天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(6)

 ルウェンが退出して行くのを見届けると、ミルファはしばし考えに沈んだ。
(兄上は、良い部下に恵まれた……)
 彼はソーロンの事を『恩人』と表したが、今時そこまで忠義を貫く人間も珍しい。
 当然、ソーロンとルウェンの間でどんな出来事があったのかまではわからないが、最後の間際まで、兄は心強くあれただろうとミルファは思った。
 ルウェン=アイル=バルザーク── 彼は信頼に値する人間だと思えた。
 だがルウェンにも言ったように、彼を自ら取り立てるとなるとそう簡単な話ではない。
 今までミルファは個人的に兵士を取り立てた事はなく、側近くに仕える者も自ら選んだ事はないのだ。
 …ただ、一人を除いて。
(……)
 そのただ一人の例外を思い浮かべ、兄と自分の違いを思う。
 兄は心を許せる者が側にいた。だが…自分はどうだろう。
 彼── ザルームの事は信頼している。それは確かな事だ。
 強大な呪術、それによって一体何度危機を回避して来れたか。…けれど、心を許しているかと問われれば、頷く事は出来ない。
 否、許す事を恐れていると言ってもいい。
 素性がわからないというのも理由の一つだろう。何処の誰かもわからない、強大な力を持つ呪術師。
 彼程の力があれば、末子である自分以外の者についても…それこそ、あの時はソーロンが健在だったのだから、その補佐となっていれば、おそらく事態はもっと変わっていたに違いない。
 何故そうせずに、あの時点で最も力のなかった自分を選んだのか。
 ── 彼が自分を選らばなければ、今こうして自分が生きているとは思えないけれども。
 何故自分を助けたのかと、過去に何度か尋ねた事はある。そんな時…彼はいつも──。

『…理由が必要ですか?』

 ただ、それだけを問い返す。
 ミルファを選び助力する、その具体的な理由がなければ、仕える事は許されないかと──。
 元々明るさに乏しい声だが、その言葉はひどく苦しげで── 結局、いつも追及出来ずに終わるのだ。
 下手に触れたら何か取り返しのつかない事になってしまいそうな、そんな気がして。その手が失われる事が怖くて。
 …何てわがままなのだろうと思う。
 心を許す事が出来ないくせに、彼が側からいなくなる事を怖れるなんて。
 彼は過去に何度も自分の危機を救い、見返りを求めずに尽くしてくれているのに──。
「…ザルーム」
 他に誰もいない部屋の中、ミルファはぽつりとその名を呼んだ。その小さな小さな声を聞き逃さず、彼は彼女の前に姿を見せる。
「── こちらに」
 まるで最初からそこにいたように、ふっと壁際で気配が生まれたかと思うと声が返る。今ではすっかり耳に馴染んだ、暗い声。
 声の方に目を向けると、ミルファは見慣れたローブ姿に問いかける。
「大体のやり取りは聞いていたか?」
「はい」
 ザルームは頷き、手を胸に当てて礼を取る。
 ルウェンの名はミルファも聞き及んでいたが、今まで直接会った事がない。
 仮にその名を語った皇帝の刺客であった場合の事を考え、あらかじめザルームに隣室に控えるように指示していたのだ。
 見張りと同時に、その話の整合性を確かめる為に。
 だが、その確認よりも先に尋ねる事がミルファにはあった。
「一つ聞きたい…兄を殺したという呪術だが── それは、あの時…お前が魔物に使ったものと同じようなものか」
 対象の身体を傷つける事なく、心臓を潰す── その事を聞いた時、ミルファが思い出したのは、この南領へと向かう道中で魔物に遭遇した際、ザルームが自分を救う為に使った術の事だった。
 首を切り離す事なく、心臓を抉(えぐ)り出す事もなく── 音を立てて倒れ、魔物は絶命した。本来ならば有り得ない死に方だ。
 一体どうやったのかと尋ねた自分へ、今も目の前にいるこの呪術師はこう答えたのだ。

『…心臓を、燃やしたのです』

 思えば、それが初めてミルファの前で、ザルームが何かの命を奪った瞬間だった。
 それまでは刺客が襲ってきても、その身体の自由を奪ったり、利き手を傷つける事で武器を封じたりする程度で、その命を奪う事はなかったのだ。
 ミルファの質問に、ザルームはしばらく考え込むように沈黙する。そうした術があるのか、思い出しているようにも見える素振りだった。
 やがてザルームは口を開くと、おそらくと肯定した。
「…呪術ではなく、『呪法』と呼ばれる禁呪の一つにそのようなものがございます」
「呪…法?」
「命を奪う事を目的としたものを、呪術とは別にそう呼ぶのです。現在では、そうしたものがあった、と言い伝えられる程度のものですが……」
「つまり…誰にでも出来る事ではないという事だな?」
「…はい」
 答える声は淡々と事実を口にしているといった感じながらも、その響きは何処か苦い。── それは続くミルファの追求を予測してのものだったのか。
「お前はそれが出来るか?」
「……」
 ザルームは僅かにその肩を震わせた。動揺か、それとも別の何かか── しかし、彼ははっきりと言い切った。
「はい」
「…──」
 その答えは予測していたものの、実際に肯定され、思った以上の衝撃を受ける自分に、ミルファは自分で驚いた。
 『出来ない』と言われたら安心したか、と問われれば返答に困る。だが、彼がその呪術── 呪法を使えると認めた事は、更にミルファの心を追い詰めるだけだった。
 …ルウェンの話を聞いて、一瞬『もしや』と思ったのだ。
 そんな神殿の記録にも残っていない呪術を使用出来る存在が、そういるはずもない。
 そして兄の死を知ったのは、ルウェンから訃報を届けられるよりも先、この目の前にいる呪術師から齎(もたら)された知らせから。

 ── モシヤ、ざるーむガアニウエヲ……?

