天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(3)

 フィルセルは一見おとなしそうな感じのする外見に似合わず、結構活発な性格なようで、ベッドに縛り付けられて退屈を持て余すルウェンの良い話し相手になった。
「…そういや、フィル。何でまた、施療師になろうなんて思ったんだ?」
 ふと疑問に感じて尋ねると、フィルセルはきょとんとした表情になってルウェンを見つめた。
「え? 何でって…変ですか?」
「いや、そこまでは思ってねえけど…でも、女の医師は結構いるけど、女の施療師ってのは珍しいだろ?」
 医師と施療師。この二つは共に医療を担う重要な職業だ。
 医師は主に内科的な分野を、施療師は主に外科的な分野を専門とする。
 出産などは医師の分野の仕事に当たる為、結果として女性の医師は数多いが、時として壊死した腕や足を切断したり、目を覆わんばかりの重症を目の当たりにする事もある施療師に、女性は滅多にいなかった。
 特になってはならないという規則はないので、これは必然的にそうなったという事だろう。
 ルウェンでもその程度の知識がある程に一般的な事だ。その疑問を抱いたのは不思議でも何でもないだろう。
 フィルセルも気を悪くした様子もなく、あっさりと答えてくれた。
「あたしの父が施療師だったんですよ。母は医師で…いつも一緒に働いていました。その姿を横に見て育っている内に、施療師の仕事に興味を持つようになったんです」
「…医師じゃなくて?」
「はい。…だって、あの山ほどある薬草の一つ一つの効用と組み合わせ方を覚えなきゃならないんですよ? 無理ですよ、そんなの。それに、あたし…お裁縫は得意だし♪」
「── そういう表現はやめてくれ……」
 傷口を裁縫感覚で縫うフィルセルの姿を想像して、ルウェンは思わずげっそりとした顔で唸(うな)る。
 どうもフィルセルには微妙に過激な表現をする癖があるらしく、彼がこういう思いをするのもすでに珍しい事ではなくなっていた。
 そんなルウェンの顔に、くすくすとフィルセルは遠慮なく笑う。…明らかにわざと、だ。
 わかっていて言うのだから余計に性質が悪い。彼女が施療師になるには、適性以前にこういう言動をどうにかすべきだと、ルウェンは思った。
 この調子なら、ちょっとの痛みを『死ぬほど痛い』と表現して、徒に人の恐怖を煽りかねない。
 直接言おうものなら、うっかりを装って傷口を『撫で』られかねないので、あくまでも心の中で思うに留める。
 先日、すっかり鈍ってしまった身体を少し動かそうと、フィルセルの目を盗んでベッドから抜け出そうとしたのだが、正に部屋を出ようとした所を見つかってしまった事があった。
 焦るルウェンに、フィルセルは笑顔で歩み寄って来ると、そのまま傷口を容赦なくスパーン!と叩くという凶行に及んだ。
 普段の彼なら難なく避けた一撃だったが、完全に鈍りきった身体と予想外の行動に対応が遅れ、もろにその一撃を受けてしまった。
 当然ながら洒落にならない激痛が走り、ルウェンは涙目で何をしやがる、と抗議したのだが。
 その抗議に対し、フィルセルは悪い事など一つもしていないかのような笑顔で、きっぱりと言い放ってくれた。
『それはこちらの台詞ですよ? 動けるって事は、傷が治ったという事です。ほんのちょっと「撫で」たくらいでそんなに痛いんだったら、まだまだ治っていない証拠です。…大人しく寝ててください!』
 ── フィルセルは良い話し相手でもあったが、良い監視人でもあった訳だ。
 しかし、こんな他愛のないやり取りをしていると、気持ちが和むのも事実だった。
(…こういう妹がいたら、毎日が楽しいかもな)
 妹などいなかったが、そんな事を思う。
 屈託のない明るさは、極限まで張り詰め、ささくれだっていた心を癒してくれる。随分長い事、こんなやり取りから遠ざかっていたからだろうか。
 今の時間がとてつもなく貴重なものに思えて仕方がなかった。…いつまでもこうしていられるなどとは、当然思ってはいなかったが。
 その時、扉が控えめに叩かれる音がした。医師が来る時間には早い。一体何事かと思っていると、フィルセルが身軽に椅子から立ち上がり、扉に向かった。
「はい、何か?」
 先程までの屈託ない表情をいくらか改めてフィルセルが扉を開くと、扉の向こうから黒い官服を持て余し気味に身に着けた少年が顔を見せる。
 南領では比較的一般的な黒髪のフィルセルに対して、少年の髪は随分と明るい。
 赤い髪はどちらかと言うと北や西に多い色だ。片親のどちらかがそちらの出身なのだろう。服が黒いせいで余計にその赤は眼についた。
「あら、ジニー」
「えっ、フィル?」
 お互いに顔を見た瞬間に驚きの声を上げる。どうやら顔見知りらしい。
「何か用?」
 途端にまた態度を屈託のないものに変えてフィルセルが尋ねる。だが、ジニーと呼ばれた少年は、傍で見ていて面白いほどにうろたえた姿を見せた。
「何かって…え、あの、フィル? な、何でここに……!?」
「何でって…、この方の看護を任されたからに決まっているじゃないの。ジニーこそ、ここに何をしに来たの? あなたはザルーム様付きの伝令なんでしょう?」
(…ザルーム……?)
