理由のわからない苛立ちに、呂望は苛まれていた。
この頃、いつもそうだ。特に天化と一緒に居ると、胸の中にもやもやとした霧が
どこからともなく溢れだす。
それが、たまらなく嫌だった。
まるで自分が自分じゃないような、そんな錯覚に囚われてしまう。
そして、ふと気がつくと、無意識のうちに天化の姿を目で追っているのだ。
そう、こんなふうに。
天化は窓の外の暗闇をじっと見つめていた。
そうして、もう一刻になる。何を考えているのか…ひどく気になった。
けれど二週間前の一件がしこりとなって、彼に声をかけさせることを躊躇わせていた。
『太公望』
唐突に、その名が呂望の胸を過る。
何度となく、天化が口にする名前。呂望にそっくりだという、彼の師叔。その人の事を、
彼は今も想っているのだろうか。
そう考えると、憎悪にも似た感情が自分の中で荒れ狂うのを止められなかった。
「……─、呂望っ!」
「…………えっっ………?」
呼ばれて、顔を上げる。
「な、なに?」
「なにって、…お湯溢れてるさ。」
見れば、盆に乗った茶器から熱湯がぽたぽたと溢れ出していた。
天化以上に物思いに耽っていたせいで、自分が何をしようとしていたのかすっかり
失念していたのだ。
「あっ──………」
慌てて急須を置き、滴る雫を布巾でぬぐい取る。
「大丈夫さ………?」
気遣わしげに覗き込まれ、呂望の頬がかぁっと朱に染まった。
「…な、なんでもない。」
ぐいと天化の体から身を放す。外に漏れそうなほど高まる動悸を悟られそうで、落ち着かない。
彼が側にいるのが、苦しくてたまらなかった。
「なんでもないから…」
「なら…いいけどさ…」
強く言い切ると、天化もそれ以上は追求しない。
しかしまだ心配なのか、彼は呂望の側から離れようとしない。
はやく離れてほしい。そう思うのに、けれど一方ではそんな天化の気遣いが嬉しくて、
自分からはそれ以上離れられない。。
「普賢サ…ンの台詞じゃないけど、呂望はすぐ無理するからほっとけないさ。」
労るような、優しい微笑み。これが自分だけに向けられたら…。
普段の呂望からは信じられない願望が、彼の心を大きく占める。だが、そんな束の間の幻を
破ったのは他でもない天化の一言だった。
「ホント、スースも無茶ばかりしてたもんな…」
それは、本当に小さな呟きだった。いつもの呂望なら聞き逃していたかもしれないくらいの。
が、皮肉にも今の彼は『いつもの呂望』ではなかった。
意識のすべてが、天化へと集中している。
その天化の呟きを、いまの呂望が聞き漏らすはずがない。
言いようのない屈辱に、呂望は身を震わせた。
頭では、理解しているつもりだった。
一人ぼっちで迷っていた天化が自分に近しい人を重ねて見てしまうのは、仕方のないことだ。
その人が呂望に似ているというのなら、尚更だろう。
だが。
だが、何故いつまでも自分を『身代わり』にするのか。呂望を透かして、『太公望』を見ようとするのか。
目の前の呂望を見ようともしないで。
自身を否定される屈辱に、初めて呂望は音を上げた。 止めて。そんな目で見ないで。
僕を『その人』と重ねないで。
声に出来ない叫びが、ぐるぐると呂望の脳に渦巻く。
気がついたら、怒鳴っていた。
「…っ!いい加減にしろっ!」
「呂望っ 」
急に怒られ、天化は仰天する。
「僕は『太公望師叔』じゃないっ!」
「ちょっ…呂望、落ち着くさ…──」
「僕は呂望だっ!」
「そんなこと判って…」
「判ってないじゃないかっ!」
戸惑いも露な天化を、呂望はきっと睨みつける。
「いつだって、天化は僕を『太公望』って人と重ねてっ!間違えてっ!目の前の
僕の事なんか、全然見てないじゃないか!」
「呂望………?」
「僕を『太公望』と比べるなっ!」
僕を見てよ…頼むから。
目の前にいる僕を、ちゃんとその瞳で。
そう云いたいのに、言葉に出来ない。
ただ苦しげに天化を見詰めることしか、いまの彼には出来なかった。
「………………」
呂望自身気づいていない想いをぶつけられ、天化は漸く気づく。
彼が云ってること…それは、天化が太公望に対して思っていたことと同じだ。
これは現実なのだろうか。…自惚れても、いいのか。
呂望が──自分を好いていてくれるなど。これは、本当に現実なのか?
