宮沢賢治略年譜


学生時代
(〜24歳)

明治29(1896)8月27日現花巻市に生れる
  36      小学校入学
  42      盛岡中学校入学
大正 3(1914)中学校卒業 入院 家業手伝い
   4      盛岡高等農林学校入学
   5      校友会会報に短歌発表
   6      同人誌
アザリア創刊 最初の種山ケ原調査行
   7      高等農林卒業 同校研究生 童話執筆 妹トシさん看病のため上京
   8      帰郷 家業手伝い
   9      高等農林研究生修了
  10      上京 童話多数 帰郷 稗貫農学校
改称花巻農学校教諭 雑誌に「雪渡り発表
教諭時代前半(25歳〜)
「春と修羅」時代
  11      詩作 妹トシさん死亡
  12      諸紙誌に詩
童話を発表昭和8まで 樺太旅行
教諭時代後半(〜29歳)
「春と修羅2」時代
  13      「風野又三郎」完成 詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」出版
  14
羅須地人協会時代
(29〜31歳)
「春と修羅3」時代
  15      農学校退職 羅須地人協会設立 上京 チェロ教習など
昭和 2(1927)
   3      上京 大島旅行 病臥


晩年・病床
(32歳〜)

   4
   5      小康
   6      
創作メモ 東北砕石工場技師 仙人峠取材 上京 発病 帰郷 病臥
   7     
「風の又三郎」発表予定
   8      文語詩稿完成 9月21日死亡

 

作品のり立ち

 「風の又三郎」はどのようにして出来上がった作品なのでしょうか。
 実は「風の又三郎」は作者がこのタイトルで素直に書き下ろした一編というわけではなく、さまざまな別の先駆作品がない交ぜになって成立したものがたりなのです。
 「風の又三郎」はおそらく昭和6年の早い時期に文教書院刊 佐藤一英編 季刊「児童文学」第三号(昭和7年刊行予定)に発表する予定が立てられました。そしてそれは既に大正十年代に書かれていたいくつかの作品の再利用と、新たな取材による子供たちの様子などによって構成されることになったのです。

駆作品

 再利用されたもののうち、一番のおおもとになっているのが「風野又三郎」という紛らわしい名で知られている作品です。この作品は"風野又三郎"と名のる空飛ぶ風の精(子供たちは"風の又三郎"と言う。)が子供達に体験談を聞かせるという、面白い科学物語のような一面を持つ大正13年完成の気宇壮大なファンタジーです。趣きはずいぶん違いますが話の舞台や登場人物など、ものがたりの外枠はすでにこの作品で用意されていますので、この「風又三郎」は「風の又三郎」の初期形、先駆形であると言われています。私は姉妹篇であると同時に前身形であると言っても分かりいいと思います。(この作品については下記参考作品紹介「風野又三郎」を読むでごらん下さい。全文もごらんになれます。)
 作者は完成後もこの作品をさらに書き換えようとしていたふしが見られるのですが、ここに到って明確に新たな作品化を決断したものと思われます。
 内容的には「風の又三郎」の「枠」とも言える9月1日及び12日がこの「風又三郎」を土台として書き上げられ、さらに6日の重要部分がほぼそっくりこれからの引用で出来上がっています。
 作者がこの作品を新作「風の又三郎」へと変化させるに当たっての一番のポイントは、主人公をこんどは風の精ではなく普通の人間として転校させて来て、ものがたりをより現実に近づけることでした。ですから新たな主人公は直接不思議な振る舞いをしたり風の講義をしたりはしなくなります。しかしそれだけになおのこと主人公の一種の神秘さが引き立ってきています。※1
 (この両作品名を話し言葉で区別するときはアクセントを変えます。ドミミと発音すれば「風の」となり、ミドドとすれば「風野」という苗字になります。)

