「師叔っvv」

 「げっ──っ」

 現れたのはハイエナの一人、楊ゼンだ。

その瞳は、好物を見つけた獣のように怪しい光で煌めいている。(当然ながら、天化は

眼中外だ。)

 「こんな所にいらしたんですねっ!」

 「こんな所って…わしは仕事中なんじゃが……」

 不気味な笑顔で近付いてくる天才道士に身の危険を感じ、太公望は椅子から腰を浮き

上がらせる。

 その華奢な肩をがっしり掴んで、楊ゼンはずずいっと壁に縫い付けた。

 「こっ、こらっ、なんじゃこの手はっ!」

 身動きが出来ぬよう四肢を封じられ、慌てて太公望は身を捩る。

 それをなんなく押し止どめ、楊ゼンは太公望の耳元で熱っぽく囁いた。

 「師叔、今日こそは僕の想いに応えて下さいますよねっ!本当ですねっ!」

 「わしは何もいっとらんっ!」

 一方的に事を進めようとする楊ゼンに、太公望が必死で抵抗する。

彼の切羽詰まった悲鳴に、目前の強引な展開について行けてなかった天化の思考も、

漸く正常に動き出した。

 「楊ゼンさんっ、スースを離すさっ!」

 楊ゼンに飛びつき、天化は太公望を助けようと懸命に拳を叩きつける。

だが楊ゼンの脚はそんな天化の体を、ぽんっとボールのように蹴っ飛ばした。

 「うわぁっっ!」

 「楊ゼンっ!」

 きつい眼差しで非難する太公望に、しかし楊ゼンは平然と答えた。

 「あのくらいじゃ怪我もしませんよ。…それに、自分から逃げ出した卑怯者には、あれ

ぐらいの扱いで十分ですよ。」

 「?」

 「───っ!」

 楊ゼンの鋭い言葉の刃が、天化の無意識下の罪悪感を逆なでする。

 本人も気づいていなかった心の奥底の図星を突かれ、天化はついに激高した。

 「っこのっ、いい加減にするさっ!」

 腰の莫邪宝剣に手をかけ、楊ゼンに果敢に飛びかかる。しかし────

 柄の先に現れたのは、刃の形にすらなってない、丸っこい電球のような光だった。

 「なっ───っ!」

 三人の目が、同時に点になる。

 「っ、このこのっ──!」

 柄を握り締め、天化は我武者羅に気を込める。

何度かそれを繰り返して漸く発現した刃は、どう見ても小刀くらいの大きさしかなかった。

 「ぷっ、あはははははははっっ!」

 天化の無駄な奮闘についに耐え切れなくなったのか、楊ゼンは高らかに笑い転げる。

 嘲笑に、天化は真っ赤になって怒鳴りつけた。

 「笑うなっ!」

 殺意のこもった天化の怒号にも、楊ゼンは些かも怯みはしない。

ひとしきり大笑いすると、秀麗な顔に今度は蔑みもあらわな冷笑を浮かべた。

 「臆病者の君には、それくらいがお似合いだよ。」

 「っ、ざっけんなっ!」

 きりきりと眦を吊り上げ、天化は手にしていた宝剣を楊ゼンの顔めがけて投げ付ける。

しかし楊ゼンはその一投を片手で軽く跳ね返し、お返しとばかりに袖から哮天犬を放った。

 「いけっ哮天犬っ!」

 「ばうっ」

 「うわぁっ!」

 飛び出した哮天犬の口が、天化の襟首にぱくっと食らいつく。

 そのまましっかり咥えると、暴れる天化を尻目に目にも止まらぬ速さで屋外へと飛び

立った。

 「哮天犬っ、そのまま遠くの森に捨ててくるんだ。」

 主の言葉に『がってん承知っ!』とでも云うように尾っぽを振って、哮天犬は風よりも速く

駆け抜けて消えた。

 「天化っっ」

