天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(14)

 星が流れるような小さな光が、遥か上空から地上に向かって落ちた後、空に赤く炎の海が燃え広がった。
「……!」
 正にその方角を目指して空を駆けていたザルームは、それを目にすると同時に動きを止めた。
 それは有り得ない現象を前に立ち尽くしたようにも見えたが、実際はそうではない。
 空間は相変わらず安定を欠いており、その状況で何者かが強力な術力を行使した事によって、その場の要素は嵐のように荒れ狂い、その余波がザルームのいる場所まで影響を与えた為だ。
 下手に突き進めば、術力の統御が狂い、落下の危険性もある。ザルームは布の内で歯噛みした。
(こんな所で……)
 一刻も早くと形振(なりふ)り構わず飛んで来た結果、必要以上に力を酷使する事になり、さしものザルームにも負担がかかりつつあった。
 ミルファの安否が当然気にはかかったが、命の危険に関してはそこまで心配はしていなかった。…何もせずに側を離れるなど、出来る訳がない。
 こうして側にいない時の事態を考えて、かなり以前から保険をかけていた。
 ただ── 問題は何か起こった場合、その保険によってミルファの命は守れても、それに巻き込まれた人間までは及ばないという事だ。
 だからこそ、ザルームはミルファの元へ急ごうとしていた。
 ミルファは一見、冷静で何があっても動じない心の持ち主のように見える。
 それは実際、ミルファがそうした面を持つ為でもあるが、意識してそう見せている部分が大きい。
 ── 長い事、側にいれば自ずとわかる事はある。
 ミルファは実際には非常に繊細で傷付きやすい面がある。
 強くあろうとする思いで、その傷を覆い隠し、目を背けているだけで── 内には癒えない傷を抱えているのだ。
 五年前のあの日、廃屋で従属を誓った日から今までの間に、ミルファの顔から喜怒哀楽の感情が目に見えた乏しくなったのがその証拠のように思われる。
 そんなミルファの前で、自分は傷一つないのに自分以外の者が傷付き倒れ── あるいは生命を失うような事があったら。
 …ミルファの心は、更に深い傷を負うに違いない。
 兄であるソーロンが死に、皇帝を討つと決意した日からミルファは泣く事もなくなった。
 いつか── 全ての感情をなくしてしまうのではないか。そう思うとザルームの胸は鈍い痛みを感じる。
 それは罪悪感に他ならない。何しろ、今ミルファが苦難の道を歩む切っ掛けを与えたのは自分なのだから。

 ── 皇帝の御座につかれませ

 ミルファの命を守る為に、それは必要な言葉だった。
 それでも…本心からそう告げた訳ではない。出来る事なら、命がけの日々など過ごす事なく、いっそ皇女としての立場も忘れて、平穏な日々を過ごしてもらいたかった。
 …出来る事ならば。
 けれど、現実はそうする事を許さなかった。
(…自業自得、か……)
 ミルファの命は守れても、心までは守れない。
 それはこの道をミルファに示した自分への、報いのように思われた。ミルファが自分に対し不信感を抱きつつあるのも。
 何一つ、重要な事は話していない。自分が何者で、何の為にミルファに仕えているのか── 一つとして。
 話す事を禁じられているのも理由の一つではある。だが、同時にそれに甘んじていたのも事実だ。
 ── この身は偽り。ただの『影』。
 『契約』が果たされた時には消え去る運命。そんなものに心を傾けさせる訳には行かないと、自分に言い訳して必要以上にミルファとの間に線を引いた。
 それが益々ミルファの孤独を深めるとわかっていながら──。
「…──!?」
 その時、彼の感覚は新たな動きを感知した。
 ざわり、と大気が揺らぐ。否── 空間が。
(…新手?)
 方角は北西── つい先程ザルームが後にした場所だ。しかも、その揺らぎの規模は、ミルファのいる方角に感じたものとは比べ物にならない程に大きい。
 一瞬にして肌が粟立つ。荒れ狂い、統制を失った要素達の悲鳴を受け止め、ザルームは何とかその場に踏みとどまる。
(── こちらが、本命か)
 最初から、『敵』の狙いはティレーマの方だったのだ。
 あわよくばミルファも、と考えていたかもしれないが、ミルファの方は足止め程度のものだったに違いない。
 現在ミルファのいる位置から、ティレーマのいる神殿までどんなに急いでも一日はかかるだろう。
 その距離は近いようでいて遠い。だが、東領と南領に比べれば手の届く距離だと言える。
 もし、この状況でティレーマが命を落とすような事になったら──。
『── どのような方か、実際に会ってみたい気になった』
 ティレーマからの返事を受け取った時の言葉が耳に甦る。
 あの言葉には、唯一残った姉に対する思慕の念が漂っていた。もう、喪いたくないという願いがこもっていた。
 …もし、ミルファの感情までも見越した上で仕掛けて来ているのなら、話に聞いた以上に厄介な相手を敵にしている事になる。
(…その思惑に踊らされる訳には行かない)
 一瞬にして心は決まる。
 ザルームは一度炎の上がる空を見つめると、すぐさまその身を翻し、再び来た道を引き返し始めた。