 次に、主人公がみんなと一緒にいろいろ行動する場面には"村童スケッチ"とか"種山もの"と言われるジャンルの、二、三の作品の一部またはほとんど全部が、もちろん修正された形で引用されました。
 ※ 村童スケッチとは・・・作者自身の分類名で、広義には「馬の頭巾」「さいかち淵」「十月の末」「谷」「種山ヶ原」「鳥をとるやなぎ」「ひかりの素足」「二人の役人」「祭の晩」「みじかい木ペン」などを指す。 種山ものとは・・・「さるのこしかけ」「種山ヶ原」「種山ヶ原の夜」など。

 まず9月2日はそのほとんどを新しい取材の成果で構成したようで先駆作品の取り入れの目立たない章なのですが、教室の場面は「みじかい木ペン」の一場面を彷彿とさせます。
 9月4日の原稿はほとんどそっくりそのまま「種山ヶ原」の原稿の借用で出来上がっています。ですからこの日の文章は振り仮名が目立ったり読点が多かったり、他の日とはやや異なる色合いを持っています。なお、肝心の嘉助の見る夢はもちろん元のものとは全く別内容です。
 9月7、8日でも「さいかち淵」の総ルビ付きの原稿を、文体を「た」から「ました」に変換して、ほとんどそのまま使っています(「風の又三郎」のテキストとしてはほとんどのルビは無いものと判断するのが自然です)。しかしここでも一番最後の部分では、「風の又三郎」独自の謎を残すよう巧みに書き換えてあります。なお、八日には二ヶ所にわたって「た」が「ました」へ変換されずに残っています。

 「風野又三郎」は作者の創造した風の精にまつわるファンタジーです。また「種山ヶ原」は作者の見聞と想像が生み出した一人の少年の心の中の世界です。そして「さいかち淵」は形式的には作者が一人称で語る私的な経験です。
 新作「風の又三郎」はそのいずれとも異なる――現実世界の、集団の少年たちの身の上に起こった、三人称で語られる――形式のものがたりとなりました。

 この他に「谷」、「鳥をとるやなぎ」の内容も取り入れる構想があったようですが、実現しませんでした。(下記創作メモ参照)
 なお、4日の舞台となった"上の野原"の馬の放牧などについては「種山ヶ原の夜」にも「風の又三郎」につながる記述があります。7日の"砥石"については「鳥をとるやなぎ」に、また8日の"毒もみ"については(「さいかち淵」では丹礬を使っていますが)、山椒を使う方法について「毒もみの好きな署長さん」に詳しい説明が見られます。
 もう一つ、7日の川を歩く鼻の尖った男については、作者の体験に基く「台川」「イギリス海岸」「楢の木大学士の野宿」などの作品によって示唆が得られるように思われます。


   「風の又三郎」の由来

   プロット  モチーフ 描写の断片              参考
1日 風野又三郎 風野又三郎    
2日   みじかい木ペン    
4日 種山ヶ原 種山ヶ原 風野又三郎 種山ヶ原の夜
6日   風野又三郎    
7日 さいかち淵 さいかち淵   鳥をとるやなぎ、台川、イギリス海岸、楢の木大学士の野宿
8日 さいかち淵 さいかち淵   毒もみの好きな署長さん
12日 風野又三郎 風野又三郎    


 ついでながら、これらの他に「マグノリアの木」の内容が「風の又三郎」の9月4日を強烈に思い起こさせますが、その彷徨のモチーフの起源は早期に書かれていた同作品の前身小品「峯や谷は」にあり、また彷徨の細部・昏倒のモチーフや霧の描写などは「種山ヶ原」由来と考えられます。また「谷」でも深くて恐ろしい谷のモチーフが「風の又三郎」を思い起こさせますが、それは直接には「種山ヶ原」から来ていると思われます。つまりこの二つの作品(「マグノリアの木」、「谷」)と「風の又三郎」との関係は「種山ヶ原」を親とした兄弟関係であると言うことができそうです。(「風の又三郎」は大変立派な弟ですけれどもずいぶん遅生まれの弟です。)(下記参考作品系譜参照)
 付言すれば、「さるのこしかけ」には「種山ヶ原」との共通性があります。
 「銀河鉄道の夜」には「川」を題材としていることによる若干の参考部分があります。

