の 扉

− 後 篇 −

 それはいつも祖父が自分に語りかけてくれたこと。

 ── いいかい、ケアン。勉強とは、知識を詰め込むだけの事を指すのではないんだよ。

 他の家族の誰からも省みられない末の孫を不憫に思ったのか、祖父は父や母の代わりに言葉を教え、生きて行く上で必要となる常識や知識を与えてくれた。
 あまりにも幼かった彼に、その教えの多くは完全に理解出来るものではなかったけれど。
 それでも祖父が自分に一番求めてくれていた事は、言葉にされずとも肌で感じ取っていた。
 生きるという事を、諦めないこと。
 …もしかしたら、祖父は自分の死期を悟っていたのかもしれない。だからこそ、自分が死んだ後に誰よりも孤独になるであろう孫へ、殊更愛情を注いだのだろう。

 ── 見て、感じて、聞いて…感覚全てで受け止めたものの中から、多くの事を掴み取るんだ。

 一面の、雪。
 降り積もったその上に二人並んで、空を見て大地を見て、遠くに霞む山を見た。
 寒いはずなのに── 実際、手足はかじかみ、吐く息は真っ白だったのに── 不思議と暖かさを感じていた。
 何かに、包み込まれるような。

 ── わかるかい?

 何を、と言われなくても、それが何かわかったような気がしたので、はい、と答えると、祖父はその皺だらけの顔を綻ばせて嬉しそうに笑った。
 そして少し淋しげな目で自分の胸に下がった聖晶に目を向けると、いつものように残念だ、と呟いた。
 詳しい理由は今でもよくわからないが、父母── 特に母が喜んだ程には、自分が聖晶をもって生まれて来た事を喜んでいなかったのは確かだった。
 何故、と一度だけ聞いた事がある。
 けれど祖父はただ微笑んで、『神の祝福を受けたお前にとって不必要な事だ』と答えるばかりだった。
 それが果たして、いつかは手放さなければならない事に対するものだけだったのか── 今となっては謎のままだ。

 ── 君、知らない事を知る事は好きかい?

 山頂で突然、ルネットが口にした言葉は、不思議と祖父を思い出させた。
 多分、祖父が言っていた『勉強』と同じ事を、ルネットは言ったのだろうと思う。

 ── 君は…人が怖いんだね。

 ルネットの言葉は正しい。
 祖父とは特に言葉にしなくても、それとなく思っている事が伝わったせいもあるだろうが、他人と意志を疎通させる事は、ケアンにはとてつもなく難しい事に感じられた。
 詰まる所、怖いのだ。
 思った通りに言葉にして、もしそれが受け入れられなかったとしたら──。
 そう思うだけで、心も体も竦んでしまう。
 ルネットは言った。周囲に『神童』としてだけ見られてもいいのかと。
 心の中ではそれは嫌だと思う自分もいるけれど、でもその裏には周囲のそうした目に甘んじてきた自分がいたのも確かだった。
 …楽だったのだ。
 本当はわかっている。自分を隠さずとも、周囲がそれを頭ごなしに否定する事もなく、ましてやこの『場所』から追い出す事もないという事を。
 それでも── 怖かった。
 だってもう、自分には神殿以外には何処にも行く場所がない。
 家族の元へは帰れない。帰ったとしても、きっと受け入れてはくれないだろう。
 祖父は事ある毎に『違う』言ってくれたが、神殿に来るまで労働力になれない自分が『不要な子』だったのは事実で。
 …だからどんな形であろうとも、必要とされた事は純粋に嬉しかった。
 自分の何処に必要とされるものがあるのか、自分では理解出来なかったけれど。
 それでいい、と思っていた。
 なのに── ルネットと一緒にいると、それとは違う思いが湧いてくる。
 『神童』扱いをしなくなったルネットに、どう接していいのかよくわからない。
 わからないけれど…どんな言葉も受け止めて、まるで友人のように扱ってくれる彼に対する恐れが日に日に薄れてゆくのは事実で。
 …そうされる事に、居心地の良さのようなものさえ感じていて。
 駄目だ、と思う。
 ルネットが自分に良くしてくれるのは、これが彼の仕事だからで。自分の境遇に同情してくれたからで。
 …それだけなのだから。
 目的地である帝都内の地方神殿に着いてしまえば、そこで終わり。
 彼はまた元の地方神殿に戻って、今までと同じ生活を送るのだろう。
 しばらくは自分の事を覚えていてくれるかもしれない。でも、時が経つにつれ、過去のものになって行くに違いない。
 この旅は終わりがあるもので、ずっと続くものじゃないから。
 楽しい、なんて思っては駄目だ。
 ── 祖父が死んだ時に、思い知ったはず。温もりを知れば、それを失った時に一人の淋しさを余計に感じるだけだと。
 そう、思うのに。
 どうして、いつまでもこの旅が続けばいい、なんて思ってしまうのだろう──。

