──
どうしてこの子は聖晶なんて持って生まれてきたのかしら……
疲れたような女の声。
覚えている。これは母親の声だ。
── わたしの初めての子なのに…あんまりだわ……!
── お声が大きゅうございます、アーチェ様。お静まり下さいませ。聖晶を持つなど、滅多にない事でございます。非常にありがたい事ではございませんか…!
── ありがたいですって…!? とんでもないわ、あの子は…ティレーマは恐れ多くも皇帝陛下の血を継ぐ皇女なのよ!?
記憶に残っているのは、いつも嘆き悲しむ声ばかり。
顔を合わせる度に、母は泣いた。子供のように。
後に双子の弟と妹が生まれてからは、多少は落ち着きを取り戻したようだったが、それでも一度として心からの笑顔を向けられた事はなかった。
…最後の、最後まで。
── ティレーマ。お前はわたしの娘──
陛下の血を引く皇女よ。遠く離れてしまっても、もう二度と会えなくなっても、それは変わらないわ。その事を忘れては駄目よ?
泣きながら抱き締められて。
…『はい』と答える以外、何が言えただろう。
泣かないでと言えば、なんて優しい子だろうと余計に涙が増えたし、悲しまないでと言えば、子を手放す親がどうして悲しまずにいられるだろうと嘆きは深まる。
だから、ただ頷いた。
── 純粋な人だったのだと、今なら思う。
西領でも裕福な商家の出で、その美貌により西領妃に推挙された母は、民の出であっても世間知らずだったに違いない。
けれどその頃は、そんな母の姿を見るのが苦痛でしかなかった。泣かれる度に、胸を罪悪感が焼いたから。
…わたくしは、お母さまを悲しませる為に生まれたの……?
八歳の頃までいた大神殿で、聖晶を持って生まれたのはラーマナの教えを残す為であり、目に見えない恩恵を人々に伝える役目を与えられたからだと教えられた。
だからこそ、人より学び努力しなさい。それだけの事をして初めて、人に教えを説く事が出来るのだ、と。
聖晶を持つ事により、人々に特別に敬われるけれども、それに甘えてはならない。
その敬意に応え、なおかつ彼等の助けとなれる人間になりなさい──
人に喜ばれる、人間に。
…けれど自分は、実の母親すら悲しませる事しか出来なかった。聖晶を持つ事で嘆かれてしまったら、一体どうしたら良いのだろう?
母親以外の身近な者は滅多にない事だ、ありがたい事だと喜んでいる者が大多数だった。
その事が、また母の悲しみを深くする。
だから西の主神殿に入る事が決まった時、心の中でほっとしたのだ。もう、母の泣く姿を見なくて済むようになると。
薄情だと言われても仕方がない。けれどそれが本音だった。──
本当はいつだって、不安と淋しさで一杯だったから。
西へと旅立つ時は、恐怖さえ感じていた。
見習い神官としてはそれなりに経験を積んでいると言えても、所詮は八歳の子供だ。
付き添い役がつくとしても、身近な人々と別れ、これから何月もかけて旅をする事を楽しめる年でもなかった。
…一言でいい、『大丈夫』だと言って欲しかった。これから歩む道は、決して間違いではないのだと──
他の人達のように、せめて誇ってくれたなら。
けれど、母は最後まで泣いていた。何故手放さなければならないと嘆いた。
見送りには父である皇帝と、その皇妃に皇子皇女と全ての血縁者が揃っていたけれど、自ずとその場は重苦しいものになる。
── そんな時だ。あの花束を渡されたのは。
『…どうぞ、よすがに。西への道中は長いですから』
手渡されたのは子供の自分の手に丁度いい、小振りの花束。
色とりどりの花は、帝宮のいたる所で咲いている白い花を中心に束ねられていた。
庭師が切ったにしては、幾分不揃いだった事を考えると、もしかしたらそれは花束を持参した人が手ずから作ったものだったのかもしれない。
予想すらしていなかった人からの餞(はなむけ)に、驚いてお礼を言うのも忘れてその顔を見上げると、その人は青味がかった灰色の瞳を細めて励ますような微笑を浮かべてくれた。
『次にお会いする事があったら、西の地の話を聞かせて下さい』
与えられた言葉は、花束以上の餞だった。その一言で、西へ向かう旅の意味が変わったのだから。
不安はまだあったし、恐れもあった。…そして少しの後ろめたさも。