(以上、言及した作品は「峯や谷は」(大正7年)・「銀河鉄道の夜」(大正13年頃から昭和6年頃)以外は全て大正10〜13年頃の作。内容については下記参考作品紹介参照。)


材行

 昭和6年3月ごろから作者は東北砕石工場技師としての仕事を始めました。そして5月頃から、遠野の先にある上郷村の上郷小学校に勤めるかつての教え子沢里武治氏に対して、同村近辺の岩石調査の際に会いたいという手紙を何通か出しており、その後8月に次のような手紙を出しています。

 (略)一ぺん例の軽鉄A沿線の人造石原料の調査に出る訳ですがあなたはいまそちらにお出でですか。また細越近辺乃至沓掛あたりB半日ぐらゐご一緒できるでせうか。ご都合お知らせ下さらば幸甚です。
「童話
(ママ)文学」といふものへ毎月三十枚から六十枚書く約束しました。あなたの辺にも二三篇取材したいと思ひます。もしご都合よければ私の方は明日にも出掛けたいと思ひます。(略) (8月13日・校本全集書簡番号377)

  ※A 岩手軽便鉄道(現JR釜石線) 
  ※B 猿ケ石川上流の早瀬川流域。沓掛は源流の仙人峠※2付近。

 (略)仙人峠※2の方は今月末或は寧ろ学校が始まってからの方が好都合な点もあります。それはこの頃「童話(ママ)文学」といふクォータリー版の雑誌から再三寄稿を乞ふて来たので既に二回出してあり、次は「風野又三郎」といふある谷川の岸の小学校を題材とした百枚ぐらゐのものを書いてゐますのでちゃうど八月の末から九月上旬へかけての学校やこどもらの空気にもふれたいのです。(略) (8月18日・校本全集書簡番号379)

 6年7月、「児童文学」創刊号に「北守将軍と三人兄弟の医者」、7年3月、第二号に「グスコーブドリの伝記」を発表。

 また作者の遺した手帳の一つ「兄妹像手帳」には次のようなメモや詩があります。

 「Mental Sketch Modified 1931.9.6.――The Great Milky Way Rail Road――Kenjy Miyazawa」

 「丘々はいまし鋳型を出でしさまして いくむらの湯気ぞ漂ひ(略)」

 「盆地をめぐる山くらく わづかに削ぐ青ぞらや 稲は青穂をうちなめて つゆもおとさぬあしたかな」

 「topazのそらはうごかず(略)をちこちに稲はうち伏し その穂並あるひはしろき(略)はてにしてうちひらめける 温石の青き鋸 いと小き軽便の汽車 ほぐろなるけむりを ことこととはきて峡をのぼれる(略)」

 これらは仙人峠への取材旅行を裏付ける内容と思われます。(上記引用部分のすぐ後には後述の「風の又三郎」創作メモも書かれています。)
 「The Great Milky Way Rail Road」とは軽鉄、つまり岩手軽便鉄道(現JR釜石線)のことでしょう。※3
 「丘々は・・・」は下記創作メモと共通するところがあります。
 「盆地を・・・」は参考作品抜粋の「盆地に白く霧よどみ」の原型です。
 「温石の青き鋸」とは蛇紋岩が目立つ早池峰山と思われます。※3
 おそらくは9月6日(日曜)に出発し、翌日の月曜日に学校を取材したことも考えられます。9日には沢里氏に礼状を書いています。
 (この取材が行われた時の岩手県内の雰囲気についてはものがたりの舞台(2)取材の日を参照して下さい。)

 この取材行の折、遠野駅で落ち合った沢里氏に対し作者は車中で「どっどど どどうど・・・」の歌の作曲を依頼したが、その過大な期待の重圧に沢里氏は結局作曲を果たせなかったという逸話は良く知られています。(「風の又三郎」を吹く風風の歌のメロディー参照)