 追いすがる太公望を腕の中に閉じ込め、楊ゼンは再び太公望を調理にかかる。

 「さぁっ、師叔っ!邪魔者もすっかりいなくなったことですし、僕とめくるめく愛と官能の

世界へ旅立ちましょうっ!」

 「って、出来るかボケッ───ッ!」

 こんな奴に美味しくいただかれてたまるかと、太公望は死に物狂いできつい拘束に

憤然と抵抗する。

 その甲斐あってか、僅かに腕が緩んだ隙をついて素早く打神鞭を取り出すと、渾身の

力を込めて一気に振るった。

 「疾っ─────────────!!」

 「ギャ───ッ!」

 キラーン。

情けない悲鳴をあげ、マッハ8のスピードで楊ゼンが空の彼方へ消える。

 丁度そこへ、タイミングよく哮天犬が戻って来た。

 「ばうっ??」

 お星さまになって彼方へ消えた主人に、哮天犬はおろおろと狼狽する。

追いかけようとする彼(?)の前に、ユラリと不気味な影が立ち塞がった。

 「待ていっ」

 「ばうっ!」

 暗雲を背景色に、いつになく据わった目付きの主人の上司が、がしっと首輪を掴んで

哮天犬に詰め寄った。

 「天化を捨てて来た所に、わしを案内せいっ!」

 「ばうっばうっばううっ!」

『そんなこと出来ませんっ!』と哮天犬はぶんぶんと首を振る。

 その態度に太公望の柳眉がピクリと震え、つぶらな瞳がすうっと細められた。

 「ほーう、そうか。ならばここで素直にわしに従うのと、そのふさふさの毛皮を羊のように

剥かれるのと、どっちを選ぶ?」

 云っとくが、わしは皮剥きは下手くそじゃぞ。

言外に恐ろしい脅迫をまぶして、大きな瞳が底冷えのする冷たい光を放つ。某毒電波

仙人もかくやという威圧感に、哮天犬の動物本能が恐怖で縮み上がった。

 「ば、ばうぅぅぅ〜っ 」

 ご主人様の命令と獣の本能が、哮天犬の中で激しく対立し────。

 当然、勝ったのは本能の方だった。

 

 

 

 

 その五分前。

生物宝貝(犬型)から放り投げられた小さな物体が、西岐東の森に急降下した。

 「ひぇええっ─────────っ!」

 幼い肉体が、放物線を描いて木々の隙間を滑り落ちていく。

放り出された場所がちょうど枯れ葉の山の上だった為、落下の衝撃の大半は葉っぱが

吸収してくれた。

 だが勢いは止められず、そのままころころと下まで転がり落ちた。

 ばふんっ。

情けない音を立て、天化は枯れ葉の海に顔を突っ込む

 「〜〜〜〜〜〜〜っ」

 ぶんぶんと頭を振って枯れ葉を払うと、キッと──自分を投げ捨てた哮天犬に──空を

睨みつけた。

 「っこのっ、腐れ外道のエロ道士ぃっ!」

 思いつく限りの罵声を、放送禁止用語も交えて犬の飼い主に連発する。

 「女装マニアっ!助平じじいっ!変態っっ!」

 とにかくありとあらゆる暴言をまくし立てるが、当の本人に聞こえてるわけもなく…。

 「…む、むなしい………」

 とうとう叫び疲れて、天化はその場にぺたりと座り込んだ。

 冷たい風が、落ち着きを取り戻したその頬をそよとひと撫でする。

 暗い森の中は水を打ったように静まりかえって、鬱蒼と茂る木々が、真昼の日差しを

拒むかのように空を覆い隠していた。

 「……………」

 耳が痛くなるほどの静寂が、天化の心に不安という影を落とす。急に、ぶるんと背筋に

悪寒が走った。

 (なにさ………?)

