天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(5)

 ── 我が剣は我が命と同一のものにして、血潮の一滴すらも主の為に捧げるものなり
 ── 我が主の命なれば、その太刀となり、その盾となり、その鎧とならん

 …その誓いは命が尽きる時まで永遠のもの。
 剣の道に生きる者にとって、その剣を預けるという行為は命を預けると同義。
 同時にそれに足る主を得る事は、彼等にとって誇りであり、誉(ほま)れであり、喜びなのだ。


 ただし── その誓いが果たされれば、の話である。

+ + +

「…私に剣を預けるとは、どういう事です。あなたは兄に剣を預けたと聞き及んでいますが?」
 ミルファの静かな問いはもっともなものだった。
 通常、剣を預ける主は生涯に一人だけだ。すなわち── ルウェンにとっては、かつて剣を預けたソーロンだけが唯一の主となる。
 だが、そんな事は承知の上だ。それでも他に方法が思いつけなかった。
「確かに、私はソーロン様に剣を預けた身です。ですが…その誓いを果たす事は出来ないまま、私は主を失いました。…恥さらしなのは、承知の上でございます」
 剣の誓いを果たせずに主を失った騎士は、周囲に無能と謗(そし)られても甘受するしかない。時代が時代ならば、剣を剥奪されても文句の言えない事なのだ。
 その身で別の人間に剣を預けるという行為は、少なくとも褒められた事ではないのは事実だ。
 だが主を失った身が、再び主を求める事に制限はない。…ただし、その為には一つ乗り越えなければならない試練がある。
 その試練を果たすに、何としてもルウェンはミルファに取り立てて貰う必要があった。
 その為だけに── ここまで来た。
「…兄は魔物に殺されたのではなかったのですか?」
 ルウェンの言わんとする所を理解したのか、ミルファが眉を顰める。
 彼が東の主神殿から預かった書状には、兄が魔物に襲われて果てた事、東の地を襲った異変の詳細、そして東の地を統括する人間がおらず、状況を伝える事が満足に出来ない事などが認(したた)められていた。
「あなたの剣を受けるとすれば── その前にあなたは、兄の命を奪った者を討たねばならないはずです」
 ── 剣の主を失った騎士が、再び主を求める為に必要な試練。それは、元々の主の命を奪った者を自らの手で討つ事だった。
 そうする事で主を守れなかった恥辱を雪(そそ)ぐ。そうして晴れて新たな主へと剣を捧げる事が許されるのだ。
 …だが、それは相手が人であった場合の事だ。
 魔物が相手であったからこそ、ルウェンは剣の主を守れずとも、批判を受ける事はなかった。
 魔物の襲撃は人々に一種の天災のように捉えられている。
 それに歯が立たず、結果として主を失ったとしても、大部分の人間が『仕方がない』と受け入てくれる。
 …だが。
「── 殿下のお命を奪ったのは、魔物ではありません」
 あの夜、東領で起こった悪夢のような出来事── その、終焉。
 魔物もろとも三階の高さから落ちた彼は、死すら覚悟していた。実際、落ちた瞬間の衝撃は激しく、意識を手放した時には、もう二度と朝日は拝めないだろうと思っていたのだ。
 だが…彼は生き延びた。
 目を覚ますとそこは崩壊した東の領館の一室で、主神殿からやって来たと思われる神官によって、応急処置を受けている最中だった。
 …そして、その神官からソーロンが死んだ事を聞かされたのだ。
「書状にあったと思いますが…殿下の御遺体は損傷が激しく、魔物によって殺害された事になっています。ですが御遺体を整える際、不審な事がわかりました」
「不審…?」
「はい。書状ではまだ確証の得られていない事で、徒に混乱を齎(もたら)してはならぬと伏せてありますが── 殿下の直接の死因は、魔物に重傷を負わされた為ではないのではないかと」
「どういう事です」
 にわかに緊張が走る。
 今まで無表情に近かったミルファの顔に、初めて動揺が浮かんだ。
「魔物に襲われる前に、すでに命を奪われていたとでも?」
「それはわかりません。絶命なされてから襲われたのか、襲われている最中に手を下されたのか── わかっている事は、魔物に襲われたのにその身に抗った形跡がない事と、身体に傷をつける事なく…その心臓が潰されていたという事だけです」
「な…── 」
 予想を超えた言葉に、ミルファの顔が青褪める。
 そんな事が出来るなど、とてもではないが人の技とは考えられない。
 だが、この場でルウェンが偽りを口にする必要はなく、ミルファはその顔から再び意志の力で動揺を消し去ると、自分を見上げる目に問いかける。
「では、何者がそれを行ったと?」
「東の主神殿の見識では、呪術の類である可能性が高いと」
「…呪術……?」
「はい。東の主神殿にはほとんど記録が残っていませんでしたが、呪術には身体を傷つける事なく人の命を奪える術が存在していたそうです。…つまり」
「── 兄は、呪術師に殺された?」