作メモ

 作者の遺したたくさんの原稿類の中には「風の又三郎」に関する各種創作メモがあちこちに紛れ込んでいました。いずれも昭和6年に入ってからのものとみられますが、執筆前・中のさまざまな構想が窺えるその興味深い記述をごらんいただきましょう。(一部省略。誤字などは原文のママ。「新校本宮澤賢治全集」による。)
 なお、最終的に「風の又三郎」にはっきりとは実現しなかった部分を赤で示しておきます。
 (メモ中、"風野又三郎"とあるのは前身作「風又三郎」のことではなく、後日「風の又三郎」と題されることになる新作を意味します。)

 童話 風野又三郎 梗概

 九月一日 登校、授業前、見知らぬ子
        足をふむ。子ら喧嘩してさわぐ間に居なくなる
        招介、モリブデン稼行するとて社の命に父来り住す
        
職員室より教師とともに出で来る
        教師訓示する間に背広にシシャツ着て黒のハンケチを巻ける男
窓外より扇子を持ちてうかがふ。
        あだ名  いまだ恐れて近づかず別れ去る。
 
月二日 子らはじめて近づく
        
又三郎風の歌をうたふ
        ぼくに風のうたうたへっていふのか
        又三郎歩き来れる地方のことを語る

 
月三日 アセチレン燈にて火ぶりす
        剣舞の練習后

 
月五日 風の効用に就て子らと争ふ

 

 風野又三郎

 九月一日 木 小学校 転校
 九月二日 金 消炭にて書く 鉛筆を貰った子 
湧水を教へる みんな又三郎の挙動ばかり見てゐる
 九月三日 土 
又三郎語る 草山の下を通る 風の歌、又三郎の前の学校のはなし あしたの相談
 九月四日 日 草刈を見に行く
 九月五日 月
 九月六日 火 雨 
消炭はやる
 九月七日 水 雨、葡葡とりに行く 又三郎効害論
 九月八日 木 情勢険悪
 九月九日 金 
神楽
 九月十日 土 
又三郎云はず
 九月十一日 日 
 九月十二日 月 嵐 転校

 どっどど、どどうど、どどうど、どう
 どっ――
 (1)
あまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろも吹きとばせ
 (2)
青いりんごも吹きおとせ まっ赤いりんごも吹きおとせ
  B
アモイ、東京、タスカロラ、上海、青森、オホーツク、

 六年 孝一
 五年 嘉助 又三郎 さの
 四年 佐太郎 喜蔵 甲助 
辰治 この    きのよ
 三年 ぺ吉‥‥かよ

 画習算国全部一諸

 

 風野又三郎  木
 九月一日 晴
 九月二日金――転校 
    三  土――消シ炭、
話シ、
    四  日――原、馬
    五  月――水泳
    六  火――
    七  水――雨  
    八  木――葡萄とり
    九  金――
神楽
    十  土‥‥
又三郎平然
    十一  日‥‥‥記事ナシ
    十二  月――風雨―――終リノ日

 九月二日 金 鉛筆ニ就テノ紛争 又三郎消シ炭ニテ書ク
  ・
  ・
  ・
 九月十一日 曇 日
 九月十二日 風雨 月


以下は既述「兄妹像手帳」のもの。

 童話 風野又三郎
  自九月一日 至九月十日
  雨はれし
次の日 白雲うづまけり
  種山
原のかた 青くけむること
 
楊の葉 いまだブリキならず 胡栗の葉に病葉あり
  たばこの葉をとりしとて 又三郎いぢめらる
  専売局の役人
  「あんまり川をにごすな
ぢゃ いつでも先生ぁ云ふでなぃが
 