+ + +

「ルネットは…どうして神官になろうと思ったの?」
 ケアンがそんな事を尋ねて来たのは、彼等の旅も終焉が見えてくる頃の事だった。
 旅は順調に進んでいた。
 不安定で気まぐれな山の天気も、ルネットが驚くほど安定を保ち、崩れる事はほとんどなく、その間に二人の関係も変化していった。
 こちらから話しかけるばかりだったのか、ケアンからも話しかけるようになり、『ルネットさん』と敬称がついていたのが『ルネット』と呼び捨てになり── 。
 そうなるにはルネットの努力による所も大きかったが、ケアン自身がその影響を素直に受け入れた事も重要な変化と言えただろう。
 その変化を純粋にルネットは喜んでいた。
 歩きながら、あるいは休息を取る時に、少しずつ話を聞いた所によると、ケアンは北領でも特に冬が厳しく、貧しい人々が多い地方の生まれで、親ではなく祖父によって育てられたという。
 ── 親に捨てられる子供は、北領では特に珍しい話ではない。 
 だが、ケアンがその素直な心根に反して、自分を出す事に臆病なのはその辺りが深く影響しているような気がしてならなかった。
(僕の所は比較的豊かな場所だからなあ……)
 雪と氷に長く閉じ込められる北領においても、比較的南方に位置し、しかも鉱業を主な産業とする山岳地帯で生まれ育ったルネットに、その心情は理解出来るとは言えないものだ。
「僕が正神官になった理由を知りたいのかい?」
 何でまたそんな事をと思いつつも、自分がこの道を選んだ時の事を思い返す。
 神殿に入ったのも、ケアンとは違い、聖晶を持って生まれたからには取り合えず、という流れだった。
 両親も自分が神官になるなどほとんど考えていなかったようだし、見習い期間が終わった後は故郷に戻って来るのだろうと考えていたに違いない。
 自分でも規律正しい神官の生活に適応出来るとは思えず、帰る気満々で神殿に入った。
 …結果として、神殿はルネットの好奇心を非常に刺激する場所で── 自ら進んで正神官になった訳だが。
「ケアン、君は勉強が好きだって言っていたね」
「え…う、うん」
 何の前振りもなく話を振ったからか、その空色の目を丸くしながら、ケアンはこくりと頷いた。
 ルネットの言葉がいつの言葉を受けたものか気付いたのか、少し考え込むように沈黙した後、すぐに言葉を続ける。
「ルネットが言う、『知らない事を知る』事とは違うのかもしれないけど……」
「そうだね。僕は普通の勉強は嫌いだ。算術なんて、やってると頭が痛くなる始末だよ」
 あっさりと勉強嫌いを認め、ルネットは笑った。
「僕にはね、壮大な夢があるんだ」
「…夢?」
「そう、夢だ。神官になったのも、その取っ掛かりに過ぎない」
 今まで誰にも話した事がないそれを、何故ケアンに話そうと思ったのかルネットにもわからなかった。ただ、ふと── 話してみようという気になったのだ。
「僕はね…『神官が何の為に存在しているのか』、その謎を解明したいと思ってるんだよ」
「…何の為に?」
 ルネットの口からそんな事が出て来るとは思わなかったのか、それともその事を不思議だと思っていなかったのか、きょとんとした顔でケアンが繰り返す。
 ── 大部分の神官が当然のように受け止めていて、疑問にすら感じないその不思議は、ルネットにはとてつもなく魅力的な謎だった。
「そう。僕達は何故、聖晶なんてものを持って生まれてきたんだろう? そんな事を考えた事はないかい?」
 生まれ方は一緒なのに、普通の人とは違う生き方を生まれながらに選択肢として持つ意味は?
 人を害すると神官としての『資格』が失われるが、そもそも何の為にそんな『資格』を持っているのか?
 …その事を解明してみたいと思ったからこそ、自分は神官の道を選んだ。
「人が死んで何処へ行くのか── それよりは解明できそうな謎だと思わないかい? まあ…その為には、君が好きで僕が嫌いな普通の『勉強』も、ある程度は必要になる訳だけどね。…神官になって後悔はしてないよ」
