天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(4)

 ルウェンが動けるようになったのは、それから七日後── 彼が南領に辿り着いて、十日目の事だった。
 当然ながら完治した訳ではなく、『走らない・暴れない・興奮しない』の条件が付いた、仮初(かりそめ)の自由だ。
 普通なら一月はベッドと仲良くしていて不思議でない重症を負っていた身としては、有り得ない回復の早さである。
「皇女殿下を待たせ続けるのも、失礼ですしね」
 何度かしつこく許可を求めた結果、七日目にしてようやく看護人兼監視人のフィルセルは頷いてくれた。
 ため息混じり、明らかに渋々の許可だったが、こうしてルウェンは寝台に寝たきりの生活からひとまず解放された訳だ。
 …もっとも許可を下ろさないと、この重傷だという自覚のない怪我人が、『脱走』という強硬手段を取りかねないと考えた末の決断だったが。
 ルウェンにしてみれば、傷はまだ多少痛むものの、実際の怪我のひどさの度合いがわからないので、どうしてそこまで行動を制限されねばならないのか逆に尋ねたい位だった。
 何となく知らない方がいいような気がして── 得てして、傷の深さを自覚すると痛みというものは増すものだ── 聞かなかったが、結構ひどいらしいという認識はある。
 だからこそフィルセルが出した条件にも頷いたのだが──。
「東領の状況は、どの程度伝わっているんだ?」
 皇女と対面するに当たり、当然ながら適当な服装で会う訳にも行かず、その場凌(しの)ぎで用意された服を身に着けながら尋ねると、フィルセルはそれを手伝いながら、自身の知る所を教えてくれた。
「一般の民にはほとんど伝わっていません。領主側はジニーから聞いた話だと、ルウェンさんが東領から持って来た東の主神殿からの書状で、概要だけはわかっているらしいですけど」
 南領の女官が彼に用意してくれたのは、この領館に仕官する人々が身に着ける官服の一揃えだった。
 温暖な南領らしく、厚手に見えた生地は通気性がよく軽い。包帯が未だ取れていない彼でも、必要以上の負担をかけない仕立てだ。
「まだライエには来ていませんけど、随分と東から南へと流れて来る民が増えたみたいです。そちらから流れて来る噂話だと、東はかなりひどい状況みたいですね」
「…だろうな」
 まだ取れない左肩や胸、そして顔の右半分を覆う包帯からその元凶を思い出し、ルウェンは小さくため息をつく。
 あの夜以降、東領の魔物の出現率は一気に上昇した。
 東の領館を襲撃してきた時のような、集団での出現でない事だけが唯一の救いだが、満足な攻撃手段を持たない一般の民にしてみれば、脅威以外の何物でもない。
 ルウェン自身は幸運にも、南への道中にそれに遭遇する事はなかったが、行く先々でその手の話を耳にしない場所はなかった。
 北にも中央にも逃げ場のない東の民が、安全を求めてこの南の地へこぞって流れて来るのも、おそらく時間の問題だろう。
 幸い、南領は平野部こそ東領のそれとあまり変わらないが、大地は豊かで気候も安定している。多少難民が流れてきても、しばらくは持ちこたえられるに違いない。
(…だが、ずっととなると無理だ)
 東の民だけで済むならいいが、東の民が流れた後は、無法地帯となった東を経て、北や中央からも人が流れて来かねない。
 東領が安定していた頃ですら、その二つの地から流れて来る人は途切れる事がなかったのだから──。
 きっとその事は南領を預かる領主も、そこを拠点とする皇女ミルファもわかっているはず。…となれば。
(── 近い内に、皇女は行動を起こす)
 そう読んで、満身創痍の身体に鞭打ってここまで来た。
 ソーロンの訃報を一早く伝える事も確かに目的では会ったが、彼自身の目的は他にあった。その目的を果たす為に── 皇女ミルファとの面会を求めたのだ。
 …ただ一つ、自身が抱く望みの為に。
 その場凌ぎで用意された物ながら、黒い官服はルウェンの身体の大きさに丁度良かった。
 その着心地に満足していると、横で見ていたフィルセルもにこにこと笑って感想を口にする。
「ルウェンさん、すごく似合ってますよ!」
「…そうか?」
 褒められて悪い気がするはずもなく、ルウェンの顔にもつられたように笑みが浮かぶ。だが、その笑顔は次の一言で微妙なものへと変わった。
「はい。同じ服なのに、ジニーのとは違う服みたい!」
「── …そりゃどうも」
 何となく素直に喜んではいけない気がするのは何故だろうと、内心首を傾げつつ、それだけを口にした時、噂をすればで外から軽く扉を叩く音がした。
「ジニーです。ルウェンさん、準備は出来ましたか?」
 言いながら、今ではすっかり見慣れた赤い頭が顔を出す。
「おう。丁度、終わった所だ」
「…わあ……。ルウェンさん、よくお似合いです。背が高いと黒って映えますね」
 にっこり笑って言われた言葉はフィルセルと違い、純粋混じりっけなしの称賛の声だった。しかし、その顔はすぐに心配の滲んだものに変わる。
「でも、本当に大丈夫なんですか? 包帯だってまだ取れていないのに……」
「大丈夫だって。…何なら、今ここで誰かと試合……」
 をして見せたっていいぞ、と続くはずだった言葉は、ルウェンの口の中で中途半端に途切れた。
 何だか冷ややかな視線が刺さるのを感じたからだ。
「『走らない・暴れない・興奮しない』、でしたよね?」
 視線の方を見ると、フィルセルがにっこりと笑顔を湛(たた)えて例の条件を口にする。
 …顔は笑っているのに目は笑ってないという、実に器用な表情に、ルウェンの顔は心なしか青褪めた。
「あたしは有言実行ですから。そこの所はお忘れなく♪」
「…── はい」
 止めとばかりに言われた言葉に、ルウェンは『良い子のお返事』を返す。── どうやら、条件をつけるに辺り、彼を素直にさせるような何らかのやり取りがあったらしい。
 どちらが子供かわかったものではない二人の様子に、その辺りの事情を汲み取ったのか、ジニーは追求はせず、口元に苦笑を浮かべるに留めた。
「…それじゃあ、ルウェンさん。行きましょうか。皇女殿下がお待ちですし」
「あ、ああ」
 頷きながらも、ルウェンは気を取り直したように表情を改める。
 ── ここからが、正念場だ。
 ルウェンは気を引き締めると、少し心配そうなフィルセルに見送られて、ジニーの後について歩き始めた。