山の雨の中、萱のむらや 栗の木の間を 雲は這って あるきました
  第二日 
又三郎談ル
  第三日 
カヂカ突キ
 
風ぇどうど 吹いで来 豆けら 風どうど 吹いで来
  第四日 種山

  第五日 又三郎鉛筆ヲカシ自ラハ消炭ヲ拾ヒ来リテ算ス
 
終テ運動場ニ出デ風ノ中ヲ飛ビアルク 「ワアウナホントア風ノ又三郎ダベ」
  第六日 雨 タバコヲツム 又三郎雫ヲ落ス
  第七日 又三郎風ノ効用ニ就テ争フ
  第八日 
火ブリ
  第九日
  第十日 
父迎ヒニクル
  第十一日 日曜
  第十二日 転校

  風野又三郎
  雨はれ山々
新に鋳型をいでしがごとき
 
萱の間でかくれっこしなぃが
 
谷川の上流にて 小鳥ら柳に吸はる
  谷の上なる きのことり

  それから あかしも消さな
     ・
     ・
     ・
  それからそれから ラムプも消さな


 以上、作品本文とは異なる内容や変形された内容、採用されなかったモチーフ、果ては地名を読み込んだ歌までもの存在が目を引きます。作品鑑賞の立場ではそれらはあくまで除外して考えなければなりませんが、作品研究の立場からは大変興味のそそられるところです。
 なお、作品に実現されなかった内容は多くは2日、3日及び9日、10日に設定された諸内容であると同時に、その日にち自体もまた2日以外は結局残されなかったことに留意したいと思います。三郎が自分のことを語り、風の歌を歌うところと、情勢険悪のあとの三郎の様子は完全に隠されてしまったのです。

 現存本文は1日から8日までのうち二日間が抜けていますが、当初は全ての日付が揃う構想であったことは次のことからも明らかです。
 すなわち、現存2日から8日までの何れの本文も冒頭が「次の日」または「次の朝」で始まっており、したがって四日の冒頭がそうである以上当然3日の本文が存在し、同じように6日と目される本文の冒頭により5日の本文が存在したことが分かります。またもし、6日と目される本文が実は5日のものであったとしても、7日冒頭は6日の本文の存在を示しています。

 “火ぶり”、“火ブリ”は灯火漁のことです。(四万十川の火ぶり漁などの例があります。)“アセチレン燈にて”とありますが、例えば「銀河鉄道の夜」の最後の場面には“魚をとるときのアセチレンランプ”が出てきます。なお、このメモに「火ぶり」があることは8日のねむの林の匂いの正体の大きなヒントとなっていると私は考えます。※4

 “楊の葉 いまだブリキならず”は「鳥をとるやなぎ」と「ガドルフの百合」に、“風ぇどうど 吹いで来 豆けら 風どうど 吹いで来”(岩手のわらべ唄より)は「風又三郎」に類似部分があります。

 “谷川の上流にて 小鳥ら柳に吸はる”は「鳥をとるやなぎ」の、“谷の上なる きのことり”は「谷」のモチーフです。

 “山々新に鋳型をいでしがごとき”は「どんぐりと山猫」の冒頭の朝の景色に通じます。その場面はまるで「風の又三郎」の一場面のようです。



 作者は東北砕石工場の仕事で東京出張中の昭和6年9月21日に一旦遺書を書くほどの重い病に倒れ、その後「風の又三郎」は概ね実家の病床での執筆となりました。7年、残念ながら「児童文学」は廃刊となりましたが作品は翌8年9月のギリギリまで手直しされ続けたようです※5。特に「9月2日」の部分は一番最後に改めて全面的に書き直されたものらしく、他の部分との矛盾を含んだ章となっています。そしてご存知の通りものがたりは結局最終的な完成を見ることはできませんでした。(原稿未整理による作中の矛盾の問題については後述の「風の又三郎」の謎参照。)
 しかしながら、このように「風の又三郎」が複数の既成の作品からの引用を重要なファクターとして成り立っているということは、作者にとってこれが一つの言わば集大成的作品であったのだと考えることができることを示しています。思えば、作者が過ぎ去った日々にあちこちで出合った小さな学校や谷川、高原などでの印象が後々まで心を離れなかったからこそ、きっと宮沢賢治はそれらのシーンをもう一度この作品に再現させて生き返らせてみようと考えることになったのでしょう。※6

