簡素な寝台の上で、天化は人生で一、二を争うくらいの難問に頭を抱えていた。

意識を取り戻してから、既に五日の時が過ぎている。

 呂望が天化を見つけてこの道府に連れ帰ったという日数を足すと、およそ七日ほど経っていた。

 彼の話によると、自分は道府の下にある沢に傷だらけで一人倒れていたらしい。

辛うじて息をしていたので、此処に運んだのだと呂望は云った。

 「………呂望…か………」

 いまは此処にはいない───洗濯した包帯を取りに外出している少年の名を、そっと呟く。

 意識を取り戻してからというもの、考えるのは彼の事ばかりだ。

 最初は、太公望が自分をからかっているのだと思った。もっもと、すぐに違うと知ったが。

 次に考えたのは、所謂『他人の空似』というやつだ。だが呂望は、自分は元始天尊の

直弟子だと告げた。

 故あって崑崙山を辞して、人里近いこの空き道府でいまは修行を続けているのだと。

 いくら仙人界広しと云えども、元始天尊の直弟子で呂望という名の太公望そっくりな人物が

いるとは到底考えられない。とすると、やはり彼は『太公望』に違いない。

 あまり信じたくはなかったが、呂望から得た情報を総合すると、自分が今いる此処は過去の

時代という結論に自然となってしまう。

 「まいったよなぁ……………」

 昨日それとなく聞き出したところ、彼は十二の時に崑崙に上がって、かれこれ二十年ほどに

なると云った。

地上ほど時間の流れがはっきりしない為、おおよそしか判らないとも漏らしていたが…。

 太公望が三十歳前後ということは、ざっと試算して此処は約五十年前くらいという計算になる。

 「五十年前っつーたら、じーちゃんが十四、五歳ぐらいだよなぁ。」

 天化どころか、父の武成王すら生まれて無いような時代に紛れ込んでしまったというのか。

そう考えると、気分が重かった。

 しかし──なぜ、自分なのだろう。

原因があの宝貝の紫の光線だというのは判るが、あれを浴びたのは太公望のはずだ。

なのに何故、自分だけが過去に飛ばされるのか。それとも、太公望も一緒に飛ばされて来ているのだろうか。

 だが、呂望は倒れていたのは天化だけだと云う。

はっきりいって、八方塞がりの状態だった。

 たちの悪い冗談───夢だと一笑に付してしまえたら、どんなに良いだろう。

しかし悲しいかな、頬を抓ってみても鈍い痛みが生まれるだけで、いっこうに目が覚める気配はない。

 「も一回寝て目が覚めたら、城の俺っちの部屋で、スースと仲良く包帯付で寝台の上っつーのは

…やっぱり無理さ…」

 「なにぶつくさ云ってるんだ?」

 急に背後から声を掛けられ、天化は魂魄が飛び出しかける。

撥ね躍る心臓を抑えつつ振り返れば、呂望が薬と包帯を抱えて立っていた。

 何に不満があるのか知らないが、相変わらず不機嫌そうな顔付きだ。

 「薬を取ってきたから、脱げ。」

 短く云うと、彼は天化の質素な寝間着を剥がしにかかった。

(うわうわうわあぁぁぁ─────っ)

 怪我の手当だと判っていたが、これが好きな人のものだと思うと嬉しいやら気恥ずかしい

やらで、天化はつい抵抗してしまう。

 「も、もう治ったさ。」

 「…寝ぼけるな。あんな傷が、そんなに早く治るわけないだろう。」

 「ほ、ホントだってっ!疑うなら、その目で見てみるさっ!」

 云うがはやいか、天化は寝間着をばっと広げた。

 「ホラっ!」

 呂望の目がまんまるに見開かれる。

 「………うそ………………」

 天化の云うとおり、傷の大半は塞がって薄い痂が出来上がっていた。

折れた肋骨のほうも、その殆どはくっつきはじめている。

完治にはやや足りないが、日常生活にさほど支障がない程度には回復していた。

 人間の範囲を踏み外した異常な回復力に、呂望は声も出ないのか目を白黒させる。

 そのあまりの愛らしさに、天化は自分の置かれた状況も奇麗さっぱり忘れて、

でれでれと相好を崩した。

(かっ、かわいい…………… )

 過去の世界もいいかもしれない…そんなヨコシマな天化のドリーミーモードをぶち壊したのは

 「………あんた、バケモノか…………?」

 と云う、呂望の冷たい一言だった。

(……………かわいくねぇさ…)

