹中平蔵、中谷巌、大前研一、立花隆の各氏といった、忙しくて仕方がなく、仕事を選ぶことができるごく少数の人たちである。だからこそ、「トリプルAクラス」の役割は決定的に重要であり、その役割を果たす社会的責務を負っていることを自覚していただきたいのである。私の知る限り、筑紫哲也氏は時々、記者クラブ批判をするが、不十分だ。大前氏の率直さには敬服するが、もっと徹底的にやって欲しい。

 →ホームへ