「…はい。呪術には詳しくはございませんが、彼等の使う術に身体の自由を奪う術があるのは広く知られた事です。…殿下は呪術師に身動きを封じられ、命を奪われた。魔物のつけた傷は、むしろそれを隠す為のものではないのかと、そう思うのです」
 ルウェンの言葉に、ミルファは考え込むような顔を見せた。
 場合によっては妄想だと一蹴されても不思議ではないと思っていたのだが、ミルファはルウェンの意見を受け入れているようだった。
 …まるで、そうした術に心当たりでもあるかのような。
 少々意外に思ったが、その理由を尋ねる前にミルファが口を開く。
「それで…ルウェン、あなたは…その呪術師を討つと言うのですか」
「…はい。見つけ出すのは容易ではないかもしれませんが」
 東領では単身魔物を倒した身だが、相手が呪術師となると、魔物以上に不利なのはわかっていた。
 それでも──。
「…俺は、殿下の仇を討ちたい」
 やがてその口から漏れたのは、騎士としての建前も何もかも取っ払った、混じり気のない彼自身の本音だった。
「あの人は、俺にとっては恩人だった。あんな所で…あんな風に、死んでいい人じゃなかった。だから俺は…殿下を殺した奴を見つけて、この手で討つと誓った。それが、剣の誓いを守れなかった俺が、あの人に唯一出来る償いだ……!!」
 押し殺した声で紡がれたそれを、ミルファは驚いた顔で受け止めた。やがてその驚きは、静かな決意へと変わる。
「…ルウェン」
「── はい」
「あなたの真の願いは、それですか?」
 ミルファに剣を預ける事は、実際には建前。
 ただ、仇を討つ目的の為に剣を預けると言い出したのか── と。
 その問いを、ルウェンはすぐに否定する事は出来なかった。確かに、ミルファに直接会うまではそう思っていたが故に。
 ソーロンの仇を討つには、その仇に近付く手段が必要だった。
 わかっているのは、わざわざソーロンの命を狙ったという事から、相手が皇帝側の人間であるという事だけ。
 しかも、人智を超えた術を使うとなると、帝軍の中枢に近い人間である可能性も高い。
 …そうなると一人の力では仇を討つなどほぼ不可能に近かった。だから、南を目指した。
 南の反乱軍に加われば、帝都へ入るのも不可能ではない。そんな打算は確かにあった。…けれど。
「否定はしません。ですが…皇女殿下。貴方様にお会いして、考えが変わりました」
 もし、ミルファが彼が予想していたような『お姫様』だったなら、利用する事に呵責(かしゃく)の念など欠片も抱かなかっただろう。
 だが、ミルファは『皇女』だった。次代を担う、『皇帝』になるにふさわしい器を持っている人間だ。
 かつて剣を捧げた人が果たす事の出来なかった事を、彼女ならば継ぐ事が出来ると思った。そう思わせる何かを、持っていると感じられた。
 だからこそ。
「仇を討った暁には…剣を預けたいと心から願っております。それまではこの南の軍の一兵卒で構いません。お仕えする事をお許し下さい」
 そして再び礼を取る。
 話は終わった。これで全部だ。後は── ミルファの決断を待つのみ。
 しばしの沈黙。
 それは随分と長く感じられたが、おそらくはそう大して時間は経っていなかっただろう。
 やがてミルファは、静かに口を開いた。
「…わかりました」
「……!」
 思わず弾かれたように顔を上げると、ミルファは先程よりは穏やかな表情を浮かべていた。
 やはりそれは笑顔ではなかったが、それでも纏う空気は柔らかいものへと変わっている。
「もし、建前で真の願いを誤魔化したり、ただ取り立ててもらう事だけを願う人間ならば、私も願いを聞き届ける事を躊躇ったでしょう。…けれど、あなたは自分の心を偽らなかった」
「…では……?」
「私で主が務まるのなら、あなたの剣を預かりましょう。ですが…あなたを取り立てる事は、私個人の意見だけで決める訳にも行きません。しばらく時間を貰いたく思いますが、構いませんか?」
「…はい。── ありがとうございます……!」
「話が決まり次第、連絡を寄越します。それまでは身体を大事になさい。…まだ、傷が癒えてないのでしょう?」
 案じる言葉に、ルウェンはミルファに対する認識を改めた。
 一見した所、整った外見も手伝って冷酷にも見える。けれどもそれは見掛けだけのようだ、と。
 …他人を気遣う事を知っている人間なのだ、と。
 ルウェンはもう一度礼を取り、立ち上がった。やはりミルファは彼よりずっと小柄で華奢だ。
 けれどもその肩には、あまりにも大きな物を背負っている。ソーロンの死によって、その荷は更に重みを増したはずだ。
(…笑う余裕がないのも、仕方がないのかもな)
 全てを一人で背負って、どんなに辛くても弱音を吐かずに自分の中に抱え込む、そんな印象をルウェンは抱いた。
「お気遣いありがとうございます。それではこれにて……」
 扉に向かい、部屋を出る。
 一礼して扉を閉じる時、窓辺に立つミルファの姿に彼は孤独を感じた。
 世界にただ一人きりで立つような、そんな孤独を感じたのだった──。

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