天 秤 の 月
第ニ章 騎士ルウェン(17)
『声』を送った瞬間、『彼』がこちらに目を向けたのが遠目でもわかった。 よもやそこでこちらを見るとは思わなかったザルームは、正直言ってその反応に驚きを隠せなかった。恐るべき勘、としか言いようがない。 だが、その反応で『声』が無事に届いた事を確信出来た。 続きの言葉を送ると、彼── ルウェンは動き始める。その動きは明らかに彼の指示に従うものだった。 先に行使した呪術も活きているのだろう、ルウェンと共に他の兵士達も果敢に魔物へ挑み、やがてじわじわと三体の魔物の間隔が狭まってゆく。 (…さあ、次だ) 自分に言い聞かせ、時を逃さずに術を行使すべく術力と集中を高める。 見る者が見れば、彼の周囲の空気がゆらりと揺らいでいるのを見て取れただろう。 それはさながら陽炎。しかし、その源は熱ではなく── 『力』そのものだ。 勝負は、一瞬にして一点。 本来ならば広範囲を対象とする術を、上空から、しかも魔物のいる場所だけに集中させるのは至難の技だ。術者の力量だけでなく、術の展開の速さも問われる。 しかし、それでもその術を彼が選んだのは、それが一番事態を確実に終わらせると判断したからだ。 ザルームは呼吸を整えると、眼下の動きを追う。三方向から押しては引きを繰り返し、徐々に魔物は港の端へと追い詰められていく。 やがて一塊とまでは行かないが、ほぼ一箇所に魔物が揃った瞬間、ザルームは最初の詠唱を口にした。 「── メイ・ゲイル・リテラ・ペルセム」 それはこの地に存在する要素への呼びかけ。 その呼びかけを受け、瞬時にザルームの周囲の気温が一気に下降する。 リテラ・ペルセム── 意味する所は『小さき者』。それは転じてある要素を意味する言葉となる。水と熱── 火の二つの相反する属性を有するもの。 彼の言葉を術力を受け、場を支配するその要素の度合いがたちまち強まる。 …ヒュオオオオオォォ……! それは急激な温度変化によって生じた風により、術の展開範囲である魔物の周辺にまで運ばれる。 さながら霧のような、微かに白濁した風はたちまち魔物の体を絡め取り、その足元を包み込んだ。 「イ・チェイル・カイネ・ラーナ・バリス」 続く言葉を口にすると、それは求められた通りの働きをする。…魔物の動きを留める為に。 「…っ!?」 一方地上では、その変化を目の当たりにした兵士達が、ぎょっとその目を見開いていた。 季節は初夏── 日没を迎えても、まだ微かに大気は熱を帯びている。 それが急に肌寒さを感じるほどに冷えたかと思うと、ピシリと空気を鳴らしながら魔物の足元が凍り始め、瞬く間にその足の自由を奪い去ったのだ。 「さ、下がれ!」 魔物を留めるだけに飽き足らず、なおもその手を周囲へと伸ばす冷気に、誰からともなく声が上がり慌てて彼等はその場から下がった。 そこでようやく呪術師が近くに存在する可能性に気付き、兵士達がしきりに周囲を見回し始める。姿の見えない援軍に、明らかに動揺していた。 ── そこまではまだ序の口。 ニ属性要素である氷を利用した、比較的基本的とも言える捕縛系呪術に過ぎない。 それはあくまでも足止めと兵士達への牽制を目的としたものだ。ザルームは兵士が下がるのを目の端で確認すると、更に『続き』を紡ぎだした。 …今となっては忘れ去られて久しい、『禁じられた言葉』を。 「…メイ・リング・ピューラ・デ・テア・リューシ・テレ・イスト・ピューラ・ナ・ディーズ・フューグ・アレル・ノア・リオヴァ……!」 迷いを振り切るように、淀みなく長い言葉の羅列を一気に連ねる。言い終わると同時に襲ってきたのは、先程とは比較にならない苦痛だった。 それは、全身の細胞がバラバラになるような感覚と四肢が引き千切れるような痛み。 耐え切れずがくり、と膝から崩れ落ちる。それでも宙に留まっていられたのは、彼の精神力が並ではない証と言えた。 「…ッ、……ァ、ハ……ッ」 喘ぐような荒い呼吸が、布の内で響く。 恐らく牽制に使った前段階の呪術で止めておけば、ここまでのダメージは受けなかっただろう。しかし彼に後悔はない。 苦痛に絶えながら地上を見ると、それだけの痛みを代償とした術は無事に成功しているようだった。 魔物は全て彫像のように動きを止めている。うまく人への発動は防げたらしい。ほっ、とその肩から力が抜けた。 これで全滅は避けたいという、ミルファの願いは叶うはずだ。今回の戦いで出た人的被害は決して少なくはないが、六体もの魔物を相手にしながら、それを撃退した事は大きい。 正に今、彼の下でルウェンと思しき人間が彼の術の結果を受けて、最後の始末をつけている。 呼吸を整えながらそれを見ていたザルームは、ふと気付いたように口元へその骨のような指を伸ばした。 離れたそこにある色は、暗く沈んだ赤──。 しばらくそれを眺め、やがてザルームはぎゅっとその手を握り締める。口内に広がる苦い血の味に、くすりと自嘲するような苦笑を漏らしながら。 + + + 白い風が去ったそこには、動かなくなった魔物が三体。 |