天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(16)

「…あなたが…何故ここに……」
 蝙蝠の言葉に、ザルームは驚きを隠さない言葉を返す。
 その問いかけに蝙蝠は答えず、再びふわりと飛び上がると、くるりと宙に身を翻し── 次の瞬間、ザルームの前にはまるで鏡合わせのように全身を布で覆った人物が姿を現した。
「陽明界に属する者に、この『リマの月』は重いぞ? 普通に呼ぶだけでも寿命が十年は縮む。こんな安定もしていない場所ならなおの事だ。…それも覚悟の上か?」
 地面に降り立つと同時に布の内から聞こえた声は、先程までの蝙蝠の鳴き声とは異なる若い男の声だった。
 呆れを隠さないその声に、ザルームは視線を下げ、一度首を縦に振った。
「…他に……手はございませんでしたので……」
「何を言ってる。お前なら、あれ位の数は簡単に始末がついたはずだ」
「……」
 容赦のない声に、ザルームは返す言葉がなかった。
 実際、その言葉に間違いはない。ただ、命を奪うだけならこんな命がけの大掛かりな術を使わずとも出来た。
 確かにこの場の要素は乱れきっており、普通の攻撃呪術を行使するにも通常以上の集中と術力を要するには違いないが、この身にかかる負担は幾分マシだっただろう。
 …《契約》に反するという部分では等しくとも。
 けれどもそれは──。
「…まだ、命を奪うのが怖いか?」
 その沈黙に何を感じたのか、男が幾分口調を和らげる。そして何処か哀れむように、言葉を続けた。
「気持ちはわからないでもないが。あれは…元は全部、陰冥の血など一滴も持たない、ただの人間だからな」
 男の口から紡がれた真実に、ぴくりとザルームの肩が揺れる。だが、心の内を見透かされたようなその言葉を、彼は掠れる声で否定した。
「── …そのような事は関係ありません」
「そうか?」
 しかし、対する男は彼の言葉を疑問の形で否定する。
「彼等はもう二度と人には戻れない。作り変えられた体細胞は時が経つにつれ神経をも冒し、後は自我を失い、狂い、血肉を求めて彷徨う内に朽ち果てるだけだ。── それを哀れに思ったのではないのか? お前は私と違って優しい男だからな。向こうに行けば、少なくとも苦しまずに死ねる…違うか?」
「……」
「ふん…だんまりか。まあ、いい」
 黙ったままのザルームに対し、特に気を悪くした様子もなく男は軽く肩を竦める。そして上空に浮かぶ蒼い月へと目を向けると、そのまま軽い口調で言い放った。
「乗りかかった舟だ。続きは私が引き受けてやる」
「…王?」
「《門》を開く事に比べれば、送還は簡単だが…今のお前には荷が重いはずだ。下手をすれば今度は冗談抜きで死ぬぞ?」
「何故……」
 男の思いがけない申し出に、ザルームは呆然と問いかけていた。
 確かにその言い分に間違いはない。
 《陰冥の門》を開いた事で、かなりの力が削られている。この状況で広範囲に渡る空間転移呪術を行使すれば、完全に力尽きる可能性もあった。
 だが── 目の前の男が、自分をわざわざ助ける理由が思いつけない。
 そんなザルームの心の内を見透かしたように、王、と呼ばれた男は、仕方がないだろうと苦笑の混じった声で呟いた。
「これも《契約》の内にしといてやる。…皇女ミルファが無事に皇帝になるまでは、お前も死ぬに死に切れないだろう? そして私も今、お前に死なれると困る」
 だから手伝ってやると告げる言葉に、ザルームはその頭を垂れた。
「…ありがとう…ございます……」
「礼はいらない。ひいては私自身の為でもあるからな。…これだけ派手な事をすれば、向こうも気付くはずだ。私が…動いている事を」
 言いながら重力を無視して浮かび上がった男は、神殿の上空に向かいかけ── ふと思い出したように口を開いた。
「…ああ、皇女ミルファなら取り合えず助けておいた。ただし、詳しい事は何一つ話していない。お前の知り合いという事になっているが── 後の説明は適当につけておけ。その面倒で今回は貸し借りなしだ」
「……!」
 言うだけ言うと、ザルームの言葉を待たずに飛び去ってしまう。
 後に残されたザルームは呆然とその姿を見送り── やがて布の内から、苦痛混じりの苦笑が漏れる。
「…適当と…言われても……どう言い繕っても無理が出るではありませんか……」
 こうなったら後は任せるより他はない。だが、同時にこれ以上とない代理であるのは間違いなかった。
 ザルームは男の動きを目で追いながら、全てが終わった後に、どうミルファに説明すべきか頭を悩ませた。