+ + +

 しばらく歩き、やがて辿り着いたのはありふれた扉が並ぶ一角だった。
 廊下には同じような木製の扉が並び、それはどう見ても個人の部屋の扉で、ルウェンは少々驚いた。
 会う相手は仮にも皇女だ。会談を持つにしても、会議室や広間みたいな場所で、身辺を守る警備兵や重臣などに囲まれての物になると思っていた。
 そう思えばこそ、必要以上に気を張っていたのだが── この様子だと、皇女ミルファは彼に個人的に会ってくれるという事なのだろうか。
 もしそうなら願ってもない事だが、同時に少々警戒が薄いような気がして、変な心許なさを感じてしまう。
「…なあ、ジニー」
「はい?」
 声をかけると、先を歩いていたジニーが何事かと足を止めて振り返る。
「どうかしましたか?」
「もしかして…皇女殿下の私室に向かってたりするか……?」
「え? ああ、そうですよ」
 半ば否定されるのを期待した言葉は、あっさりと肯定された。
「ミルファ様の御意向です。『個人的に話したい事があるのだろうからこちらに通しなさい』と…それが?」
「── ちょっと警戒心、薄くねえ? 身元もはっきりしない男と二人で会うなんて、危険だとか思わないのか?」
 ただでさえ、皇帝に命を狙われている身のはず。
 そうでなくても、年頃の女性が男と二人きりで会うなど、普通なら避けられる事だ。ルウェンの言わんとする所を理解したのか、ジニーの顔に納得した表情が浮かんだ。
「そういう事ですか。だったら心配はないですよ。…ミルファ様には、守り手がついていらっしゃいますから」
「守り手?」
 何の事だかよくわからず首を傾げるルウェンに、ジニーはそれ以上の詳細は語らず、ただ何処か誇らしげな笑みを浮かべるだけだった。
 そして再び歩き出しながら、後ろに続くルウェンに一言だけ付け加える。
「…一般には知られていない事ですけどね」
 その答えに、何か追求してはならない気がして、ルウェンはそのまま口を噤んだ。何処にでも『秘密』というものはあるものだ。
 下手につついて、これからの会談に差支えが出ても困るし、ジニーに迷惑がかかっても大変だ。
 そうこうする内に、一つの扉の前に辿り着く。他の部屋とは区別がつかないが、どうやらそこが目的の場所らしかった。
 ジニーがその扉を叩き、声をかける。
「失礼いたします。ルウェン殿をお連れいたしました」
 部屋の中から微かに入室を許す声がした。
(…── 皇女ミルファだ)
 一度も顔を見た事がないし、東領にいた頃は会う事もないままかもしれないと思っていた人物がこの扉の向こうにいる。
 あのソーロンと、少しは似ているのだろうか。
 …果たして、彼女は自分の願いを聞き届けてくれるだろうか。
 戦場ですら感じた事のない緊張が彼を支配した。無意識に拳を固め、そんな自分に気付いて苦笑する。
 そしてルウェンは、皇女ミルファと対面を果たすべく、扉の中へと足を踏み入れた。