けれど今まで気付かなかった事に気付けた。そう──
これから向かう西領は、恐ろしい場所などではないのだ、と。
穏やかな気候で、風が優しい所だと誰かが話していた。帝宮では決して見る事の出来ない『外の世界』に自分は出るのだ。
そしてこの目で見知らぬ場所を見る。この足で見知らぬ場所を歩く。
喜びと興味が胸に宿った。それが沈んでいた気持ちを浮き上がらせる。
…それはまるで、魔法の言葉。
とても嬉しかったのにうまく言葉が出なくて、ありがとうと言うのが精一杯で。
やがてその時の事は、ティレーマの中で特別な意味を持つものへと変わっていった。
── あの人のようになりたい。
あの場で唯一、自分が欲しかったものをくれた人。
幼いながらも、その人が帝宮で特殊な立場にいる事は理解していた。身の程をわかっていないと、裏で陰口を叩かれているのを聞いた事もある。
何度か遠目で見た時に抱いた印象は『冷たそう』だったし、その時まで言葉を交わした事もなかったけれど。
毅然とした背中や迷いのない瞳に憧れた。周囲に流されず、自分の気持ちを汲んでくれた事が本当に嬉しかったから。
…可能性は限りなく低いけれど、もしまた本当に帝宮に行く事があれば、会って話をしたいと思っていた。
でももう、その願いは叶わない。
その人はもう、この世の何処にもいないから……。
+ + +
重い水を掻き分けて浮かび上がるように、ゆっくりと意識が戻ってゆく。
軽い頭痛を感じながら目を薄く開くと、薄暗い室内が目に入った。
(ここは……)
一瞬、自分が何処にいるのかわからずに、ティレーマは数度瞬きをした。
── 重い。
何故こんなにも身体が重いのだろう。全然言う事を聞いてくれない。
「…聖女ティレーマ? 気がつかれましたか……?」
ぎこちなく身じろぎしたのを感じ取ったのか、少し離れた所から様子を伺うような声が飛んでくる。
落ち着いた、少し老いが見え隠れする声。それが顔見知りの女性神官のものだと気付き、ティレーマは自分が置かれている状況を理解した。
(…そうだわ、わたくしは主位神官様の前で倒れて……)
一瞬でそこまでに至った経過が蘇る。
パリルの壊滅、傷付きながらも助けを求めて来た民──
縋(すが)り付いてきた老婦人……。
「聖女ティレーマ……?」
「…大丈夫です、ご心配をおかけしました」
まだ身体が思うように動かないが、それでも首だけ動かして声の方を見ると、今まで付き添いをしてくれていたらしい女性神官は、ほっと目元と口元を和ませた。
「良かった…ああ、無理に起きる必要はありませんよ。具合は? 何処か痛い所などはありませんか?」
顔だけではなく身体も起こそうとするティレーマをやんわりと遮って、女性神官は体調を尋ねてくる。
正直に答えるならば、今の状態は最悪と言えた。
頭痛に、軽い眩暈、そして全身を覆う倦怠感──
力が足りない、と身体が訴えている。
だがそれは、全て自業自得の結果だ。こうなる事を…場合によっては命も失うかもしれない事を覚悟の上で『癒しの奇跡』を行使したのだから。
ティレーマは血の気の失せた顔に微笑を浮かべて、ゆるりと首を横に振った。
「大丈夫です。…もしかしてずっと付いていて下さったのですか?」
「ええ、心配でしたから。半日近く意識が戻らないのですもの。でも一人で付きっきりではなく、他の女性神官と交代しながらですから気にしないで下さいね」
ふくよかな顔に笑顔を浮かべ、女性神官はどうぞ、と水の入った器を差し出す。
ずっと眠っていたからか、確かにひどく咽喉が渇いている。
ありがたく受け取って少し身を浮かして口をつけると、ようやくふわふわと落ち着きのなかった思考が冷静さを取り戻した。
「半日近くと言うと…今はもしかして真夜中では?」
今更ながらその可能性に思い当たり、ティレーマは無意識に外へ目を向けていた。窓の外の月の位置で、大体の時刻を割り出そうと考えたからだ。
だが、その結果ティレーマは思いもしなかった光景を目の当たりにする事になった。
「…ッ!?」
息を飲み、思わず手にしていた容器を取り落とす。
中身はほとんどなくなっていた為にたいした被害はなかったが、そんな些細な事にも考えが回らなくなる程に、ティレーマは動揺していた。
(あれは……!?)