 語詩「夜をま青き藺むしろに」の先駆形「土性調査慰労宴」には郷土の山河に対するこまやかな愛情表現が見えます。作者最晩年の作であり、作者自身が過去を追体験した作品であると同時に我々もまた作者学生時代のひとコマを鮮やかに追体験させられる思いです。

  ことあたらしくうちしける
  青き藺草の氈の上に
  人人のかげさゆらげば
  昨日も今日もめぐり来し
  たばこばたけのおもひあり

  また人人の膳ごとに
  黄なる衣につゝまれて
  三尾添へたる小魚は
  昨日も今日もたどり来し
  くるみ覆へるかの川の
  中に生れたる小魚なれ

  酔ひて博士のむづかしく
  大学出なる町長も
  たゞさりげなくあしらへば
  接待役の郡技手も
  眉をひそめてうち案じ
  縮れし髪を油もて
  うち堅めたるをみなごも
  なすべきさがを知らぬらし

  酒得て呑まず酔はざらば
  西瓜を喰めとすゝむるは
  組合村の長なれや

  あゝこのま夏山峡の
  白き銀河の下にして
  天井低きこの家に
  つどへる人ぞあはれなれ

なお、作品が最初に刊行されたのはそれからほんの間もなくの昭和9(1934)年、「宮澤賢治全集」第三巻(文圃堂)によってでした。

 その後「宮澤賢治名作選」(羽田書店)、「宮澤賢治全集」第三巻(十字屋)、「風の又三郎」(羽田書店)(下図扉絵)−いずれも昭和14年−などに収められています。


その

 更に後の経緯は山崎進「宮沢賢治研究ノート(10)」(「四次元」昭和28・7宮沢賢治研究会)にまとめられています。

 昭和九年十月十九日 「宮沢賢治全集第三巻」に所収(文圃堂発行)
 昭和十四年二月二〜七日 築地小劇場に於て東童宮津博氏演出「風の又三郎」上演さる
 昭和十四年三月七日 「宮沢賢治名作選」に所収、文部省推薦となる(松田甚次郎編羽田書店発行)
 昭和十四年十月二十七〜二十九日 有楽座に於て劇団東童宮津博氏演出「風の又三郎」上演さる
 昭和十四年十二月二十日 「風の又三郎」坪田譲治解説で羽田書店発行 文部省推薦
 昭和十五年十月十日 日活映画「風の又三郎」封切 文部省推薦 文部大臣賞受く ポリドール テイチクレコードに「風の又三郎」吹込む
 昭和十六年一月十六日 東京中央放送局からラジオ小説「風の又三郎」放送
 昭和十六年四月二十三〜八月十五日 盛岡放送局から五回にわたり「風の又三郎」朗読放送
 昭和十七年二月十一日 新京(満州)文芸文書房から「風の又三郎」漢訳「風大哥」発行される(季春明訳)
 昭和二十四年二月 宝塚中劇場に於て青沼三朗演出「風の又三郎」上演
 昭和二十五年十二月三十日 あかね書房から世界絵文庫初級向「風の又三郎」発売(高橋忠弥画)
 昭和二十五年十二月三十日 ポリドールレコード 劇団東童吹込みで「風の又三郎」発売
 昭和二十六年四月十五日 「宮沢賢治児童劇集」に所収(聖光社−京都−発行)
 昭和二十六年四月二十五日 岩波文庫「風の又三郎」(谷川徹三編)発行
 昭和二十七年三月 「ラジオ東京」から劇団東童出演で「風の又三郎」放送
 昭和二十七年五月十日 「日本の名著」(毎日ライブラリー・毎日新聞社発行)に「風の又三郎」所収
 昭和二十七年五月十日 「日本名作物語」(少年毎日ライブラリー)に「風の又三郎」所収

 

