呂望(太公望幼年期仕様)と共同生活を始めてから、かれこれ一カ月が経過していた。
傷の方は完全に癒え、何ら問題はない。
あるとすれば、『自分がいつ元の世界に戻れるか』の一点に尽きるだろう。
それ以外は、本当に順調だ。この山の暮らしにも慣れたし、呂望との生活も上手くいっている。
確かに呂望は無愛想だったが、無体なこと、道理に反することは決してしない。
ぶっきらぼうではあるが、ずっと天化の世話を嫌がらずしてくれる事といい、根は悪くない。
ただ、他人との接触が不得手なだけなのだ。判ってしまえば、ちっとも厄介な相手ではない。
むしろ可愛いくらいだ。
今日も、こうして天化を散歩に連れ出して気をまぎらわそうとしてくれている。
(本人は『釣りに行くだけだ』と云っていたが)
道府の真下にある川は浅く、流れも緩やかで水も清らかに澄みきっている。
こんな天気のよい日に訪れるには、絶好の場所だ。
こうして二人で川縁でのんびりしていると、これは夢じゃないのかとつい錯覚してしまう。
だがいくら抓っても、ほっぺたは痛いし、やっぱり目は覚めない。
(いつになったら、俺っち帰れるさ…)
不安が、天化の胸をちくりと刺激する。
部屋に籠もりがちだと気分が萎えるからと──訪ねてきた普賢が道府の掃除を
してくれている間を見計らって──散歩に出てきたのに、これでは駄目だ。
(考え込むのなんて、俺っちには向いてないさ)
不安を振り切るように首を振り、気持ちを奮い立たせる。駄目押しついでに、天化は
目の前の川に飛び込んだ。
ほどよく冷えた清水が、心地よく肌を濡らす。
頭まで水を被ると、蟠っていた胸のもやもやも解消された気がした。
「ひゃ〜、冷たくて気持ち良いさっ」
流れる水をすくい上げ、空に放り上げる。
陽光を弾いて、それは鮮やかに輝いた。
「呂望も入らないさ?」
天化の言葉に、閉じられていた呂望の瞼がふっと持ち上がる。
服のまま川に入った天化を呆れたように見つめ、
「……………………猿。」
一言だけそう云うと、また釣り糸を垂らして黙々と座った。そのすかした態度に、
天化の悪戯心がむくむくと刺激される。
「あっ、あそこっ!」
「えっ…………?」
つられて空を見上げた呂望の襟首を素早く掴み、力いっぱい引っ張る。
「うわっ…││っ!」
小さな体が弧を描いて川中へと滑り落ちた。
ばしゃんっと派手な音を立てて水飛沫が広がる。
天化の思惑どおり濡れ鼠になった呂望に、にぃっと人の悪い笑みを浮かべた。
「水も滴るいい男さぁねぇ〜」
「っ!きさまっ…………」
呂望の大きな瞳がすぅっと細められる。
次の瞬間、目にも留まらぬ足さばきが天化のふくらはぎを直撃した。
「うわっ………!」
フワリと天化の体が水上に浮き、派手な水しぶきと共に川底へと落下する。
目が合うと、呂望はフンと鼻でせせら笑った。
「天化の方が、ずっといい男だぞ」
「〜〜〜〜〜っ、このくそガキっ!」
ぷつんと、天化の理性が軽い音をたてて切れる。
それが水中追っ駆けっこの開始合図となった。
「こらっ、待つさっ!」
「待てと云われて待つ馬鹿がいるかっ!」
捕まえようと繰り出される天化の手を、呂望は持ち前の素早さでひょいょいと躱す。
最初のうちは、スピードと小回りのきく呂望のほうが圧倒的に優勢だった。だが、
時間の経過とともに、スタミナで勝る天化がじりじりと呂望を追い詰める。
勝負は、あっけなくついた。
「捕まえたさっ!」
逃げようとする細腕を引き寄せ、川縁の岩肌にその体を押し付ける。
もがく呂望の動きを封じる為に、天化は全身で覆いかぶさり、しっかりと岩場に縫いとめた。
「あっ………………」
揉み合っているうちに乱れたのか、呂望の胸元が開け、細い首筋が露になっていた。
じっとりと濡れた着衣が体に張り付き、薄い胸板から腰へと流れる緩やかなカーブを、
くっきりと映し出して…。
ドキリと、した。
「……………………悪ィ。」
慌てて、天化は掴んでいた手首を放す。
呂望も無言で起き上がり、着衣の乱れを直した。
なんとなく気まずい空気がそこはかとなく漂い、二人の間に微妙な溝を作る。
その溝を壊したのは、呂望の小さなクシャミだった。
「…っくしゅんっ!」
濡れたままで外気に当たった為か、呂望は何度かクシャミを連発する。
陽もやや西に傾き始めているし、むっとしていた熱気も今は少しひんやりとしたものに
変化している。そろそろ戻ったほうがよいのかもしれない。
「も、掃除も終わってる頃だから、そろそろ道府にもどるさっ!」
気まずさを隠すために殊更明るく振る舞って、呂望の手を取る。
呂望も、嫌がらずに受け入れた。
道府に戻った二人を迎えたのは、普賢の驚いた顔だった。
全身ずぶ濡れで帰ってくれば、それも道理だろう。
「二人とも、どうしたんだい?そんなにずぶ濡れになって………」
「いや…その、ちょっと水浴びしてたさ………」
「服を着たままで?」
冷ややかに突っ込まれると、天化としても答えようがない。それでなくとも、
さきほどから普賢発の毒電波が心臓のあたりをちりちりと責め立てているのだ。
これ以上なにか云ったら、本気でまずい。
「いくら日中は熱いって云っても、夕方は冷えるんだから、無茶はだめだよ。
それでなくても、望ちゃんは丈夫なほうじゃないんだからね。」
普賢に憂い顔でたしなめられ、呂望は所在なげに俯く。天化のほうも何度めかの
命の危険を感じ、すかさず平謝りした。
「悪かったさ。」
「………………すまない。」
それで気が済んだのか、普賢もそれ以上はなにも言わなかった。ちょっとだけ苦笑して、
二人に着替えと熱いお茶を用意してくれる。普賢の入れてくれたお茶はほのかに甘く、
冷えきった体を優しく暖めてくれた。
お茶の後、夕食の用意を始めた普賢と呂望をぼんやりと見つめつつ、天化は呂望の様子
を観察する。
普賢に手伝ってもらいながら野菜を切るその背中は、どこか緊張しているように見えた。
(やっぱり、態度がぎこちないさ…)
天化相手にはぽんぽんきつい物言いもする呂望だが、これが普賢相手となると、格段に
口数が激減する。
警戒してるわけではない。呂望は普賢の言い付けはどんな事でも聞くし、素直に従いもする。
天化などよりは、ずっと彼を信頼している。それは確かだ。
でも呂望の態度を見ていると、やはり一線を引いて居るような感は拭えない。遠慮とも違うようだが…。
この態度が元々なのか、それとも此の山に来てからなのか。
ここに来て日の浅い天化には判らない。が、俄然興味はあった。どちらかといえば淡泊な
性質故、他人の事情などあまり頓着しない彼だが、呂望──太公望の事となれば話は別だ。
(後で、すこし探ってみるか)
そう思うと、一人蚊帳の外に置かれている今の状況も我慢出来る…ような気がした。