 その疑惑は、ミルファの心へ鋭い棘となって突き刺さった。
 もちろん、すぐにそんな必要が何処にもないと自分に言い聞かせた。ザルームがソーロンの命を奪ったとして、何の利益がある、と。
 だが…もし、ザルームが皇帝の手の者だったとしたら。
 今までの彼の行動は何もかも逆転してしまう。
 今まで自分の危機を救ってくれたのは、いつかこの命を奪う為の演技だったという事になる。なって、しまう──。
 …ミルファは一度、静かに深呼吸した。
 落ち着かなければと自分に言い聞かせ、未だ自分の前で礼を取るザルームに目を向ける。そして。
「…そうか」
 そのまま、生まれた棘を飲み込む。
 放置すればいつか、取り返しのつかない傷になる可能性になる事はわかっていた。それでもミルファはそうする事しか出来なかった。
 たとえそれが偽りだったとしても、まだ心は信じたがっているから。
「…ルウェンの事だが、重臣達をうまく説得する良い知恵はないか?」
 さりげなく話題を変えたつもりだったが、声が僅かに硬くなるのはどうしようもなかった。
 そんなミルファの動揺を、ザルームは見て見ぬ振りをする。
 自身に疑いを持たれた事を、今のやり取りで気づいただろうに──。
 そんな彼に微かな苛立ちを抱きながらも、同時に真実を追究出来ない自分の狡(ずる)さに嫌悪を抱く。
 …何故、信じる事が出来ないのだろう。
 いつからこんなに、人を信じる事を恐れるようになったのだろう。
 昔は…── こんな事になる前は、もっと簡単に人に心を預けられたように思うのに──。

『…見損ないました』
『見損なう?』
『あなたに…「皇帝」を名乗る資格などございません……!』

 一瞬、思考が何かに囚われていた。
 夜の闇── 月が、赤く染まっていて。そこに響く、男女の静かな言い争い。
 あの声には覚えがある。確か──。
「……っ」
 だが、あと僅かで思い出せそうだと思った瞬間、強烈な恐怖を感じてミルファは我に返った。その瞬間、悪夢のような白昼夢は霧散する。
「…ミルファ様?」
 ミルファの様子に心配そうな声がかかり、ミルファはすぐさま平静を装う。しかしその顔は蒼白で、今にも倒れそうに見える痛々しいものだった。
「何でもない……。そう、ルウェンの件だ」
「我が君…顔色が優れません。ご気分が悪いのなら……」
「大事ない」
 ザルームの気遣う声を一言で跳ねつけ、ミルファは何事もなかったかのように言葉を続ける。
「伯父上達は反対なさらないだろうが、重臣達は簡単には頷かないだろう。この南領まで名が知られてはいても、実際の実績を知る訳ではない。だが、彼は一般兵士として取り立てるには、惜しい人材だと私は思う」
「……」
「ザルーム…何か、良い考えはないか?」
 疑いの棘を胸に良策を問うのは、ミルファの精一杯の努力の現われだった。現時点では灰色の彼を、側に置き続けるという意思表示だった。少なくとも…今は。
 そのミルファの問いを受け止めて、ザルームはしばし沈黙した後、静かに口を開いた。
「では…その実績を作れば宜しいかと」
「実績を作る……」
「はい。ルウェン殿も現在は負傷中の身…今すぐとは申せませんが、取り立てる明確な理由が今なければ、これから作って見せれば良い事かと。実際の働きを目の当たりにすれば、重臣方も納得する事でしょう。…ルウェン殿ならば、その位の事はやってのけると思われますが」

+ + +

 自由を手に入れたはずながらも、結局運動厳禁の処置を取られて暇を持て余すルウェンの元へ、ミルファからの召喚がかかったのは、それから三日後の事だった。
 呼ばれるままに向かった会議室。
 現・南領主を筆頭に、何処か不審そうに彼を見る重臣達がずらりと並ぶ中、その中心にいたミルファは、跪(ひざまず)き礼を取る彼へと声をかけた。
「…ルウェン=アイル=バルザーク」
「はっ」
 まだ正式な騎士ではない彼を、あえて『兵士』とは呼ばずにミルファは命じた。
「そなたに命じる…現在、膠着(こうちゃく)状態にある貿易都市セイリェンを、帝軍より完全奪還せよ」
 …それは一人の兵士に命じるには、あまりにも規模の大きな命令だった。
 本来ならば指揮官に相当する人間が拝命すべきもの。それこそその場にいる重臣などから無茶な、と反論が返る場面だ。
 だが、彼等も何も言わずにルウェンの反応を見守っていた。それはすなわち、ミルファの命令についてはすでに彼等の中で何らかの決着が着いているということ。
 ── ここで受けるか、否か。そこからもうすでに、彼の未来を左右する選択が始まっている。
 その事を理解し、やがて顔を伏せた彼の口元に、にやりと笑みが浮かぶ。
(…面白いじゃねえか)
 決して容易な事ではない。むしろ困難な事だ。だが、それは今まで眠っていた彼の闘志を甦らせた。
「…謹んで拝命いたします」
 そう答え、顔を上げたルウェンは、そこに満足そうな笑みを浮かべるミルファを見つけた。
 それは心からの笑顔ではなかったが── 無表情よりは余程いい、と彼は思った。

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