ふわり…ふわり……
ふよふよと小さな身体が風に揺れる。 規則的に伝わる振動に天化は目を覚ました。 「起きたのか?」 聞き慣れた声に、視線をさ迷わせる。 ふっと見上げれば、太公望の顔が目に入った。 「スース………?」 状況が掴めず、更に視線を張り巡らす。 見覚えのあるこの感じは────どうやら太公望の部屋のようだ。明けっ放しの窓から、淡い月の 光が降り注いでいるのが見える。 「いま……なんじ………?…」 「…もう子の刻だ。」 お主、八時間も眠りこけておったのだぞ。 苦笑して答える彼の言葉に、天化の中に漸く気を失う前の事が甦ってきた。 「楊ゼンサンは……?」 「心配せんでも大丈夫じゃ。あやつにはきついお灸を据えておいたからのう。」 「………そう。」 ウインクつきで明るく返答され、ホっと胸を撫で下ろす。 寝台に降ろされ、天化は漸く自分が寝間着に着替えさせられていることに気づいた。 それに、あれだけ走り回って汗をかいたというのに、妙にさっぱりした感じがする。 わずかに湿っている髪といい、仄かに薫る石鹸と水の匂いといい、どうやら気を失っている間に 風呂に入れられたようだ。 「さ、傷の手当をするから腕を出すのじゃ。」 そう云って、太公望は天化の小さな両腕を袖から引っ張り出す。 自身は気づいていなかったが、その腕には浅い擦傷がいくつか刻まれていた。 狼に追われた時に森でこさえてしまったのたせろう。 ごく浅いものであるから、痛みはあまり感じない。 しかし消毒ぐらいはしておかないと、あとでどんな不都合がおきるかも判らない。こんな小さな 傷からでも、病原菌は簡単に入り込むのだから。 「少し染みるが我慢するのじゃぞ」 短くことわって、太公望は消毒液を染み込ませた布で天化の腕を丁寧に拭く。 とたん、幼い顔に苦痛の色が走った。 「っ………」 ぴりぴりと痺れるような痛みが、傷口から緩慢に神経系統へ広がる。 「痛いか?」 すまなそうに尋ねる太公望に、頷きそうになるのをぐっと堪えて天化は首を振った。 「平気さ……」 このくらい、どうってことはない。 自分が太公望にかけた迷惑に比べたら……… 上がりそうになる悲鳴を懸命にかみ殺し、天化は傷の手当が終わるのをじっと待った。 「よし、これでよいぞ」 太公望の手が最後の一巻を巻終え、包帯の端を蝶々結びに結い上げる。 薬箱を手早く片付け、彼はにっこりと微笑んだ。 「よう我慢したな」 包み込むような柔らかい笑顔が、惜し気もなく天化に向けられる。 応えるように、自分も笑おうとして──だが、天化には出来なかった。 かわりに、ぽつり…と熱い滴が一つ、ぷくんと膨らんだ頬を音もなくつたった。 「っ、天化………?」 「ごっ……めん……さ…………」 流れ落ちた一粒は一人で寂しいのか、次々と仲間を呼び寄せる。 一度溢れ出してしまうと歯止めがきかず、天化の両目からは大粒の涙が後から後から溢れ 出した。 「スースっ…ホントに…ごめっ……………」 一所懸命謝ろうとするが、上手く言葉を紡げない。 それが余計に天化を苛立たせ、また惨めな気持ちにさせた。 悔しかった。腹立たしかった。 楊ゼンの言葉に反論できなかったことも。野の獣ごときに恐れを感じ、逃げ惑うことしか出来な かったことも。 そのあげくに太公望に助けられてしまった事も、何もかもが腹立たしかった。 悔しくて、情けなくて──そして、哀しかった。 しゃっくりをあげ嗚咽を漏らす彼を、太公望は困ったよう見下ろす。 何か云おうと唇が震え、しかし言葉をかけるよりも先に、その小さな身体を太公望は黙って抱き 寄せた。 一瞬、びくりと天化の体が強ばる。 けれどそのまま、太公望の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。 「のう、天化………」 くせのない黒髪を優しく梳きながら、太公望は静かに語りかける。 「おぬしが何を思い悩んでおったのか…正直なところ、わしにはよく判らぬ」 「…………………」 「でもそれは、おぬしにとっては大事な事だったのだろうな。…いかに太乙の薬の作用とはいえ、 そのせいで子供になってしまうほどに。」 …………違う。本当は── だがその先を、天化はまだ口に出来ない。 「確かに、おぬしの悩みはおぬしだけのものじゃ。他の者に肩代わりすることは出来ぬし、その 答えはおぬしにしか解けぬ。だがのう、他人のわしでも、おぬしの出す『答え』までの『 道程』なら一緒に考えることは出来るのだ」 ぴくり。 思いがけない言葉に、くるまれている体が僅かに身じろぐ。 大きな瞳が、不安そうに太公望を見上げる。 「わしも、一緒に考える。じゃから………」 それに応えるように、太公望の瑠璃色の瞳が天化をしっかり見据えて煌めいた。 「一人で、思い悩むでない。」 お世辞にも大きいとはいえない彼の手が、天化の頬をそっと包む。 触れ合った肌から伝わるしっとりとした温もりが、ささくれだった天化の心を緩やかに潤した。 「…ふっ…………」 涙の跡の残る頬を、また新たな滴が濡らす。 けれど、それは先程のような悔し涙ではなかった。 それは、やっと見つけだした『答え』。 天化は、ようやく理解した。何故、自分が子供になってしまったのか。 天化は、太公望の『一番』になりたかったのだ。 『一番』近くにいる者に。 『一番』可愛がられている者に。 『一番』愛されている者に。 天化にとって、その地位にもっとも近く見えたのは天祥だった。だから、弟よりも幼い子供に なってしまったのだ。 よりいっそう、彼に愛されるように。 でも、実際その立場になって初めて気づいた。 その愛情が、子を慈しむ親の情でしかないことに。 自分が欲しいものとは『違う』ことに。 欲しかったのは、『天化』への『想い』。 そして、誰よりも深く強い『信頼』の絆。 自分を他の誰よりも信じてほしかった。頼ってほしかった。本当は、ただそれだけだったのだ。 それを理解するために、自分はなんと長い遠回りをしたのだろう。 己の馬鹿さ加減に、天化が深いため息をついた瞬間。ぽわっ、と小さな体に光がともる。 「………?」 最初は一点でしかなかったそれは、あれよと瞬く間に増え、胸の辺りに渦を作った。 「なんじゃ、これは……」 太公望の疑問に反応するように。 天化を包む光の渦が、一際大きく輝いた。 「うわっ…!」 目を刺すような輝きに、天化も太公望もおもわず瞼をつむる。 暫しの沈黙のあと、急に重くなった膝の上に訝しんだ太公望の見たものは、精悍な顔つきの 青年だった。 「天化っ、おぬし──っ」 「えっ…あっ、戻ってるっ!」 懐かしい元のサイズを確認し、信じられない面持ちであちこちを調べる。 どこも異常ないことをチェックすると、嬉しさのあまり、天化は力いっぱい太公望に抱き着いた。 「やったさ、スースっ!」 「うわっ…!」 急に抱き締められ、太公望は勢い余って布団の上に倒れる。 ちょうど押し倒されるような格好に、彼は真っ赤になって天化の顎を殴り飛ばした。 「離れんかっ馬鹿者っ」 「痛っ!ご、ごめんさ〜〜っ」 したたかに殴られて、天化は慌てて退く。 こころなしか赤い顔して起き上がると、ぷうっと頬を膨らませ、太公望はぶつぶつと文句を垂れた。 「まったく、太乙はろくなことせぬな…」 その案外子供っぽい仕草に苦笑して、でも、と天化は思う。 確かに散々だったけど、太乙の飴は大事なことを教えてくれた。 待っていても、何もかわらない。 本当に欲しいと願うのなら、自ら動き出さなければ駄目なのだと。 だから。 今なら、きっと言える。 言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。 怒るかな。それとも困惑するかな。 もしかしたら、嫌そうな顔をするかもしれない。 彼にそんな顔されたら、すごく悲しいけど…ちょっとどころでなく、傷つくだろうけど。 でも、言わなければ。自分で、そう答えを出したのだから。 「あのさ、…俺っち、スースに云いたいことがあるんだ。」 覚悟を決め、いままでずっと云えずにいた言葉を天化は呟いた。 「俺っちさ……スースのことが…好きなんだ……」 見開かれた太公望の瞳に、どんな色が浮かんだのか。それは、天化しか知らない。 |