ひとつ。また、一つ。
暗闇の海に、仄かな灯がともる。
かすかに瞬くそれは、山脈の麓に点在する人里の明かりだ。
その一つ一つはどれも小さく、夜空を覆う満天の星明かりと比べたら、貧弱な光でしかない。
だが呂望には、その光の方が空のどんな星よりも優しく暖かに感じられた。
あの一つ一つの灯の下で、生活の営みを終えた人々が束の間の安らぎに微睡む。
その様子をこの崖から見守るのが、此処で暮らし始めてからの呂望の日課だった。
はじめは、見るのが辛かった。
自分が亡くしてしまった幸せを突き付けられるようで、ひどく胸が痛んだ。
でも、毎日見つめているうちに、あの光が懐かしい記憶も甦らせてくれた。
皆にかこまれて、幸せだった日々。ずっとこの日々が続くのだと信じていた、幼い日。
彼の時の自分は、間違いなくあの幸せな灯の元にいたのだ。
そう考えると、すっと痛みが薄らいだ。
今でも、微かな痛みが胸を疼かせるけれども。
それでも、はじめよりはずっと穏やかな気持ちで見守ることができた。
ふと、気配を感じて後ろを見上げる。
「………天化。」
寝ているとばかり思っていた居候が立っていた。
どうしたのか尋ねると
「なんか…眠れなくてさ」
と苦笑いして、呂望の隣に座り込む。
ズボンのポケットから煙草を取り出し一服するその姿は、呂望の眼から見ても夜の闇に
よく似合っていた。
不思議な男だな、と思う。
十分青年の領域に達した、鍛えられた体。精悍な、凛々しい顔立ち。
時折子供っぽいところも見せるが、年相応の落ち着きもきちんと備えている。
外見と中身が噛み合わない類例ばかり見て来た呂望にとって、天化という存在は、
なかなか興味深かった。
人を惹きつけるタイプではない。だが、他人の警戒心を薄れさせるような不思議な魅力が
天化にはあった。
普賢は気に入らないようだが、呂望は口で言うほど彼を疎ましくは感じていなかった。
天化の大らかさは、普賢とはまた違う暖かさがあって、存外に居心地が良い。
入門したての頃良く相手をしてくれた道徳真君に、少し似ているからかもしれない。
「あのさ……前から聞きたい事があるんだけど…」
呂望の視線をうけて、彼は困ったように笑う。
その案外幼い仕草に、呂望の態度も常よりは幾分柔らかいものなる。
「僕が答えられるものならな。」
そう云うと、ややほっとした様に天化は口を開いた。
「…なんで、普賢サンと一緒に崑崙に戻ってやらないさ……」
痛い所を直球で攻められ、呂望は言葉を失う。
「あの、答えたくないなら────」
「いや、いい。」
呂望の表情の変化に、慌てて撤回しようとする彼を押し止める。
いずれ聞かれるだろうと覚悟していた事なのだから、いま喋ってしまったほうが後腐れがなくてよい。
それに、天化になら話してもよいような気がした。
「崑崙に戻らないのは、僕があそこに相応しくないと思うからだ。」
「………?」
理由が判らず、天化は首を傾げる。
「僕は──ある国に復讐する為に、仙人になりたかった。僕の一族を虐げ、虐殺したその国を
滅ぼすために。仙人界にいけば、そのための力が得られると考えたからだ。」
呂望の口調は、静かなものだった。目にも、特別な感情は見当たらない。
けれど天化は、そこにたしかな怒りを感じた。
「崑崙は、僕に沢山のものを与えてくれた。僕が望んだ知識も、力も…。それ以外のものも。」
「たとえば、普賢サンとか?」
すかさず、天化が口を挟む。少しだけ笑って、呂望は頷いた。
「だったら、なんで───」
「沢山の知識を与えられて、気づいたんだ。あの場所は、清浄な空気を好む聖人たちが
集う世界。僕の様な、昏い野望を持つ者が居てよい場所じゃない。僕は、場違いな存在なんだ。」
自分のような者がいれば、きっとあの調和を乱してしまう。
だから、離れた。別れが辛くないうちに。
「けっして、普賢や皆が嫌いなわけじゃないんだ。ただ──────。」
「ただ……………?」
そこで呂望は言い淀む。だが天化に促され、後を続けた。
「僕には、何も返せるものがない。」
「………」
「普賢は、本当に良くしてくれる。ううん、普賢だけじゃない。道徳真君さまや玉鼎真人さま、
太乙真人さま…みんな、優しい人ばかりだ。羌族の僕にも、分け隔てなく接してくれた。」
時の流れから隔絶された聖域。
穏やかで、雲のような仙人たち。
不要な欲を捨てた彼等は、己の求めるものには妥協しないが、それ以外のことに関しては
とても寛容だった。
競いはしても、諍いはしない。その精神を信条とする仙人たちは、部族の違いごときで
見下したりしはしなかった。
学ぶ意志と能力さえあれば、いくらでも教え導いてくれる。
常に殷に虐げられ、漂泊の民として生きてきた自分にとって、崑崙での日々はまさに夢の様だった。
全てを失い絶望に震えていた時、彼等のくれた優しさがどれほど呂望の救いになったことだろう。
仲の良い友人もできた。兄のように導いてくれる先輩もいる。
復讐の為に仙人になろうとしていた気持ちは、いつしか薄れ始めていた。
殺された一族の菩提を弔って、此処でひっそり生きてもいいのではないか…そんな気持ちさえ、
仄かに芽生えていた。
しかし────あの日。
自分は思い出してしまった。あの若者の言葉で。