沈黙したまま己を見詰める天化の視線に耐えられず、呂望が逃げ出そうとした途端。
天化は動いた。
驚くほどの素早さで、呂望をかたく抱き締める。
「………っ離せっ!」
いきなりの抱擁に、呂望は我武者羅に暴れる。
しかし明らかな体格差がものを言い、束縛の手は微塵も揺るがない。むしろ、ますます強くなる。
「離せってばっ!」
「いやだ。」
きっぱりと、天化は断言する。
悔しくて、泣きそうな自分を見られたくなくて、呂望は考えつく限りの罵詈雑言を浴びせる。
「天化の馬鹿っ!だいっきらいだっ」
「いいから、俺っちの話を聞いてくれ。」
真剣に凄まれ、呂望の抵抗がぴたりと止む。
腕の中の肢体がおとなしくなったのを確認すると、天化は静かに話し始めた。
「アンタは…これから五十年後、ある計画の為に人間界に戻るさ。」
「…………………………」
「妲己っつぅ悪い仙女と、殷王朝を倒して『周』っていう国を建てるんだ。」
「周…………?」
「そう。『仙道のいない平和な人界』を作るために、戦うんだ。俺っちも、それに参戦してる。
アンタの仲間として。」
「天化が…………?」
「うん。…そこで、アンタはみんなからこう呼ばれてるのさ………『太公望』って。」
呂望の瞳が、微かに見開く。
「俺っちの一番大事な『太公望』は……五十年後のアンタなのさ。」
天化はゆっくりと、噛んで含めるように呂望に告げる。信じてくれるかどうか…不安はあったが、
天化は包み隠さず話した。
「…本当、なのか?」
掠れた声が、天化に問う。俄には信じられない。
それが真実なら、天化は未来から来たことになるではないか。しかし呂望の疑念は、天化の
真摯な眼差しに玉砕する。
こんな瞳が出来る人が、偽りをいえるはずがない。
ぽろぽろと、呂望の大きな瞳から透明な粒が溢れ出す。 嬉しくても涙が出ることを、
呂望は初めて知った。
きらきらと頬を伝うそれを、天化は一つ一つ唇で拭き取る。
腕の中の存在が、これ程愛しいと感じたことは無かった。
もっとこうしていたい。けれど───
天化は薄々気づいていた。
自分の想いには、肉の欲望も含まれていることに。
現に今も、呂望の服を引き裂いてその身を貪りたいという浅ましい衝動が、脳を焼き切る
勢いで燃え盛っている。
聖人君子ぶる気は毛頭ないが、まだ幼い呂望を傷つけるのは嫌だった。
「………天化?」
急に離れた温もりに、潤んだ瞳が不思議そうに揺れる。
「俺っち、今日は外で寝るさ」
「っ、どうして…?」
「俺っちの『好き』は、呂望のみたく奇麗じゃないのさ。」
苦笑して、呂望の不安げな顔を見下ろす。
「こうして抱き締めてたら、もっと呂望が欲しくなる。…俺っち、欲張りだからね。
きっと呂望が泣くまで、酷いことしちまうさ。」
だから、と。天化は部屋を出ようとした。
しかし服の裾を掴まれ、それはかなわない。呂望の左手が、がっちりと掴んで離さないのだ。
「呂望……?」
真っ赤に頬を染めた呂望が、俯きがちに小さく呟く。
「…側に、いて。」
「だからっ───っ」
云ったことが判らなかったのだろうか。苛立だしく感じながらも、もう一度説明しようとした
天化を、呂望が遮る。
「それでもいいから…酷いことしてもいいから、僕の側に居て。」