今まで直に目にした事はほとんどない。けれど一目で何かわかる異形のものが、この神殿を取り囲んでいた。
否── 囲む所ではない。『張り付いて』いた。
神殿の周囲を見えない壁が守っているのがティレーマにもわかった。そこに魔物が爪を立て、威嚇するように牙を剥いている。
「どうして魔物が……」
呆然と呟いたティレーマは、ぎこちない仕草で再び女性神官に向き直った。
「…何があったんですか」
嘘や誤魔化しを許さない鋭い視線に一瞬気圧されながら、女性神官は出来るだけ簡潔にわかる範囲の出来事をティレーマに伝えた。
日没後、神殿を取り囲むようにして魔物が現れたこと。
逃げ場がないと、主位神官の指示の下、結界を張って魔物を凌ぐ事にしたこと。
そして── 現在の状況を。
「今は交代で結界の維持を行っています。神力の強さは個人差がありますから、弱い者は二人一組で…今のところは何とか持ちこたえていますが……」
「それでも、いつ限界が来るかわからない…そういう事ですね」
「ええ。こんな広範囲に渡る結界など張るのも始めての事ですし、魔物がこのまま退散してくれる保障など何処にもありませんから……」
意識を手放している間にそんな事が起こっていたとは。自分の不甲斐なさに歯噛みする。
ぎゅっと拳を握り締めると、ティレーマは身体を起こした。
「聖女ティレーマ?」
「もうわたくしは大丈夫です。今の内にゆっくり身を休めて下さい」
「休めてって…それはこちらの台詞ですよ、聖女ティレーマ!?」
言いながら身支度を整え始めるティレーマに、女性神官は慌てて待ったをかける。
だが、ティレーマはそれを無視して神官服に着替え、下ろしたままの金の髪を手早く結い上げた。
まだ頭痛も倦怠感も残っているし、ともすればよろめきそうになる。それを必死にこらえ、ティレーマは身支度を終えると困った顔をして自分を見つめる女性神官に、心配無用とばかりに笑いかけた。
「大丈夫ですよ、この通り。半日も寝ていましたからすっかり元気になりました」
「何を…まだ顔色が悪いではないですか」
ティレーマの空元気に呆れたように呟くと、ふ、とため息をつく。
「…などと申し上げても、こちらの話など聞いてはくれなさそうですね」
「…申し訳ありません」
言外に『頑固者』と言われ、その自覚のあるティレーマは苦笑を浮かべた。
自分でも何をやっているのだろうと思う。僅かな明かりですらわかるほど、憔悴(しょうすい)している今の状況で、どれほどの事が出来るというのか。
だが、こんな状況を前にのんびり寝ていられるはずもない。力で助ける事が出来なくても、おそらく恐怖の中にあるだろう、パリルの人々を励ます事くらいは出来るはず。
「たとえ先が見えなくても…誰かに『大丈夫』と言ってもらえるだけで、心が軽くなる事もあると思うのです」
そう、かつて自分が貰った言葉のように。
今のような状況で一番厄介なのは、今置かれている状況に絶望し、自暴自棄に陥る事──
それだけは避けなければ。
そんなティレーマの思いが通じたのか、女性神官は表情を改めると静かに念を押した。
「…絶対に力は使いませんね?」
「はい。わたくしだって…死にたい訳ではありませんから」
命を懸(か)けはしても、死を望んでいる訳ではない。自分の生にどんな意味があるのか──
それを見出してもいないのに。
命を狙われているからこそ、そう思う。死は…何も齎(もたら)さないのだから。
「ラーマナの名にかけて、誓います」
「……」
心の底まで見透かそうとするように、真っ直ぐな視線が向けられる。
それを正面から受け止め、ティレーマは女性神官の言葉を待った。やがてその目は諦めたように床に向けられる。
「…主位神官様ですら止める事の出来なかった方を、一介の神官である私が止める事など出来やしませんよ。…くれぐれも、無理はなさらないで下さいね」
「ありがとうございます」
ため息混じりの言葉にティレーマが微笑むと、女性神官はその手でティレーマの肩を励ますように叩き、厳かな口調で聖句を唱えた。
「唯一の神にして、天秤を司る神ラーマナよ。我は願い奉るなり。この愚かにして崇高なる者が自らの意志を貫けるよう見守りたまえ」