+ + +

 ルウェンの皇女ミルファに抱いた第一印象は、『全然、殿下に似てないな』だった。
 窓辺に立つ姿は、思ったよりも小柄で、その姿に彼女がまだ十七歳の若さである事を思い出す。
 …彼よりも、七つは年下という事だ。フィルやジニーと大して変わらない。
 彼がかつて仕えていたソーロンは、栗色の髪に琥珀色の瞳という、どちらかというと明るい色彩の持ち主だったが、ミルファは長い黒髪といい、飾り気のない黒いドレスといい、それを引き立てる肌の白さといい、全体的に無機質で暗い色彩を有していた。
 唯一、宝石を思わせる淡い緑の瞳が色を有していたものの、そこにある光は何処か鋭く、硬い表情が一層彼女の冷たい印象を強めている。
 一般的な『美人』の範疇に十分納まる容姿ではあるが、人の温もりに乏しい気がした。…まるで、よく出来た作り物のように。
 せめて笑顔でも浮かべれば、その印象も大きく変わるように思われたが、言われるまでもなく『余計なお世話』だと彼もわかっていたので、心の中で思うに留めた。
「…あなたが、ルウェン=アイル=バルザークですか?」
 彼が部屋に入るのを確認してから、ミルファが声をかける。
 静かな声は、その落ち着いた口調とは裏腹に、強い存在感を伴って彼の元へと届いた。
 その一言で── ルウェンの意識が切り替わる。
 目の前にいるのは、ただの十七歳の少女ではない。一つの軍を束ね、多くの命を背に、日々戦っている人間だ。…かつて仕えていた、かの人と同じく。
 その場に跪(ひざまず)いて礼を取る。…自然と身体が動いた結果だった。
「ルウェンと申します。お目にかかれて光栄でございます。ミルファ皇女殿下」
「東領では兄に仕えていたとか。…兄の訃報を届けてくれた事を感謝します。…面を上げなさい」
 許しが出て顔を上げると、ミルファは真っ直ぐにその視線を彼に向けていた。
 心の奥底までも見透かすようなその目に、身が引き締まるような思いを抱く。
 正直な所を言えば、こうして会うまではミルファの事を『お姫様』だと思っていた。
 十七という年齢もあるだろう。
 東へ伝わる噂を耳にしては感心していたものの、間にいくつもの人が入った話だ。何処まで本当かわかったものではない。
 彼女の兄のソーロン程、過小評価はしていなかったが、実際には『お飾り』である可能性もある、と思っていた。
 だが、今、彼の目の前にいるのはそんな生易しい存在ではない。
 ── 人の上に立つべくして生まれた人間だけが持つ、人を圧倒する存在感。それをミルファは持っている。
「いろいろと聞きたい話はありますが、まずはあなたが私に会いたいと言った、その理由から聞きましょう。── 私に何の話があるのですか?」
 その声は何処までも穏やかなもの。だが、それは誤魔化しを許さない威圧感があった。
 会う事が決まってからどうやって話を切り出そうと考えていたルウェンだったが、その言葉に迷いは消えた。
 率直に思う事だけを口にする。
「皇女殿下にお願いがあって、この地へと参った次第です。どうぞ、お聞き届け下さい」
「…何です?」
 本音しか求めないその目に、ルウェンは覚悟を決めると、彼が南を目指したその目的を口にした。


「── …我が剣を、貴方様に預ける事をお許し頂きたいのです」

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