 何の気負いもなく発せられたフィルセルの言葉に、ルウェンはぴくりと反応した。
 だが、何故その言葉(おそらく人名だろう)に反応してしまったのか自分でもわからず、ルウェンは結局口を挟まず、彼等のやり取りを見守る事にした。
「そ、そんなんじゃないよ! まだ、そんな…僕は見習いみたいなものだし……」
 もそもそと自信なさげに言いながらも、ジニーの言葉にはそうなりたいという願望と意志が確かにあった。
 気弱そうな外見と性格のようだが、向上心は高いようでルウェンの目には好ましく映った。
 …こういう真っ直ぐな気性の人間は、好きだ。多分、自分がそんな風に生きられないからかもしれない。
 ── などと考えていると、ルウェンの耳にとんでもない事が飛び込んできた。
「それより、ここに運ばれた東領の兵士殿の面会謝絶が取れたって聞いたんだけど……」
(── はあ!? 面会謝絶!?)
 ジニーの何気ない言葉に愕然となる。
(そんなの初耳だぞ、オイ!)
 思わず自らの身体をまじまじと見つめてみる。
 ぐるぐる巻きにされた胸や肩や腕に、そんなにもひどかったのか、と他人事のような感想を抱く。
 何しろ、今までこんなにもズタボロになったのは生まれて初めてなのだ。
 それと同時に、身元も怪しい自分の元に、何故フィルセル以外の人間が姿を見せなかったのかも理解する。『面会謝絶』の言葉で全て門前払いをされていたと…そういう事だ。
 フィルセルはジニーの言葉に、ちらりとルウェンの方へ視線を走らせると軽く肩を竦めた。
「見ての通りよ。医師様と施療師様の見立てじゃ、十日は満足に喋る事も出来ないって話だったのに、この間なんてここから抜け出そうとしてたんだから」
 呆れたような口調は、後になるにつれて笑いが混じる。
 …言いながら、例の『獣並みの回復力』という表現でも思い出したのだろう。そんなフィルセルに怪訝そうな顔をしながら、ジニーはそれじゃ、と室内に入ってきた。
「初めまして…体調はいかがですか? 話しても?」
「ああ…問題ない」
 それでも律儀に体調を気遣う言葉に、ルウェンも表情を改める。
 仕事意識だろうか、ジニーの表情から先程までのおどおどした感じが抜けていた。それを確認して頭の中を切り替える。
 フィルセルに対するようなものではなく── 一人の兵士としてのそれに。
「私はこの領館内の伝令を勤める、ジニー=ナイジェ=ベリルと申します。まずは、貴方のお名前を伺っても宜しいでしょうか」
 その質問におや、と思う。
 ちらりとフィルセルに目を向けると、彼女は済ました顔で部屋の隅に控えていた。どうやら彼の名をフィルセルは他には漏らさなかったらしい。
 何故かと考えてすぐに理由が思い当たった。
 ── 『面会謝絶』。
 おそらくそれが取り払われるまで、口にしてはならないと思ったのだろう。実際、意識を取り戻した直後に尋問されては敵わない。その心遣いにルウェンは感謝の念を抱いた。
「…ルウェン=アイル=バルザーク……東領では、皇子ソーロン様の騎士をしていた」
 そんな事を考えながら答えると、途端にジニーの顔に驚きが広がった。
 一体何事かと思い、様子を見ていると、ジニーはまじまじとルウェンの顔を見つめながら、彼自身はすっかり忘れていた呼び名を口にしたのだった。
「あなたが? あの── 『返り血のルウェン』……?」
「そうとも呼ばれていたな…そう言えば」
 何しろ、自分でその呼び名をつけた訳ではないし、しかもどちらかと言うとあまりいい意味の二つ名ではない。
 愛着も何もない呼び名だったが、この南の地にもその名が届いていたのかと思うと、何だか不思議な気がした。
 自分の事なのに、自分ではない別の存在のような、そんな違和感。
「…そう、だったんですか。あ、済みません。話が脱線してしまいましたね」