 これ以上になく冷たい彼の言葉に、ずーんと音付で天化は落ち込む。

 それに追い打ちをかけるように、入り口の扉が耳障りな不快音を奏でた。

 「望ちゃん 」

 対照的に、高音の涼やかな美声が道府内に響く。

振り返れば、太公望と同年代くらいの外見をした少年(?)が扉の前に立っていた。

 「普賢………………」

 それまで不機嫌だった呂望の顔が、何処か戸惑いを含んだ様な曖昧なものへ変化する。

 普賢と呼ばれた少年は、軽い足取りで駆け寄ってくると竹駕籠一杯の桃を呂望へ差し出した。

 「はい、これ差し入れだよ。」

 柔らかく微笑んで、竹駕籠を呂望に渡す。中からは、ぷーんと桃のよく熟した芳香が広がった。

 「いつも済まない。」

 「そんな…。気にしなくていいんだよ、望ちゃん。」

  恐縮する呂望に、普賢はとろけるような微笑みで応える。

 その視線が、たった今気づいたように天化の前でピタリと止まった。

 「望ちゃん、この人、だれ?」

 「……居候。」

 簡潔に呂望は応える。

他に言いようはないのかと反論したかったが、事実にかわりないので、天化はとりあえず黙って頷いた。

 「はじめまして。僕は望ちゃんの幼なじみで、普賢といいます。」

 にこやかな挨拶と一緒に右手を差し出され、天化もつられるように愛想笑いを貼り付け、

握手をかわす。

 彼には面識はなかったが、『普賢』という名前には何故か聞き覚えがあった。

(普賢…?どっかで聞いた気が─────)

 まだ上手く機能していない思考回路で、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。

(…うーんと、確か……この前帰ったとき………)

 『天化、お前太公望にラブラブなんだって?』

半年前の里帰り早々、開口一番に道徳真君にそう云われ、天化は飲んでいたお茶を吹き出した。

 『うわっ!行儀が悪いぞ、天化。』

 『っ────、道兄っ、ひどいですぅ〜っ!』

 天化の吹き出した茶は道徳の顔を横切り、給仕をしていた弟弟子の顔に見事に直撃してしまう。

 『あ、悪りぃ……って、師父っ!なんでんなコト知ってるさっ』

詰め寄ると、道徳はニヤニヤ笑って天化の肩を叩く。

 『まあまあ、それき企業秘密ってことで。…それにしても、相手が太公望とはねぇ……』

 オレもあと三百歳若かったらお前のライバルに立候補するのにねぇ…と、道徳は

本気とも冗談ともつかない軽口を漏らす。

だが急に神妙な顔付きに豹変すると、天化の手をがしっと掴んだ。

 『けど天化、太公望にアタックするならくれぐれもストーカーには気をつけろよ。』

 『ストーカー?太乙真人サマのことさ?』

天化の問いに、道徳はちっちっちと指を振る。

 『ちっがぁう。あれはただの保護者(仮)。それに、アイツにはそんな甲斐性も根性も

ないから心配しなくていい。』

 同僚の崑崙一の科学者に対して、はなただ失礼な暴言をさらりと吐いて、師父はきっぱりと断言した。

 『一番ヤバいのは、白鶴洞の普賢真人だ。アイツは太公望の同期で、一緒に修行した仲なんだか…

とっにっかっくっ、最凶なんだ。太公望以外のその他にね。』

 『最凶って………』

 『いいか、何があってもアイツだけは怒らすなよ。お前が太公望に惚れた時点で敵に回ってるのは

確定だが、特に害がなきゃアイツも命までは取らない筈だ。』

 『そ、そんなにヤバイ人さ…?』

 『そう。特にアイツの毒電波なんぞくらった日には、もう────…い、いや、止めよう。

とにかくだな、この件に関しては庇ってやれないから、自分で対処するように。』

 『そ、そんな師父〜〜〜っ』

 『悪いな、天化。俺だって命は惜しいんだ。』

 そう云って苦笑していた道徳と『普賢真人』という単語が、天化の脳裏にまざまざと甦った。

 「…!ああっ、コーチの云ってた『毒電波』仙人サマかっ!」

びりっ!

 握り締めた手から、殺気に近い、電流のような痛みが彼の腕を駆け上がった。


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