天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(7)

 セイリェンを帝軍より完全奪還せよ──。

 ミルファの命を受け、南領を預かる南領主の館はたちまち慌しい雰囲気に包まれた。
 東の異変の直前に兵を派遣したものの、セイリェンは今なお、帝軍と睨み合いを続ける緊張状態にある。
 南領と帝都の境を流れるシェリス河は、間もなく乾季を迎え減水期に入る。
 元々豊かな水量を誇る河で、渡るには船を使用するのが普通だが、その期間は泳いで渡れる程に流れも弱まり、河を渡る事が今まで以上に容易になる。
 ── それは、この南から帝都へ入る事が容易になると同時に、相手もこちらへと侵入しやすくなるということ。
 帝軍が今も表立って大きな動きをせずにいるのは、それを待っているからではないかというのが、南側の大部分の意見だった。
 流れが弱まるのを待ち、一気に主力部隊を投入してくるのではないか、と。
 何しろ、今は皇帝に歯向かうのはこの南だけ。
 北は滅びの一途を辿り、東は混乱の只中にある。西はかろうじて平穏を保っているが、その平穏を守る為に、自ら攻撃に出る事はない。
 …彼等が叩くべき場所は、一箇所だけなのだ。
 だが、だからと言って簡単に潰(つぶ)れる訳には行かない。
 その為にも、セイリェンを奪還する事は、今後の戦略的にも非常に重要な鍵を握っていた──。

+ + +

 ミルファに召喚され、奪還命令を受けてから更に十日あまり。
 ルウェンが南領に来て、まもなく一月になろうとする頃、ようやく彼は全身をぐるぐる巻きにされていた包帯の一部から解放されていた。
「はい、ゆっくり目を開いてみて下さい」
 顔の右半分を覆っていた包帯が外され、ルウェンは言われた通りにゆっくりと右目を開いた。
「…見えます?」
 心配そうに覗き込むフィルセルの顔を見つめ、数度瞬きしてみる。まだ傷が引きつるが、その顔ははっきりと見る事が出来た。
「大丈夫だ。ちゃんと見える」
「良かったあ…!」
 ほっと、まるで自分の事のように胸を撫で下ろし、フィルセルはまだ手に握っていた包帯をくるくると巻き始めた。
 そうしながら、にこにこと笑ってルウェンに話しかけてくる。
「戦ってなんぼの兵士様には、片目が見えないってかなり不利ですもんね。結構、傷が深かったからどうだろうって思ってたんですよ」
「…戦ってなんぼってな……」
 流石にもう、フィルセルの悪意があるのかないのかわからない物言いには慣れたものの、そんな身も蓋もなく言われると立場がない。
 思わず憮然となるルウェンを気にした様子もなく、フィルセルは明るく言い放ってくれる。
「もし、最悪…失明なんて事になってたら、本当にどう慰めたらいいんだろうって、昨日一晩、夢の中で考えていたんですから!」
「それって思いっきり寝てたと言わないか?」
「寝ますよ、そりゃ。いくらあたしが若くても、身体が資本ですもの」
「…オイ」
「それにしても、ルウェンさんって本当にすごかったんですねー。ミルファ様から直接命を賜ったんでしょう?」
 何か言いたげなルウェンを無視して、ころっとフィルセルは話題を変える。
「セイリェンを奪還せよ、なんて…すごく大変そう。そりゃあ、他にも兵士様が行軍するんでしょうけど──」
 フィルセルの言葉に、ルウェンはふう、と疲れたため息を一つつくと、胸の中に渦巻く文句を追い出し、気持ちを切り替えた。
「大変に決まってるだろう。相手だってばかじゃないからな」
 今回の奪還戦には、ルウェンの他にも兵士が派遣される事が決まっていた。現在駐留している友軍と合流後、しかるべき指揮官の下で動く事が決まっている。
 …彼等の役目は、セイリェンの民の安全を確保すること。
 皇女ミルファは帝軍からセイリェンを取り戻すだけではなく、そこに住む民の命も守るように指示したのだ。
「結局、ルウェンさんは南領の兵士の一員になるんですか?」
「いや…今回はどちらかというと傭兵だな」
「傭兵?」
 聞きなれない言葉だったのか、フィルセルが首を傾げて反芻する。
 平和な時代が長く続いたこの世界において、その名詞はそう頻繁に耳にする言葉でもなく、ルウェンは簡単に補足した。
「皇女ミルファに個人的に雇われた剣士、という扱いだ。つまり、俺は単独行動を許されるし、南の指揮官の指示に従う必要もないって訳だな」
 それは同時に、彼が最悪野垂れ死んでも、南側は責任を持たないという事でもある。…そういう条件だったからこそ、重臣達はミルファの言葉に異を唱えなかった訳だ。
(…ま、俺としてはそっちの方が好きにやれるから気楽だがな)
 つい最近まで、身体を軽く動かす事も満足に許されなかった身である。この南領にはまだ馴染みも薄い。
 一つの指示の下で集団で戦う場合、必要なのはお互いの認識と信頼だ。
 今の状況では、下手をすれば敵と間違われて味方に攻撃されかねない。かと言って、認識を広げるにはあまりにも時間がなさすぎる。
 今は何よりもまず人と親睦を深めるよりも、この一月で鈍ってしまった身体を何とかする事が大事だ。
 …そんな事を考えていると、まるでその考えを読んだようにフィルセルがしっかりと釘を刺した。
「包帯が取れたからって、いきなり激しい運動なんてしたら駄目ですからね」
「…激しいって……。ちなみに、どの程度までなら許されるんだ?」
「そうですね…取り合えず、剣を握って振り回すとかはまず駄目です」
「何ィッ!?」
 しっかり素振りするつもりでいたルウェンは、その言葉に絶句した。そんな彼を尻目に、フィルセルは指折り禁止事項を口にする。
「更に全力疾走なんかも駄目です。重いものを抱えて動くとかもやめた方がいいですね。それから──」
「…待て。それじゃ何も出来ないだろう!?」
 青褪めながらその言葉を遮ると、白衣の天使の姿をした悪魔はにっこりと笑った。
「大丈夫。その辺りをのんびり散歩くらいなら問題なしですから!」