+ + +

 神殿の上空に向かった男は、まず神殿を取り囲む異形の者達を見下ろし、次いでさらに上空にある月へと目を向けた。
(…やるじゃないか)
 呪術により現れた第二の月は、まだはっきりとした輪郭を保っている。それは取りも直さず、ザルームの術がそれだけの完成度をもって行使された証だ。
(── 『蝕』の時には及ばないけど…まあ、これなら確かにまとめて送っても問題なしだろう)
 そして再び地上に目を戻すと、二つ目の月の存在に気付いたのか、魔物達がこちらに目を向けていた。
 …それもそうだろう。気になるはずだ。
 第二の月の放つ青褪めた月光は、彼等にとっては毒のようなものだ。こちらの太陽の光が、『魔物』にとって毒であるように。
 ただし── 毒は毒でもこちらは苦痛のない死を齎(もたら)すものだが。
「…さあ、聞くがいい。偽りの闇の子よ」
 青褪めた月を背に、布の内で黄金の双眸が微かな光を帯びる。それは── この世には在らざる色。
「── ハーレイ・スフィラ・メイ・オルファー・ラーナ・オルディル・イ・エピレ・テア・ディアス」
 紡がれる言葉は、空間を捻じ曲げ望むものを転移させる呪術を発動させる。
 本来ならばそれは非常に長い詠唱を必要とするのだが、次に彼が口にしたのは本来定められた言葉とは異なる言葉だった。
「…我は神の子。神の血に連なる者。哀れな者どもよ、黄昏の界にて安らかに眠れ……!」
 その言葉が放たれた瞬間、蒼い月に異変が生じた。
 にわかにその光が増し、本来の月の光を遮って地上にいる魔物達の上に光の雨のごとく降り注ぐ。…包み込むように。
 ざわっ、と魔物達に動揺が走った。
 その赤い瞳に浮かんだのは恐怖。そして──。

 …ギャゥアァアアアアァァ……ッ

 夜の静寂を魔物の絶叫が破った。
 その叫びは一箇所のみならず、次々に上がった。叫ぶだけでは飽き足らず、中にはその場に頭を抱えて蹲(うずくま)るものも、身悶え、のた打ち回る者すらいた。
「…!?」
 その反応は彼の予測を遠く離れたものだった。
 魔物達はそのまま一体も残さず、行使された空間転移呪術によって速やかに転移されるはずだったのだ。なのに──。
(まさか……)
 考えられる事は一つしかない。
 彼は舌打ちすると、行使しかけた転移の術を一度中断し、再び口を開いた。
「マキュリータ・ペルセム…アイダ・メイズ・ナ・ダーナ・ネゴーラ・フィッツ・リリト・マーナ・ヴィンディル……!」
 言い終わると同時に、ざっとその腕を横に払う。
 さながら魔物達を支配する糸を断ち切るようなその動作が終わると、苦しむ魔物達の身体が一斉にびくっと跳ねた。
 …その身体を支配している術が解けたのだ。それを確認して、更に言葉を重ねる。
「ヘリアス・イ・アレル・エファト・メイ・オルファー・ラーナ・オルディル!」
 キィン、と大気が軋むような音が微かに響く。
 視界一帯の全ての要素を一瞬にして支配下に置いた彼は、魔物の苦悶の声が小さくなった事でふう、とため息をついた。
 …これで自分以外の者がこの場で術を発動させる事は出来ない。
 まさか今のような状況を予測していた訳ではないだろうが、他者からの呪術的な干渉に対して拒絶反応を起こすように仕向けていたとは──。
 そう考えて、すぐにいや、と否定する。
(あいつなら…そこまで読んでいたとしても、不思議じゃない)
 セイリェンの一件で、皇女ミルファにかなり腕の立つ呪術師がついている事に気付いている可能性は高い。…そうした事に抜け目のない人物なのだ。
「── 相変わらず、嫌な奴……」
 ぼそりと呟くと、彼は気を取り直すように軽く頭を振ると、今度こそ魔物達を転送する為の術を行使する為に片腕を持ち上げた。
「…さあ、今度こそお休みの時間だ。黄昏の女神の腕の中で、安らかに眠るといい」
 そしてパチリ、と一つ指を鳴らす。
 その瞬間、神殿を中心にして円を描くように、大地から空の月と同様の蒼い光が放たれる。
 その光はやがて糸のように、神殿を取り囲む魔物達の身体に絡みつき、その動きを封じ込む。
 その光が薄れると、それに代わるように魔物の足元の地面に、その影よりも濃い、底の見えない穴のような漆黒が生まれる。そして──。
「おやすみ」
 彼が哀れむようにそう呟くと、魔物達は足元の闇に飲まれて一体ずつ掻き消えて行く。
 悲鳴すら上がらない、一瞬の消滅。まるで最初から幻だったかのように、痕跡一つ残さず魔物達は姿を消して行く。
 …そして最後の一体が消え去った時には、空にあった蒼い月も、そして上空にいた男の姿も消え去っていた──。