 ただの人になってしまっては、その謎は追いかけられない。
 だからこそ、平凡な人生を選ばずに。いろいろと面倒な制約に縛られる神官であり続ける道を選んだ。
 時折、窮屈(きゅうくつ)さを感じはするが、自分で決めた道だ。だからそこに後悔はない。
 言葉にして、その事をケアンに言いたかったのかと自分で納得する。
「ケアン、君もどんな事でもいいから生き甲斐を見つけるといい」
「…生き甲斐……?」
「うん。その為に人生をかけてもいい、と思えるような事を探すんだ。それがあれば、何処でだって楽しく生きて行ける」
 ただ流されて生きて行くのもまた人生かもしれないが、せめてそれくらいの目標はあったっていい。
 そう思っての言葉は、彼が思った以上にケアンの心を揺り動かした。
「…ルネットは、すごいね」
 心の底から感心したように漏らされた感想に、逆にルネットはらしくない自分の言葉に照れる羽目に陥った。
「何を…い、今のはあくまでも一般論だよ」
「そうなのかもしれないけど…でもすごいと思う。自分のやりたい事を、ちゃんと持ってるもの」
 今まで接した神官達がそんな風に夢を語るのを聞いた事がない。だからこそ、一般論以上に言葉に説得力があるのだとケアンは思った。
 一風変わった、あまり神官らしくないルネットが何故神官になったのか── ちょっとした疑問から尋ねた事だったが、思いがけない収穫を得た気がする。
 人生をかけてもいいと思えるような── そんな何かがあったら、確かに何かが変わる気がした。
 それは今まで、そして今の自分にはないもの。
「ぼくも…ルネットみたいに、何か見つけられるかな」
「もちろんだとも」
 その言葉に今までにない意志を感じて、ルネットは後押しするように力強く頷いてやった。
「意外と身近な所にそれはあったりするものさ。何処にでも切っ掛けは転がっている。きっと…君がこれから行く大神殿でもね」
「…うん。そうだね、ルネット」
 その言葉に励まされたのか、こくりと頷き、ケアンは笑顔を見せた。
 ── その、瞬間。ルネットは固まった。
「……」
「……?」
 突然立ち止まってしまったルネットを振り返ると、彼は心底驚いたようにこちらを見ていた。
「…ルネット? どうしたの」
「…あー…いや、ちょっと不意打ちで……」
 すぐに自分を取り戻したルネットは数歩でケアンに追いつくと、そんな意味不明の事を口走り、小さくため息をついた。
「ケアン、君…気付いていたかい?」
「…何を?」
「僕は今、初めて君が笑った顔を見たよ……」
「え…っ?」
 そうだっただろうか、とペタペタと自分の顔を触る仕草は微笑ましいが、無意識にあの笑顔が出て来るなんて、ある意味将来がそら恐ろしいとルネットは思った。
 今まで見せなかっただけに、その威力は強烈で、うっかりルネットですら思考が止まったほどだ。
「うん、そうだ…ケアン、君は取り合えず笑う練習をした方がいいね」
「笑う…練習?」
「人が怖いならなおさらだ。無理でもいいから、人に会ったら笑ってみせるといい。多分…それは君の最強の武器になる」
 ただでさえ、大神殿はじい様ばあ様の園である。
 能力も経験も積んだ彼等は、逆にケアンほどの年齢の子供には弱いのではなかろうか。
 基本的に他人の事情に首を突っ込む事を避けるこの自分ですら、『お人好し』にしてしまう位に、心根が素直で庇護欲を駆り立てる所があるケアンだ。
 にっこり笑って慕われでもしたら── どんな頑固ジジイでも陥落するに違いない。
 うむ、これはなかなかの武器だ、とまだよくわかっていない本人を余所にルネットは心の内でほくそ笑んだ。
「大丈夫だ、ケアン。君には立派なジジババキラーになれる素質がある!」
「ジ、ジジババ……?」
 自分を置き去りにして、やたらと上機嫌なルネットに困惑しつつ── 気がつくとケアンは笑顔になっていた。
 もうすぐ、この楽しい旅は終わってしまうけれど。
 それでも── 旅が終わっても何かが続いて行くような、そんな気がした。