 生真面目に謝罪すると、ジニーは気を取り直したように彼に尋ねた。
「倒れる寸前に、御自分が言っていた事を覚えていらっしゃいますか?」
「…何?」
 倒れる寸前ともなると、記憶はかなり曖昧だ。
 だが、考え込む必要はなかった。彼の反応に覚えていないと判断したのか、ジニーがその問題の言葉を口にしたからだ。
「…『皇女ミルファに会わせろ』、そう言っていたそうですが」
「── ……」
 その時のルウェンの心境を言葉で表すならば、『うわ、やっちまった』が一番近いだろう。事実、彼は心の中で呻(うめ)いた。
 元々、礼儀やら敬語やらは得意ではないのだが、この南領において最も地位の高い人間である皇女に対して、その言い草が暴言以外の何物でもないのは彼にもわかった。
 よりにもよって、そんな事を言ってしまうとは。余裕もなく切羽詰っていたとは言え、無意識って怖いと実感したルウェンだった。
 確かに自分は皇女であるミルファに会う為に、はるばる南領まで来た。現在、唯一の狂帝に対抗出来る勢力を率いる彼女に会う為だけに。
 だが…これでは、皇女に会う以前に不敬罪で牢屋行きという事態になっても、なんらおかしくはない。自分のしでかした事に、目の前が暗くなったような気がした。
 …だが、彼のそんな心配は杞憂に終わった。
「皇女殿下は動けるようになり次第、話を聞くとの事です」
「…へ?」
 最悪の事態まで想像していたルウェンは、思わず間抜けな声をあげた。
「話を聞くって…つまり、それは、その……?」
「はい、お会いになられるそうです。ですから、十分に身体を休めて、一日でも早く回復なさって下さいね」
「── 本当に…?」
 にわかには信じられず、思わず確認を取るルウェンに、ジニーははっきりと言い切った。
「本当です」
「…そうか……」
 途端に肩から力が抜ける。どうやら皇女ミルファは、結構度量の大きな人物らしい。
 ── そう言えば皇子であったソーロンも、ルウェンのそうした所には寛大だった事を思い出し、母親こそ違ってもやはり兄妹なのだな、と変な所で納得した。
「わかった。一日でも早く動けるよう努力するとお伝えしてくれ」
 言いながらも、努力でどうにかなるものでもない事に気付いたが、ジニーはただ笑って頷いた。
「確かにお伝えします」
 そして一礼すると、ジニーはフィルセルに軽く会釈をしてから退室していった。
 その背が扉の向こうに消えるのを待ってから、フィルセルがルウェンの方へ歩み寄ってくると、再び椅子に腰掛けながら不思議そうな顔で彼に尋ねた。
「…もしかして、ルウェンさんってすごい人だったの?」
「もしかしてって、どういう意味だ」
 何となくばかにされているような気がして問い返すと、フィルセルはだって、と軽い口調で言い返す。
「あたしから見たら、年の割りに無茶をする人って認識しかなかったんですもん」
「…オイ」
「でも、ジニーが名前を聞いて驚く位だから、割と有名な人だったんだーって思って。名前が知られているって事は、かなりすご腕だったって事でしょう?」
 口調は軽いものの、感心している事は伝わってきて、ルウェンは苦笑いを浮かべた。
「…すごくなんかないぜ。買い被りだ」
 人を傷つけ、あるいは殺す事は、いい事でも誇れる事でもない。それでも、実際彼は東領でそれなりの戦果を上げた。
 そういう意味ではおそらく彼女の言う『すご腕』という表現は、あながち間違いではないかもしれないけれど。
(だって、俺は── 結局、守りたかったものを、守れなかったんだからな)
 だからすごいと言われても、素直に受け取れはしない。
 謙遜でもなんでもなく、自分がその言葉にふさわしくない事を知っているから──。

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