+ + +

「で、結局散歩をする事にした訳ですか」
 並んで廊下を歩きながら、事と次第を聴いたジニーはぷ、と小さく吹き出した。
「── お前、あの笑顔のフィルに逆らえるか?」
 対するルウェンは、明らかに不本意そうながらも、ジニーの言葉を肯定する。余程、寝台と仲良くなっている間に恐ろしい目に遭ったらしい。
「それにまだ、この南の領館の中もろくに歩いてなかったしな」
 不承不承と言わんばかりの言い訳に、こみ上げる笑いを噛み殺しながら、ジニーはふと目についたように視線をルウェンの右目に向けた。
「…傷、残ったんですね」
「これか」
 言いながら右手の指で、右目から頬にかけて走る赤黒い傷をなぞる。
 深く肉を抉ったそれは、最初に治療を受けた東の主神殿でも、傷が確実に残ると言われていた。最悪── 失明しているかも、とも。
 失明を免れた今、傷跡に関しては別に嫁に行く訳でもないから、と本人は深刻に受け止めていなかったが、第三者から見ると随分と痛々しく見えた。
「魔物に、やられたって言ってましたよね……」
 まるで自分が傷付いたような、痛そうな顔をされ、ルウェンは苦笑する。
 フィルセルとは反応がまったく逆で笑える。フィルセルなど、『傷は「男の勲章」って言いますものね』の一言であっさり流されたというのに。
「箔がついただろ?」
 その時のやり取りを思い出して軽くそう言い放つと、ジニーは驚いたように目を丸くし、やがて再び笑顔を取り戻した。
「ええ、いかにも百戦錬磨の戦士です」
「だよな? フィルは何て言ったと思う? 『これくらいの傷、あってもなくても変わりませんよ♪』だぞ。慰めているんだか、貶(けな)しているんだか…」
「フィルはルウェンさんの事を、まだ普通の兵士のようにしか受け止めていないですからね。…その内、その認識も変わるんじゃないですか?」
 くす、と意味ありげに笑ってジニーは言うと、こっちにいいですか? と建物の奥へと続く廊下を示した。
「運動禁止の頃と大して変わらない状況ですけど、あと十日もしたら進軍しますからね。…フィルには内緒ですよ?」
「…おう?」
 ジニーにしては珍しい、何か企むような笑顔に首を傾げながらその後に続くと、やがて警備兵に守られた一室へと辿り着いた。
 いかにも頑丈そうな鉄製の扉が物々しい。
「ここは?」
「まだ秘密です。あ、ちょっと待っていてくださいね」
 言い残すと、ジニーは扉を守る兵士に歩み寄り、懐から許可証のような紙片を取り出して示した。
 それを検分した警備兵は確認すると頷き、次に離れた場所で所在なさげに立ち尽くすルウェンに顔を向けると、好意的な表情で一礼した。
 その態度に驚き、慌てて居住まいを正すルウェンの元に戻ると、ジニーはじゃ行きますかと彼を促す。
「中に入っていいのか?」
 何となく不安になって尋ねると、ジニーは笑顔で頷いた。
「本来は南領に仕官した者でないと入れないんですけど、特別です」