 「風の又三郎」主な出版歴 「児童文学者人名事典」(中西敏夫編・出版文化研究会)より

 「宮沢賢治全集」全3巻 高村光太郎・宮沢清六・藤原嘉藤治・草野心平・横光利一編 文圃堂書店 1934〜35
 「宮沢賢治全集」全6巻・別巻 高村光太郎・中島健蔵・宮沢清六・藤原嘉藤治・草野心平・谷川徹三・横光利一・森惣一編 十字屋書店 1939〜44、1946〜48再版
 「風の又三郎」(絵文庫) あかね書房 1956
 「風の又三郎」 筑摩書房 1956
 「宮沢賢治全集」全11巻・別巻 筑摩書房 1956〜58
 「宮沢賢治全集」(普及版)全11巻 筑摩書房 1958〜59
 「風の又三郎」(宮沢賢治童話集1)春日部たすく絵 岩波書店 1963
 「宮沢賢治童話全集」全7巻 岩崎書店 1964
 「風の又三郎」(少年少女日本の文学21) あかね書房 1967
 「風の又三郎・よだかの星」 鈴木たくま絵 旺文社 1967
 「宮沢賢治全集」全12巻・別巻 筑摩書房 1967〜8
 「風の又三郎」 学習研究社 1969
 「風の又三郎」(名著復刻日本児童文学館29) ほるぷ出版 1971
 「宮沢賢治全集 校本」全14巻 宮沢清六・天沢退二郎・猪口弘之・入沢康夫・奥田弘・小沢俊郎・堀尾青史・森荘已池編 筑摩書房 1973〜77
 「風の又三郎」 ポプラ社 1978
 「宮沢賢治全集 新修」全16巻・別巻 宮沢清六・入沢康夫・天沢退二郎編 筑摩書房 1979〜80
 「風の又三郎」(宮沢賢治童話全集シリーズ文庫版2) 深沢省三絵 1982
 「風の又三郎」(宮沢賢治童話集2)広瀬雅彦絵 講談社 1985
 「宮沢賢治全集 文庫版」全8巻 天沢退二郎・入沢康夫・宮沢清六編 筑摩書房 1986
 「宮澤賢治童話集1」 矢立出版 1987
 「風の又三郎」 偕成社 1989
 「風の又三郎」(宮沢賢治童話全集9) 岩崎書店 1989
 「風の又三郎」(宮沢賢治絵童話集12) くもん出版 1992
 「風の又三郎」 春日部たすく絵 岩波書店 1994

 (現在発売中のものについての情報はおしまいにの読書案内をごらん下さい。)



考作品紹介


「風の又三郎」に組み込まれた、あるいは関係する作品群です。

「風野又三郎」を読む
「みじかい木ペン」概要
「種山ヶ原」を読む
「さいかち淵」を読む

*

「種山ヶ原の夜」概要
「鳥をとるやなぎ」抜粋
「毒もみの好きな署長さん」抜粋

「台川」概要
「イギリス海岸」概要
「楢の木大学士の野宿」概要

「泉ある家」抜粋
「十六日」抜粋
「マグノリアの木」あらすじ
「峯や谷は」抜粋
「谷」あらすじ
「さるのこしかけ」あらすじ
「銀河鉄道の夜」抜粋
「どんぐりと山猫」抜粋

「やまなし」抜粋


*      *


 逆に、と言ってはおかしいのでしょうが、「又三郎」の姿がの作品の中に現れることもあります。


参考作品抜粋

 「風又三郎」以外にも、「イーハトーボ農学校の春」には"風野又三郎"が陽気な春の風の精として、「ひかりの素足」には"風の又三郎"が恐ろしい死神のような存在として描かれています。「雪渡り」「まなづるとダァリヤ」にはほんの名前だけですが"又三郎"が出てきます。これらはいずれも「風の又三郎」より前、かつ「風又三郎」よりも前の作品ですから、「又三郎」の概念自体は早くからデビューしていたわけです。※7
 また、「又三郎」の名はついていませんが、「いちょうの実」にはガラスのマントの、「葡萄水」には又三郎の原型と思われる赤毛の子供の記述があります。
 吹雪の世界を空前の美しさで描いた「水仙月の四日」に出てくる雪婆んご、雪狼、雪童子は又三郎の眷属と言っていい存在でしょう。
 文語詩「盆地に白く霧よどみ」の内容は子供たちも学校も「風の又三郎」の原風景そのものです。
 詩「孤独と風童」では作者は風を童子と見て話しかけ、童話「風又三郎」の発表宣言をしています。