『薄汚い羌族のくせにっ。家畜ごときがでかい顔するなっ!』
若者は殷族の出だった。呂望よりも若く、崑崙に上がって十年ほどしか経っていない為、人界の
感覚が捨てられないのだと周りにいた者が弁明したが、呂望にはそんなことはどうでも良かった。
どれほど時間が経とうが、羌族は殷に虐げられている。それは現在も過去もかわらない。
二十年前と、何も、何一つもかわっていなかったのだ。自分が一族を亡くした頃から、なに一つも。
なにより羌を家畜と罵る殷族の若者の言葉が、それを如実に物語っている。
その事実が、彼を深く打ちのめした。
やはり、自分はあの光景を忘れることは出来ない。一族の無念に眼を瞑ることは出来ない。
今も地上で虐げられている羌族を、見捨てることは出来ない。
そう感じた時、崑崙を出ようと決めた。ここにいれば、いつか自分は皆に迷惑をかける事になるだろう。
それに───彼等の優しさが、怖くもあった。
復讐に燃えていた幼い呂望を癒してくれた、優しい人々。その暖かさに溺れ、自分はつかの間、
殷への憎しみを忘れてしまった。
このまま流れに身を任せ、彼等のようになっても…変わってもいいとさえ、思った。
このまま彼等の側にいたら、またそれを繰り返さないとも限らない。
自分はもう、忘れてはいけないのだ。
「…僕は、変わってはいけないんだ。」
絞り出すように、呂望は呟いた。
重い沈黙が、二人の間に流れる。
それを破ったのは、天化の一言だった。
「それって、返さなきゃいけないもんさ…?」
「えっ………?」
思ってもみなかったことを問われ、呂望は首を傾げる。
天化は、何が云いたいのだろう。
「普賢サンも他のみんなもさ、別に呂望にお返しをして欲しくて優しくしてるわけじゃないさ。
…自分がしたいから、やってるだけじゃないかな。」
「………………」
「それに、皆に感化されることを呂望は『変わる』って云ってたけどさ…それは『変わる』
んじゃなくて、『気づく』ってことにはならないさ?」
「………『気づく』?」
「そう。復讐の事ばかり考えてた頃より、他のものに眼を向けるだけの余裕が出来たってコト。
それって『気づいた』ってコトにならない?」
彼の言葉に、呂望は押し黙る。
天化の言葉は種となり、呂望の胸に深く根を下ろた。
いままで、一度だってそんな風に考えたことはなかった。ただ、変わってしまうのが厭で、それで──。
もしかして、自分は逃げ出していたのだろうか。
迷惑をかけるのが厭だと云いながら、本当の自分を見せて嫌われることに。
嫌われるくらいなら、別れてしまう事のほうが耐えられる、と。
「俺っちの云ってること、間違ってるさ?」
再度問われ、呂望の視線が闇をさ迷う。
何がよくて、何が間違ってるのか。まだ呂望には答えが出せない。それでも………
「やっぱり、一度崑崙に戻ったほうがいいさ。んで、もう一回はじめから考えてみたらどうかな。」
考え込む呂望に、天化はそう提案する。
こうやって思い直してみると、確かにそのほうがいいのかもしれない。迷うという事は、自分の
行動が信じられないという証しなのだから。
「…そうだな。」
素直に頷くと、天化は嬉しそうに笑った。
どきんっ………。
太陽にも似たそれに、何故か呂望は胸が騒いだ。
「あともう一個聞きたいんだけどさ、呂望って人に何かされるの嫌さ?」
「………はっ?」
思いがけない言葉に、呂望の目が点になる。
「だってさ〜、普賢サンが何かするときって何時も緊張してるみたいじゃん。俺っち、てっきり
他人の手が嫌いなのかと思って…」
「べつに、そういうつもりは…」
ない、と思う。自分ではそう思うが、他の者から見れば嫌がっているように見えたのだろうか。
「じゃあ、何かして貰うのは嫌いじゃないさね?」
「それは、もちろん。」
「優しくされて『嬉しい』って思うさね?」
やや考えて、首を縦に振る。
少なくとも、普賢の気遣いは嬉しいと思った。
「だったら、『ありがとう』って云えばいいさ。」
「…『ありがとう』…?」
「そうさ。…呂望はいつも『すまない』ってばかり云ってるさ。」
びしっと指付で、天化が指摘する。
あまりにも自信たっぷりに云われ、呂望は自分の言動を反芻してみる。
…たしかに、それしか云ってないような気もする。
「…そう………か?」
「うん。『すまない』より『ありがとう』のほうが、絶対いいって。呂望が嬉しいって気持ちが良く判るからさ。」
そっちのほうが、相手も絶対嬉しい。握りこぶしを奮って、彼は力説する。
「………そうかな」
「きっとそうさ。」
満面に笑みを浮かべ、天化は断言した。そこまで強く云われると、呂望もそんな気がしてくる。
「………考慮してみる。」
「そうこなくっちゃ。でも、俺っちに一番最初に云ってくれたら嬉しいさっ 」
にやにやと品の悪い笑みを浮かべ抱き着こうとする天化を、さらりと躱す。
かえす左手で、その頭を思いっきりぶん殴った。
「って〜、殴らなくてもいいさっ」
「調子に乗るな、馬鹿者。」
嘘泣きの涙目で抗議する天化を、いつもの冷ややかな反応であしらう。口調は冷たかったが、
呂望の瞳には紛れも無く仄かな優しさが滲んでいた。
殴られた所は痛かったが、天化はそれほど悪い気もしなかった。