天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(15)

 ── 急いで西へ行った方がいい。この襲撃の目的は最初から聖女ティレーマを潰す事のようだから。

 その言葉を頭から信じた訳ではなかったが、ミルファが率いる反乱軍は西へ先を急いでいた。
 頭上に広がっていた炎の海が頭の中から離れない。
 確かにルウェンに呪術のような力を使う魔族について話を聞いてはいたが、まさかあれほどの威力を持つとは思っていなかった。
 …もし、あの男がいなかったら。
 今頃はミルファのみならず、周辺にいた人間は一瞬でこの世の者ではなくなっていただろう。
 たった一体であれだけの力を持っているのだ。もし、同様の魔物が複数現れたら…果たして何処まで対抗できるだろうか。
 守りの術を持つ神官でも、同じ事が言えるはずだ。いくら聖晶が守るとは言っても、誰もその加護の限界を知らないのだ。
 もし、聖晶の力を超える攻撃を魔物が行えるとしたら、攻撃手段を持たない神官はただの人間よりも非力だ。為す術もなくその手に倒れる事だろう。
 早く── 一刻も早く。
 気持ちが急きたてられる。不安が少しずつ胸の中を蝕んでゆく。
 それは神殿の様子を見に行ったザルームが、今になっても帰還しない事も原因の一つだった。
 呪術師ではないミルファには、今、自分の周囲が空間的に不安定である事などわからない。下手に力を行使出来ないほどに、要素が荒れ狂っている事も。
 ただ、その危うさを肌で感じるだけだ。
 この状況で彼が姿を見せないのは、それだけの事が起こっている証のように思われた。
(…間に合って)
 祈るより他にない自分が、どうしようもなく無力に感じた。
 否── 実際、無力だ。
 先程の事にしても、自分はあの炎を前にして何が出来ただろう。剣を多少使えるとしても、魔物相手ではたいした効果もないに違いない。
 それは決して、恥ずべき事ではないのかもしれない。全ての人間が、ザルームやルウェンのような力を持つ訳ではないのだから。
 むしろ、そうした存在に全てを預けようとしない事は、上に立つ者として逆に評価される部分だろう。だが、ミルファにはそれを自覚してはいなかった。
 指示を出すばかりで、自分では具体的な事を何も出来ないという事実は、苦痛でしかなかった。努力でどうにかなるものではないと、わかっているが故に──。
 その時、行軍に乱れが生じた。歩みが止まり、前方がにわかに騒がしくなる。
(…何が……?)
 もしかして、また魔物が出たのか── そんな事を考えていると、動揺した声がミルファの周囲にまで到達した。

「何だ、あれは…!?」
「…嘘……」
「ばかな……!」
「…そんな…有り得ない……」

 口々に声をあげ、中には悲鳴も混じっている。
 そんな彼等は例外なく顔を上空に向けていた。その視線を辿ったミルファもまた、彼等同様に呟いていた。
「…蒼い、月……?」
 見慣れた月の隣に、重なるようにして蒼い月が浮かんでいる。
 いつの間に現れたのか、それは何処か不吉さを漂わせていた。まるで── この世のものではないような……。
 その時、一つの直感が走った。
(── ザルーム……?)
 何故、そう思ったのかはわからない。理由を問われても、納得の行く答えは出来ないだろう。
 だが、その事でミルファはいち早く自分を取り戻した。
「…進みなさい。こんな所で立ち止まる訳に行きません」
 すぐさま指示を出し、人々を現実に引き戻す。
 二つ目の月による動揺はすぐには拭いされなかったが、彼等はすぐに再び足を動かし始めた。
(…大丈夫。姉上は、きっと大丈夫)
 先程までの不安は薄れ、その確信は強まる代わりに胸に宿ったのは、ザルームの安否だった。
 あれだけの力を持つ呪術師だ。そうそう滅多な事は起こらないに違いない。そう思うのに── 拭いきれない不安が湧き上がる。

 …蒼い月は不吉な光を湛(たた)え、そんなミルファを見下ろしていた。

+ + +

 吹き付ける微風は、腐臭がした。
 汚れた血と、肉の──臭い。それが、神殿を取り囲む魔物達の体臭だと知るのは、その場にいる彼だけだ。
 先程まで魔物が立っていた丘の上に立ち、ザルームは眼下の光景を見つめた。
 夜の闇にあっても、視界を遮るものは何もない。古びた神殿を取り囲む異形と、その爪や咽喉が立てる音は彼のいる場所にまで届いてくる。
 神殿の周囲を守るように結界が張られている事に気付き、事態が思ったよりも深刻である事を悟る。
(── パリルを襲ったのは、この為だったのか……)
 神官に力を使わせる為── ひいては、そうする事でパリルの生き残りだけでなく、神官の命をも盾に取る為に。
 卑怯な、と思うと同時に── その狡猾さに微かな畏怖すら感じた。
 神殿の様子を見てきて欲しいというミルファの言葉を受け入れて、ここまで様子を見に来たが、もしそうしなかったなら状況はもっと悪い事になっていた可能性が高い。
 ── 東領の時の再現のように。
 あの時も、叶うならば東領へ赴き、ソーロンの命だけでも守りたかった。だが、それは叶わず、ソーロンは命を散らし、ミルファは心に傷を負った。
 もう二度と、あのような事は繰り返したくはない。
 ── そう…その為にこの身が滅んでも。

