次の日も、晴れ晴れとした良い天気だった。

 日課の水汲みの為に、天化はまだ朝もやの残る外へ出掛けた。

 道府を出て崖を下ろうとしたまさにその時。

はるか頭上から凄まじい轟音が轟いた。

 「なっ、何さっ!」

 驚いて見上げた視界いっぱいに、『太乙』の文字が書かれた黄巾力士が、矢のような

スピードで地上に落ちて来た。

(これは、やっぱりあの人だよな……)

 呆然とする天化の耳に、銀笛の音のような素晴らしい美声が届いた。

 「やあ、キミ。すまないが、呂望って名の道士が何処にいるか知らないかい?」

(たっ、太乙真人サマ──っ!)

やはり降りてきたのは、色物仙人トリオの一人──『狂科学者』太乙真人だった。

 怪しげな不透明ゴーグルをかけ、両手に一杯の荷物を抱えて、よたよたと天化の方へ

近寄ってくる。

(この人、五十年前もこんな格好してんのか)

 さすが、師父と同類項。…などと、天化は挨拶も忘れて妙なところに納得してしまった。

 「あー、すまないけど、此処に………」

 「呂望ならそこの道府にいるさ。」

 あまりお近づきになりたくないので、わざとそっけなく応える。

 ぶっきらぼうな天化の態度に、特に気にした風もなく太乙はにこやかに礼を述べた。

 「あ、そ。ありがとう…………んっ?」

 「…………?」

 「ん〜……んぅ───…むぅぅんむ………?」

  なにか品定めでもするように、あちこち視線を走らせながら太乙は天化を観察する。

 どこに視線がいっているのか解らない分、はっきり云って不気味だ。

 「あの〜、俺っち…………」

 「キミ………ひょっとして───」

太乙がなにか云いかけた時だった。

 「天化っ!いつまで水汲みに…───っ!」

 乱暴に道府の扉が開き、ご機嫌ななめな呂望が天化を怒鳴りつけようと現れる。

しかし、天化の隣にいる人物に気づくと、うろたえた表情に変わった。

 「た…太乙さま。」

 「呂望っ 」                  

 呂望の姿を見つけた途端、太乙は素早くゴーグルを取り払う。

現れた瞳は、既に『恋する乙女』モードに切り替わり、語尾にはハートマーク仕様という

念の入り用は、流石に十二仙。

 変わり身の早さといい、無駄に長生きはしていないようだ。

 「どうして此処に……」

 「キミが地上で謹慎中だって聞いたから、心配で様子を身に来たんだ 」

 なんたって、キミは私の可愛い弟弟子だもの。

口説き文句も堂に入ったもので、呂望が困惑しているのにも構わず、次々と歯茎が

痒くなるような台詞をつらつらと紡ぐ。

 どうやら既に天化のことなど眼中に無いらしい。

値踏みモードから解放されてほっとしたものの、

(それはそれで、むかつくさ…)

自分の存在をまるっきり無視した態度に、半端でない反感を覚えた。

 普賢真人(予定)といい、この人といい、どうして皆して呂望にべたべたしたがるのだろう。

(そりゃ…スースはいつももててたけどさ…)

 せっかく害虫がいない(とゆーか、ほとんど発生していない)時代に来てるっていうのに、

天化の心はちっとも休まる隙がない。

 いや、害虫同士の牽制や駆け引きが無い分、呂望に対するアプローチが直接的すぎて、天化の

繊細な神経(?)は寧ろ擦り減って消耗していた。

 自分を無視してまたもや繰り広げられる二人の世界に、天化の入る隙間は皆無だ。

 ただ、いつもなら終始受け手に回っているはずの呂望の様子が、今日は何処かおかしい。

落ち着かなげに、そわそわと身じろいでいる。

 太乙もそれに気づいたのか、訝しげに首を傾げた。

 「呂望、どうしたの?」

 「あの…………その……………………」

 胸の前で両手を組み、呂望は躊躇うように何度も唇を舌先で濡らす。

それでも意を決したのか、太乙の顔を見上げて小さく呟いた。

 「…あの……あ……ありがとうございます……」

 「……………え?」

 玻璃色の切れ長の瞳が、驚きに見開く。

側で聞いていた天化も、仰天した。

 あの呂望が『ありがとう』と云ったのだ。

天化の記憶が確かならば、初めて耳にする単語だ。

 太乙にとっても初耳なのか、秀麗な顔が変形するくらい動揺していた。

 「あの…僕、おかしなこと云いましたか?」

 凍りついた雰囲気を感じて、呂望が遠慮がちに太乙に問う。

素早く我に返った太乙は、ブンブンと大袈裟なほど首を振った。

 「ううんっ、そんなことないよっ!呂望が喜んでくれるのが、私の幸せなんだからっっ!」

 がっしりと呂望の肩を掴み、太乙は力いっぱい力説する。そのラフラブっぷりに、

天化は邪魔する気も失せて嘆息した。

(ほんと、スースってば昔から年上キラーさ……)

 意識してか無意識かは置いといて、他人を良いように利用する特技はこの頃から既に

培われたものだったのか、と天化はこっそり実感する。

 一方太乙の方は、完全に舞い上がっていた。

なにかと理由をつけて居座る魂胆だったが、呂望に『ありがとう』と云われたのが嬉しくて、

そんな考えは奇麗さっぱり吹き飛んでしまった。

 それよりも、此のことを今すぐ他の連中に自慢したくて、いそいそと帰り支度を始める。

 見送るという呂望の申し入れを

 「あ、見送りはいいよ。彼に送ってもらうから。」

と、彼はあっさりと断る。驚いたのは天化の方だ。

 「………………………はぁっ?」

 いきなりご指名を受けてしまい、天化は面食らう。

彼の返答も聞かずに、有無を云わせず太乙は天化を引っ張って道府の外へと移動した。

 「あ───…さて、ここいらでいいいかな。」

 きょろきょろと後ろを振り返り、呂望がついて来ていないことを確認すると、くるりと天化に

向き直った。

 「ずばり聞くけど、キミは何者だい?」

前章に戻る

次章に進む

 

書庫に戻る