+ + +

 ── それから、三年の月日が流れて。
「ケアン、主席神官様がお呼びだよ。ここの仕事はいいから行っておいで」
「主席神官様が…? わかりました、すぐに参ります」
 入った当初は怖いばかりだったこの場所も、今では居心地の良い場所に変わって。
「主席神官様の用事が終わったら戻っておいで。お茶にしよう」
「はい、ベジネ補佐神官様」
 最初は必死に作っていた笑顔も、今では自然に浮かべられるようになって。
 ── ルネットが予見していた通り、ケアンは大神殿のちょっとしたアイドルと化していた。
 地方神殿でならさておき、主神殿、大神殿ではケアンのような年齢の子供に接する事はほとんどない。
 そんな老齢に近い神官達にとって、ケアンは神殿生活の潤いのようなものになっているらしかった。
 …もっとも、ケアン本人にはその自覚はなく、周囲が親切な人ばかりなのだと信じて疑いもしていなかったのだが。
「ケアンです。お呼びだと聞いたのですが……」
 年代を感じさせる飴色の扉を叩いて声をかけると、中から入室を許可する穏やかな声が返って来る。
「失礼します」
「わざわざ済まなかったね、ケアン」
「いえ…それで、今日は何の御用でしょうか?」
 主席神官の位にある者が、見習いに過ぎないケアンに直接用事を頼むなど、通常なら有り得ない事だ。
 補佐やさらにその下の位階の者を通じて命じてもまったく不思議ではない。
 しかし、こういう呼び出しはすでに珍しくなく、周囲もそれを受け入れている始末だ。
 結局の所、主席神官も他の神官達と同様、単にケアンを構いたいだけなのだが── 当のケアンは何かと気にかけてくれる事に純粋に感謝と敬愛の念を抱くばかりで、その事実に気付いていなかった。
「うむ…それがだね……」
 いつもなら軽い口調の主席神官が、今日に限っては何だか妙に口が重い。
 一体何なんだろう、と思いつつ急かす事なく言葉を待つと、やがて主席神官は気が進まない様子でようやく呼び出した目的を口にした。
「ケアン…君に、皇女殿下の教師をしてもらいたい」
「── 教師…って、あの、僕が、ですか……?」
 何を言われるかと思ったが、それは正しく青天の霹靂のような言葉で。
 困惑を隠さないケアンに、何故か主席神官は気の毒そうな目を向け、繰り返した。
「末の皇女、ミルファ様に儀礼作法などをお教えしなさい。明日の午後、南の離宮へ行きなさい。話は通してあるからね」
 何故、教師の経験など欠片もない自分が── そんな疑問は確かにあった。
 しかし、主席神官に逆らう理由もないし、第一すでに話は決まっているようだ。
 自分に出来るかどうかわからないけれど──。
『意外と身近な所にそれはあったりするものさ。何処にでも切っ掛けは転がっている』
 ルネットの言葉を思い出す。彼の言葉は正しかった。
 何がどう変わるかは、実行してみなければわからない。何が切っ掛けになるか、わからないから。
「…はい、わかりました。主席神官様」


 そして、光の満ちた庭で彼は見つける。
 その人生をかけてもいい、と思える── そんな夢を。


 心の扉(完)

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