 又三郎から離れて「風」一般ということになるとこれはもう宮沢賢治の多くの作品の中に、自然な風景として、また重要な何かを象徴するジングル、場面転換や異世界へのスリップのブリッジとしてお定まりのように吹いてきます。後者の典型的な例は例えば「注文の多い料理店」、「どんぐりと山猫」、「鹿踊りのはじまり」などに見ることができるでしょう。
 者は風に対して並々ならぬ関心と興味を抱いていたことは間違いありません。宮沢賢治の生涯にはイーハトーヴの野や林に立って風を見つめながらものを思ったシーンがそれこそ数え切れないぐらいあったことでしょう。※8

 

       。    
             
             
             
             
             
             
             
             
             
         ヽ      ヽ  
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稿            
             
           
           
           
           
             
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三郎を彷彿とさせる作品群です。

「イーハトーボ農学校の春」抜粋
「ひかりの素足」抜粋
「雪渡り」抜粋
「まなづるとダァリヤ」抜粋
「いちょうの実」抜粋
「葡萄水」抜粋
「水仙月の四日」抜粋
「盆地に白く霧よどみ」
「孤独と風童」
「注文の多い料理店」抜粋


*      *

(上に掲げた以外にこのサイトで引用している作品についてはおしまいにの引用作品名一覧でごらん下さい。)

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参考作品・おおよその執筆

大正7年 高等農林卒業 峯や谷は
10年 上京・帰郷・農学校奉職 種山ヶ原・毒もみの好きな署長さん・どんぐりと山猫・雪渡り・いちょうの実・葡萄水・まなづるとダアリヤ・さるのこしかけ・注文の多い料理店
11年   台川・イーハトーボ農学校の春・ひかりの素足・水仙月の四日
12年   みじかい木ペン・さいかち淵・鳥をとるやなぎ・イギリス海岸・楢の木大学士の野宿・マグノリアの木・谷・ガドルフの百合・やまなし
13年 詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」出版 風野又三郎・種山ヶ原の夜・孤独と風童
昭和68年   風の又三郎・盆地に白く霧よどみ・泉ある家・十六日・銀河鉄道の夜(最終形)

参考:別冊國文學宮沢賢治必携(學燈社)

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参考作品系譜

  彷徨のモチーフ
 2 彷徨、獣道
 3 彷徨の細部、昏倒、霧の描写など
 4 深い谷のモチーフ
 5 種山ケ原の風物、自然の描写
 6 達二が出発してから夢の大部分を除いてほとんど全部、夢の先生の場面
 7 夢の先生の場面
 8 風野又三郎の概念
 9 一郎と舞台の雰囲気
10 「毒もみ」
11 風野又三郎の概念
12 詩での童話への言及
13 鉛筆紛争
14 二日間のできごとほとんど全部
15 「砥石」
16 鼻の尖った人への示唆
17 草刈り、焚き火、馬、ヤマブドウ、自然描写、地名、人名など
18 初日と最終日の大枠、風に関する論争、他に描写の断片


※1 風野又三郎から風の又三郎へ
※2 ものがたりの舞台(1)種山ケ原周辺図
※3 ものがたりの舞台(1)種山ケ原周辺図
※4 鑑賞の手引き(1)9月8日の注、参考作品紹介「銀河鉄道の夜」抜粋
※5 原作本文原文について
※6 ものがたりの舞台(1)周辺の村々
※7 鑑賞の手引き(2)“風の又三郎”とは
※8 「風の又三郎」を吹く風なぜ風か





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