肌を突き刺すような不気味な気配が、皮膚の上を頭に向かってじわじわと前進する。

 窺うように視線を走らせる天化の瞳が、ある茂みの一点で止まった。

紅い虹彩の大群が、こちらを凝視している。

 血色に染まるその瞳の主は───

 「っ!狼………」

 天化の顔から、さっと血の気が引いた。

低いうなり声を鳴らして現れた獣の群れは、狼──それも腹を空かせた獰猛で危険な

状態だと一目で判る。

 天化の額を、冷や汗が一滴流れ落ちる。

一応得物になる武器は持っているが、頼みの莫邪の宝剣は、先程の楊 との一件で

判ったように小刀サイズ程度しかなく、接近戦でなければ使い物にならない。

 そして今の天化には、それは確実に『死』を意味していた。

 「………」

震える足で、そっと立ち上がる。

 とにかく、逃げなければ。

子供となったこの身でどこまで出来るか判らないが、このままでは食い殺されてしまう。

 じり、と後ずさると天化は脱兎のごとく駆け出した。

 「っ!」

 獲物の逃亡に狼達も一斉に走りだす。

 (怖いっ…………)

久しく忘れていた恐怖が、逃げ惑う天化の心にまざまざと甦る。

 狼達の追ってくる気配はひしひしと感じたが、今はただひたすら走り続けるしかなかった。

 「はぁっ…はぁっ………!」

 どのぐらい走ったのか。

限界は、まず足にきた。

 「あっ───っ!」

 なにかを踏み付けたと感じた途端、天化の体は草の上に倒れ込んでいた。

 慌てて起き上がろうとするが、何かが足を掴んで立ち上がれない。

 「あっ…」

 足元に眼をやれば、水気を吸ったつる草が蛇のようにきつく絡みついている。

 懸命に外そうと試みるが、枯れ草と違うそれは意外に丈夫で柔らかく、子供の手では

解くことすらままならない。

 そのうち、追いついた狼の一匹がもがく天化に飛びかかった。

 「あっ──っ」

 視界を覆う影に、天化はぎゅっと眼を閉じる。

 (スースっ……!)

 狼の異臭を放つ唾液に濡れた牙が、天化の小さな二の腕に食い込もうとした、まさに

その瞬間。

 「キャゥウウンッ!」

 音速の風刃が、天化に襲いかかろうとしていた獣の身体を、真っ二つに切り裂いた。

 (これは………!)

 裂けた狼の腸から迸る血潮を頬に浴び、天化は呆然と振り返る。

 そこには

 「天化っ!」

 凛とした声を響かせ、太公望が立っていた。

 「スース…っ」

 「そこを動くでないぞっ」

 一言云い置いて、太公望がすらりと打神鞭を手に狼達の前に躍り出る。

突然の闖入者に、更に殺気立つ野獣たちの攻撃を次々と躱し、神楽の踊り手さながらの

無駄のない動きで打神鞭を振るった。

 「疾っ疾っ──っ!」

 「キャウン──ッ!」

 間断なく繰り出される風刃が、狼の急所に寸分の狂いもなく打ち込まれる。

 一匹、また一匹とその数は確実に減ってゆき、気が付けば片手で足りるほどの頭数まで

少なくなった。

 「…………」

 太公望の強さに獣の本能が恐れをなしたのか──或いはこの狩りは割に合わないと

感じ取ったのか。

 狼達は仲間の死骸を残して、瞬く間に消えた。

 「天化っ、無事かっ!」

 降りかかった…というか、自分から飛び込んだのが正解だが──火の粉を払い終え、

太公望が天化に駆け寄る。

 目立った外傷がないのを確認すると、太公望はほっと息をついて幼い体を抱き締めた。

 「無事でよかった…」

 「スースぅ………」

 すこし息苦しいほど強い抱擁に、死の恐怖という塊がじわじわと溶けて消えていく。

 泣きたいぐらいの安堵感に、天化は視界が霞むような目眩を覚えた。

 「………天化?」

 心なしか、太公望の声が遠くに聞こえる。

求めてやまない優しい腕に抱き締められ、緊張の糸が解けたのか。

 天化の意識が、ゆっくりと途切れた。

 

 


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