剥き出しの肌を刺激する冷気に、天化はゆるゆると目を覚ました。
「…………………ん…………………」
重い瞼を開いて辺りを見渡せば、薄暗い室内を朝日が無遠慮に照らし出している。
(もう朝か…………)
少しだけ身を起こし、腕の中の呂望を見下ろす。
昨夜の疲れが残っているのか、まだ目覚める気配はない。前髪が落とす影にふちどられた
寝顔は想像以上に幼くて、天化は口元が緩むのを抑えられなかった。
(まだ信じられないさ……)
太公望――呂望を、こうして抱き締めることが出来るなんて…。
胸にかかる心地よい重みは、これが現実だと確かに告げているのに。
それでも天化は信じられなかった。
これが夢なら――いや、夢でもいい。
夢でもいいから、もう少しだけ覚めないでいて欲しい。
その思いが無意識にはたらいたのか。
自分でも気づかぬうちに両腕に力が入っていたらしく、呂望がかすかに身じろいだ。
長い睫が小刻みに痙攣し、彼の覚醒を伝える。
「…ん………」
天化の大好きな瑠璃色の瞳が、ゆっくりと開いた。
「ゴメン、起こしたさ…?」
慌てて謝れば、呂望がふるふると首を振る。
なにか云わなければ――。
そうは思うが、他者(含・楊ゼン)と違って絶対的に経験不足の天化には、こういう時に何を
云えばよいのか思いつかない。
一方呂望の方も、気恥ずかしさもあって俯いたまま何も喋らない。
どれくらいの間、そうして二人して照れ合っていたのか。先に痺れを切らしたのは、意外にも
呂望のほうだった。
むくりと起き上がり、呂望は床に脱ぎ捨てたままの着衣に手をかける。
途中思わず漏らした彼の呻き声に、元凶である天化は慌てて手をかそうとしたが、呂望は真っ赤に
なってその手を払い、自分の服のポケットをごそごそと弄った。
目当ての物を見つけだすと彼は天化の方へ向き直り、意を決したのか口を開いた。
「…天化、手を出して。」
「はっ?」
急にそんなお願いをされ、天化は面食らう。それでも素直に従うところは彼の良い所だ。
黙って右手を差し出す。無骨な天化の掌に、傷一つない華奢な呂望の手が重なり、なにかを置いた。
「これ………?」
差し出されたのは、何かの牙に革紐を通した質素な首飾りだった。
「俺っちに、くれるの?」
問いかけると、コクリと呂望は頷く。
「でも、これアンタの大事なものじゃないさ?」
喜びと多少の困惑に、天化の声は掠れた。
それは古い物らしく、紐も所々擦り切れていて牙自体も化石のように黄ばんでいる。
だがそれは同時に、長い間呂望が身につけていたという証しでもあった。
「死んだ兄上が、僕にくれたお守りなんだ。」
「で、でも、そんな大事な物、受け取れないさ。」
「天化に…持っていて欲しいんだ。」
ためらう天化に、きっぱりと呂望は告げる。
「もうすぐ…天化は帰ってしまうのだろう?」
「………………………うん。」
「だったら、いつか再び会える日まで……これはその、約束の証しだから……。」
そう云って、呂望は微笑った。笑うことなれてない為か、その笑顔は未だ何処かぎこちなかったけれど。
天化の為に彼が精一杯努力しているのは、痛いほど感じた。
言葉にできぬほど愛しさが込み上げる。気がつけば、呂望を抱き締めていた。
「……て……天化………………?」
戸惑う呂望に構わず、天化は更に強く抱き締める。
あまりの幸せに、くらくらと目眩がした。
この人は…。この人は、どうしていつも自分が欲しいと思う言葉を一番欲しい時に与えてくれるのだろう。
驚きとともに、彼は確信する。
やっぱり、この人は『太公望』だ。
だって、天化の胸に燻っていた不安を彼はいとも容易く消し去ってしまったのだから。
こんな魔法が使えるのは、太公望だけだ。
自分が惹かれた、唯一無二の存在。
「…わかった。」
天化は小さく笑い、首飾りを受け取った。
「絶対、大事にするさ。」
彼の言葉に、呂望はもう一度微笑んだ。
その笑顔に目を細めて、天化は思う。
きっと、自分は此処での出来事を忘れないだろう。いいや、絶対に忘れない。
この笑顔を、誰が忘れるものか。
『これ』は、天化一人のものだ。
「…そろそろ、朝食の支度をしないと…。」
おもむろに、呂望が切り出す。もっとこうしていたかったが、彼の云うとおり天化の腹の虫も
そろそろ鳴き出す頃合いだった。
「じゃ、俺っち水汲みにいってくるさ。」
「でも、今日は僕の………」
「いいって、俺っちがやるからさ。」
起き出そうとする呂望を押し止どめ、天化は素早く立ち上がる。
「それに…」
いったん言葉を切り、呂望の腰に視線を落とす。
「…それに…その、初めての後じゃあの崖は腰に悪いさ……」
「なっ…――――っ」
瞬間、彼の顔が真っ赤に茹で上がった。
「よっよっ、余計な世話だっっ!」
呂望は怒りのまま、手近にあった枕をおもいっきり投げ付けた。
「わっ、無理しちゃだめさっ!」
飛んできた枕を難無く避け、天化は悪戯っぽく彼に笑いかける。
「すぐに汲んでくるから、待ってるさ。」
太乙よろしくウインクをお見舞いして、天化は外へと飛び出した。
道府前のごつごつとした岩場を軽やかに駆け降り、小川へと辿り着く。
キラキラと光を反射して輝く水面に、手にした瓶を差し入れた。
それを待ち望んでいたように、清水が瓶の中へ吸い込まれていく。瞬く間に、瓶は水で一杯になった。
「よし、この位でいいさ。」
重くなった瓶を担ぎ、立ち上がる。
その直後―――――――
あの『感覚』が、再び天化を襲った。
「うわっ…」
ぐるぐると目まぐるしく回りながら歪む景色に、天化は悲鳴を上げる。
この前とは比べものにならぬ程強い目眩が、見えない鎖となって天化をきつく締め付けた。
「…っうぁああああぁっ――――――っ!」
体中の骨という骨が軋み、筋という筋が激しい収縮を繰り返す。
生きたまま体を裂かれるかのような激痛に、天化の意識は遠のきかけた。
「天化ぁっ!」
自分をを呼ぶ声に、僅かに意識が引き戻される。
見上げれば、叫び声を聞きつけた呂望が道府から飛び出してきた。
「天化………っ!」
呂望の目に入ったもの―――それは川の中央、ぽっかりと口を開けた虚空に、今まさに
飲み込まれようとしている天化の姿だった。
「呂望っ…!」
苦しげに顔を歪め、天化が呂望へと手を伸ばす。
その姿に、呂望は弾かれたように崖を駆け降りた。
「天化っ、いま行くから――――――っ」
険しい急斜面に、情事後の身体が鋭い悲鳴を上げる。
しかしこのまま天化を失うかもしれないという恐怖が、彼に痛みを忘れさせた。
「天化っ!」
斜面を一気に滑り降り、蹲る天化へと駆け寄る。
もう少しで彼の手を掴めると感じた瞬間――呂望の目前から、天化の姿はかき消えた。
「―――――――――っ!」
呂望の喉が、声にならない悲鳴を轟かす。
後に残されたのは…最初から何も無かった様に流れる、川のせせらぎだけだった。