「── 唯一なる神ラーマナよ。穢れしこの身が、御名を口にする無礼をお赦し下さい」

 静かに呟くと、口にした神に敬意を払うように、片手を立てたままもう片方の手を横に走らせる略式の印を切った。
 そして彼は、古の言葉を紡ぎだす。
 ミルファの願いを叶える為に。彼女が進む道が、少しでも平らかなものとなるように。

「メイ・カリェン・ゲイド・ダル・イ・ピューラ……」

 その決して大きくはない声が風に乗った瞬間、ざわりと大気が揺らぎ、周囲の闇が急速に深まった。
 ただでさえ安定を欠いていたその場は、ザルームの呪術の発動を受け、益々狂乱する。
 それに構わず、ザルームはさらに言葉を重ねた。

「アイダ・メイズ・ナ・ダーナ・マティオス・フィッツ・チェイル・クロサティキル・ラーナ・ワイド」

 言いながら、その左腕を持ち上げる。
 左── 心臓に近い場所。呪術において、その腕は特別な意味を持つ。
 …もっとも、そうした事は今は廃れ、知る者も少ない。今、彼が行使しようとしている呪術自体が、過去のものになっているように。

「…オリル・ゴーラ・《ラーマナ》」

 バシュ…ッ!

 この世界における唯一の神であるラーマナの名を口にした瞬間、持ち上げた腕から血煙が上がった。

「…ッ、── コンフィータ・オルディキル…ニア・エピレ・テア・マキュリタル……」

 苦痛に耐え、ザルームは詠唱を続ける。
 腕の血管が破裂した結果、彼のローブの袖はたちまちその色を黒く沈め、重みを増す。
 先から覗く白い指先から、ぽたり、ぽたりと赤い雫が落ち、たちまち大地に吸い込まれた。
 これは代償。
 禁呪とされた術を行使する為に必要とする対価。

「…ライ・ムーゼ……レシティプーラ・グレイブ…ナ・ラーナ・パルメ・ネゴール……」

 激痛が彼の言葉を揺らす。
 それでもザルームはそれをやめようとはしなかった。
 やめる訳には行かなかった。今の状況で、これだけの規模の呪術を中途半端に終わらせれば、どんな影響が出るかわかったものではない。
 ── 下手すれば、自分の命だけでは事は済まない。
 どんな結果に終わろうとも、ティレーマの命だけは守らねばならない。それだけを胸に、ザルームは残る言葉を一気に紡ぎだした。

「── ミューザ・メイ・コンナス・ウェイ・グレイブ…メイ・オティア・ゲイド……!」

 その瞬間、世界に満ちる姿なきあらゆる力は悲鳴をあげた。
 その声を聞く者がいたなら、おそらくその叫びにこの世の終わりを見ただろう。
 それは生命や感情など存在しないはずの要素が上げる、恐怖の叫び。本来ならば有り得ない『消滅』の危険を前に、ただでさえ混乱にあったそれらは、本来持つ属性すらも忘れ、一つの大きな力となる。
 それはこの世界が自らを守る為にとった、防衛形態とも言えた。
 目に見えてはわからない。だが、確実にその場は異質な空間へと変貌を遂げていた。
(…さあ、来るがいい)
 未だ出血の止まる気配のない左腕を掲げ、ザルームは心の中で呼んだ。
(哀れな魂達を食らうがいい…《陰冥の門》よ……!)
 そして──。
 天に輝く月に重なり、ゆっくりと蒼い影が浮かび上がる。それは次第に明るさを増し、その形を明らかにした。
 ── 不吉さを感じさせる、青褪めた光を放つもう一つの月へと。
 それを見届け、ザルームは布の内で微笑んだ。
 …術は、成功したのだ。
 その時、バサリ、と彼の背後で軽い羽音が響いた。その音にザルームが振り返ると、それを見越したように一匹の蝙蝠が飛来し、彼の肩に止まった。
『久しいな、ザルーム?』
 キィキィという鳴き声に重なって、そんな声がザルームの耳に届いた。
『よもやこの状況で《陰冥の門》を開くとは…その無謀さは死ぬまで治らないようだな。セイリェンでもあれ程忠告してやったというのに、困った奴だ』
 その言葉に、ザルームは布の内で目を見開いた。
 左腕を中心に身体全体を苛(さいな)む苦痛を忘れ、彼は口走っていた。

「…王……?」

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