 相変わらず目的を語らないジニーに、何なんだ、と思わずにはいられなかったが、楽しげな様子から悪い事でもないだろうと判断し、その後に続いて鉄扉の中へと足を踏み入れる。
 その瞬間、彼はそこがどういう場所なのかを本能的に理解した。
「…なるほど、確かにフィルには秘密、だな」
 地下へと伸びる階段を降りながらぽつりと呟くと、先を降りていたジニーが振り返って悪戯っぽい笑みを見せる。
 乾燥した空気に混じるのは、金属特有の匂いと皮の匂い。
 しかして彼の予想が正しかった事が、階段の終焉で判明する。
「今から馴染ませるには時間がなさすぎるかもしれませんが。お好きなものを、と── ミルファ様からのお言葉です」
 彼等の目の前にあるのは、大中小さまざまな武器の山だった。
 どれも未使用なのは明らかで、薄暗い中、鞘に収められていない小型のナイフが鋭利な光を放っている。
「剣のない剣士なんて、様にならないでしょう?」
「まったくだ」
 ぶっきら棒に言いながらも、ルウェンの顔は喜びを隠せないものになっている。ぐるりと一通り眺めると、その足は剣が立てかけられた一角へと向かう。
 その前でしばし思案し、やがて彼が手に取ったのはそれまで愛用していた切れ味重視の剣ではなく、切れ味は二の次の頑丈な両刃の大剣だった。
 切り裂くというよりは、叩き切る事を重点に置いたそれは、当然ながら相当の重量がある。それらを一つ一つ、鞘から抜いては軽く振ってみる。
 まだ包帯が取れていない左肩の傷と胸に響いたが、気にしない。…否、気にもならなかった。
 ジニーはそんな彼の様子を、黙って見守っていた。彼から見ても、ルウェンが集中している事がわかったからだ。
 やがてその中から一つを選ぶと、ルウェンは鞘から抜き払ったままジニーに目を向けた。
「こいつを貰っていいか?」
 その表情と言えば、まるで新しい玩具を手にした子供のように無邪気で── だが、同時に物騒な空気をも有していた。
(── ザルーム様の言われた通り、この人は剣を持って初めて本当の自分になる)
 その表情に、ルウェンを武器庫へ案内するよう指示した呪術師の言葉を思い返す。
『…今の彼は、本来の姿ではないからね……』
 ミルファの名で指示は出されているが、実際に采配を振るったのはこの南の領館でも一部しか知られていない人物。
 彼の名を口に出来ない事を残念に思いながらも、ジニーはルウェンに頷いた。
「それは仮の鞘ですから、すぐにちゃんとしたものを作らせます。…明後日には出来るかと」
「そうか。…皇女ミルファに礼を言っておいてくれ。この恩は…戦場できっちり返すと」
 言いながら手にした剣の感触を確かめる。
 少々、手に馴染ませるには時間が足りないが── 一番、重さも使い勝手も良いものを選んだ。
 後は実際に使用するまでに、何とか折り合いをつけるだけだ。
(…よろしく頼むぜ、『相棒』)
 剣は彼の気持ちに応えるように、澄んだ光をその刃に浮かべた。

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