+ + +

 魔物が消滅するまでを固唾を飲んで一部始終を見届けた人々は、ようやく訪れた平穏な夜の空間を前に、ただ呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。
 あまりにも現実離れしていた為だ。
 彼等は魔物に対しても免疫がなかったが、呪術師という存在に対しても関わりが薄く、呪術を目の当たりにした事のない者が大部分だった。
(── 終わったの……?)
 パリルの民よりは魔物に関しても、呪術師に関しても知識のあるティレーマも、放心したように窓辺に佇(たたず)み、先程まで蒼い月があった場所を見上げていた。
(今のは…一体、何だったの……)
 一体何が起こったのだろうか。
 蒼い月が現れ、それを見ていた魔物が苦しみだした。そこまではいい。だが、それ以降に目の前で起こった出来事は、ティレーマの許容範囲を遠く超えていた。
 大地から青褪めた光が放たれ、その光によって視界が遮られ── 光が消えたかと思ったら次々に魔物が大地に飲まれるようにして消えてしまった。
 それが目撃した全て── 否…ティレーマの目はもう一つのものを捉えていた。
 蒼い月に重なるようにして、人影を見たと思う。宙に人が浮かぶなど聞いた事もないし、単なる目の錯覚だと言われればそのような気もするけれども──。
 シン、と水を打ったように静まり返った神殿は、やがて我に返った人々の安堵のため息で溢れ、現実を取り戻す。
 誰一人として何が起こったのか理解はしていなかったが、取り合えず危険は去った事は事実だ。
 互いに手を取り合い、あるいは抱き合って無事を喜び合う人々を横に、ティレーマは逆に不安を感じずにはいられなかった。
 神の加護という表現で片付けるには、あまりにも事が大きすぎた。
 魔物の群れに襲われたばかりでなく、今のような現実離れした光景を前にして、何か自分が思っている以上に事態が大きく変貌しているような気がしてならなかったのだ。
 少なくとも…あれだけの魔物が消え去った事は、通常ならば起こり得ない事だ。もしそれが何者かの手によって行われたのだとしたら── その人物も、普通の人間とはとても思えない。
 そもそもの始まりは五年前。
 何の前触れもなく、突然皇帝が乱心したこと。しかし、それだけではない何かが裏で動いている── そんな気がしてならなかった。
(…ミルファは、どう感じているのかしら)
 ふとそんな事を思った。
 父を討つ為に挙兵した母の違う妹。今まではその心情を理解出来ないと思っていたけれど……。
(── 向こうも無事だといいけれど……)
 月に照らされた南の空を見つめる。
 そして心からミルファの身を案じた。こちらからはこの神殿の方へ向かっているはずの反乱軍の様子を知る事は出来ない。
 今まではどうしても他人事のようにしか感じる事の出来なかった危機感を感じ取り、初めてミルファの存在を身近に感じた。
 会いたい、と。
 そう思った。自分の感じたこの不安を分かち合えるのは、この世にはミルファしかいない── そんな気がして。

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