+ + +

 すぐ目と鼻の先に見える魔物の姿に、人々の精神的な消耗は激しかった。
 神殿の人間にとっても、降って沸いた災難だったが、パリルの人々にしてみれば、ようやく過ぎ去ったと思っていた悪夢の再現である。
 男も女も、年老いたものも子供も、恐怖に震え、心を乱し、縋れるものを求めていた。
 そんな彼等にとって、ティレーマは先程の『奇跡』の事もあり、他の神官よりも神聖視するに十分な存在だ。
 階下にティレーマが姿を見せると、すぐさま人々が寄り集まり、不安を訴え始める。
「聖女様…わたし達はここで死ぬのでしょうか……!?」
「そんな事はありません。わたくし達があなた方を守ります。大丈夫ですよ」
 唇を震わせ身体を縮めながらの問いかけに、ティレーマは人々の肩を抱き、あるいは手を取りながら励ました。
 ティレーマ自身、力を酷使した消耗が目に見えてわかるほどだったが、恐怖で目が曇っている彼等はその事に気付かない。自分の事で精一杯なのだ。
 そんな彼等を責める事は誰も出来ない。ティレーマは疲労感と戦いながら、笑顔を保った。

 キシ…ッ、ギギッ

 時折、魔物が爪を立てる音が聞こえて来る。
 神経に障るその音が聞こえる度に、人々の身体はびくりと震えた。
(…どうして魔物はパリルを襲ったのかしら)
 しがみ付いてきた子供の背中を撫でながら、ティレーマは考えた。
 どう考えても変だ。魔物が集団で人里を襲ったのも、まるで夜になるのを待って神殿を取り囲んだのも。
 パリルを襲ったのも、時間をおいて姿を現したのも、何か裏に狙いがあるのではないか── そう思わずにはいられない。
 そしてそれが何かと考えて行くと、浮かび上がるのは一つの可能性だった。
(── もしや、お父様が魔物を……?)
 神官である自分は、正攻法ではその命を奪うのは困難だ。それはティレーマ自身も自覚している。
 だからこそ、帝都よりのこの神殿まで単身で来る事が出来たのだ。
 同時に、神殿だからこそ来れたとも言える。もしこれが── 普通の民が暮らすパリルのような街だったなら、ティレーマは決して足を踏み入れはしなかった。
 今のような状況を怖れた為だ。
 自分は命を狙われている。その事は同時に、身の回りの人間も巻き込む可能性がある事も示す。
 だが神官ならば聖晶の力に加え、自分の身を守る術を持っている。今のように魔物に囲まれたとしても、精神的な動揺はあるだろうが、生命に危険が及ぶ可能性は低い。
 そう── パリルの民がいなければ、乱暴に言えば神殿を守る結界自体も必要ないのだ。
 魔物に対して身を守る術のない人々がいるからこそ、神官達は力を尽くし、結界を張っている。
 それが…狙いだとしたら?
(…彼等の狙いは、わたくし……?)
 思い当たった考えの凶悪さに慄然とする。
(わたくし一人の命を奪う為だけに、一つの街を滅ぼしたの……?)
 まさか、とは思う。第一、確証は何処にもない。しかし、そう考えると腑に落ちる事もいくつかあるのも事実だ。
 パリルが滅んだ事で、怪我人が神殿へと雪崩れ込み、自分を含めた神官達は寝る間も惜しんで対応に追われた。
 全てが終わり、気が緩んだ後を狙ったように姿を現した事で、今度は神力を酷使する羽目に陥った。
 体力と精神力── それらを削られれば、聖晶を持つ神官だろうといつかは倒れる。生命力にも等しい神力を消耗し過ぎれば、場合によっては死ぬ場合もあると言う。
 言うならば今は、パリルの民と神官、全ての人間の命を盾に取られている状態にも等しいのだ。
「聖女様、怖い……!」
(もし、そうなら……)
「…大丈夫。必ず、あなた方を守って見せますから」
(わたくしがここを離れれば、この人達を守れる…?)
 この神殿を出て、魔物を自分の方へひきつければ── それは言う程簡単な手段でないのは確かだった。
 だが…実行する価値のある手段の一つである事もまた確かだ。
 しがみ付いている少女を抱きしめると、ティレーマはその身体を優しく引き離し、立ち上がった。
「聖女様……?」
 不安そうな少女に微笑みかけ、ティレーマは主位神官の姿を求めて動いた。
 今度ばかりは同意してはもらえないだろう。
 しかし、万が一にでも可能性があるのなら── 自分がここにいる為にパリルで罪もない人々が命を失ったのなら、せめて生き残った人々を守りたい。
 その思いだけを胸に、ティレーマは歩く。
 足取りは重く、ともすればよろめきそうな状態ながらも、そこに迷いはない。
 …その時だった。
「……?」
 不意に音が消えた。
 先程まで聞こえていた魔物達の立てる音が、まるで幻だったかのように消え去っていたのだ。
 怪訝に思い近くの窓から外を伺ったティレーマは、固まったように動きを止めた魔物の姿に眉を寄せ、次いで魔物達がそれぞれ空を見上げている事に気付いた。
(何が……── !?)
 倣うように視線を辿ったティレーマは、その目を大きく見開いて絶句した。
(そんな…一体、どういう事なの……?)
 神殿を遥か上空から見下ろす月。
 そこに重なるようにして、青く輝くものがあった。それは── 。
(…月が、二つ……?)
 一体何処から現れたのか。
 天上には二つの月が浮かんでいた。青褪めたような光を放つ第二の月。それは先程まではなかったものだ。
(あれは何なの……)
 吸い寄せられるように、魔物も窓辺にいた人間もその蒼い月を見つめていた。しばし、本来の夜の静寂がこの地に戻る。
 だが、次の瞬間── 更なる異変が起こった。
 静寂を打ち砕くように闇に響き渡ったのは、断末魔にも似た獣の咆哮。
 …その青褪めた月光を浴びた魔物達が、次々に苦しみ悶え始めたのである──。

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