天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(17)

 ミルファの元にザルームが戻ったのは、目的とする地方神殿まであと半日程の地点だった。
 見通しの良い緩やかな丘陵地帯であった事と、休息を最小限にして先を急いだ結果、夜が明ける頃には、予定していた地点よりも先にミルファ率いる反乱軍はいた。
 白々と明けてゆく東の空に、多くの人間が安堵の息をついたに違いない。彼等は本能的に魔物の出現と夜の関係を感じ取っていた。
 そこに至るまでの道中は、それまでに比べれば平穏そのものと言えただろう。
 やはり出現した時と同様、空に現れた第二の月が不意に消え去った時は、当然ながら多少の動揺が走った。
 幻で片付けるには、余りにも事は大き過ぎたのだ。何しろ、その場にいる全ての人間がそれを目撃している。
 だが、それが何かを説明出来る人間はそこに一人もおらず、第二の月が出た事で何らかの異変が起きた訳でもない。
 出現を目の当たりにした時よりは彼等は冷静だった。少々足取りは鈍ったが、それでも立ち止まりはせずに先を目指した。
 夜が明けた事を切っ掛けに、ミルファは最後の休息を告げた。
 油断は出来ないが、ずっと精神を張り詰めていた為、疲労は相当のものになっている。神殿の様子が気にかかったが、疲れを引き摺っていてもいい事など一つもない。
 その休息の最中に、ミルファは慣れた気配を感じ取った。
「…ザルーム……?」
 その呟きを聞き取り、魔物の来襲以来、側に控えていたルウェンは片眉を持ち上げた。
 ザルームが不在である事とその理由はミルファの口から聞いていたものの、随分と遅い帰還だと思う。
 まだ、ザルームに対する蟠(わだかま)りを抱えたままである事も、彼の行動に対する不審を招いているに違いない。
 ルウェンは無意識の内にいつでも抜刀出来るように、剣の柄に片手を伸ばしていた。
「── 遅くなりまして、申し訳ございません……」
 そんな声と共にミルファのルウェンの前に、ローブ姿の人物が姿を現す。
 何度か目にしたとはいえ、ミルファほどにはその出現の様に慣れていない。やはり奇異な感覚は否めず、軽く目を見開いた── が、その瞬間にふと感じ取ったものに、眉根を寄せた。
 一瞬、ほんの微かにだが、鼻腔をあるにおいが掠めたのだ。
(…血……?)
 戦場にあればさほど珍しくもないが、身近に大きな怪我人がいない今、異質と言えば異質なにおいだ。
 そんなルウェンの困惑に気付いているのかいないのか、ザルームはミルファの前で居住まいを正すと礼を取る。
「長くお側を離れましたこと、詫びる言葉もございません……」
 陰気な言葉は常と変わらない。
 もしや怪我でもしたのかと思ったが、赤黒いローブには破れたり裂かれたような負傷した様子もない。
 気のせいか、と思いながらその姿を眺めていたルウェンの目は、ふと一点で止まった。
 ── 彼の控える位置だと、丁度身体の影になる左袖。その先が他よりも一段色が暗くなっている…ような。
 まだ完全に夜が明けきれていない事もあり、周囲は薄暗い。だが、はっきりとは断言こそ出来ないものの、ルウェンはそこが先程の血のにおいの元だと直感した。
 ミルファは血のにおいには気付かなかったらしく、代わりに一度ちらりとルウェンに視線を向けた。
 人払いすべきかどうか悩んだのかもしれないが、それは一瞬の事だった。すぐにザルームに目を戻すと、そのまま問いかける。
「様子を見てくるように頼んだのは私です、気にする必要はありません。…神殿に何か変わった事は?」
 対するザルームも、ルウェンがその場にいる事に関して問題を感じなかったのか、そのままの姿勢でその問いへ答えた。
「── 魔物が現れました」
「……」
 その答えは半ば予測していたものだった。一瞬息を飲んだ後、詳細は問わずにミルファは一番気にかかっていた事を口にする。
「姉上は…無事ですか」
「はい。詳しい状態まではわかりかねますが…ご存命なのは確かです」
「そう……」
 大丈夫だと思ってはいたが、こうして言葉で保障されると重みが違う。ほっと、無意識に肩から力が抜けた。
 もちろん、実際に無事をこの目で確かめるまでは安心するのは早いとわかってはいる。だが、ぎりぎりまで張り詰めていた緊張が緩むのはどうしようもない。
 ティレーマの無事の知らせとザルームの帰還により、ミルファはようやく心の安定を取り戻した気がした。
 続けて質問を口にしようとして── ミルファは思い直し、別の言葉を口にした。
「…まだ聞きたい事もありますが、あなたも疲れている事でしょう。まずは身体を休めなさい」
 聞きたい事は本当にいくつもある。
 神殿を襲った魔物達の事や、あの蒼い月の事、帰還が遅くなった理由。そして── ザルームをよく知ると言った、あの男との関係……。
 だが、ルウェンという第三者のいる場で問い質す事は躊躇(ためら)われた。
 予感がするのだ。ザルームがどう答えたとしても、自分の心が動揺する気がしてならなかった。…出来れば、そんな姿は誰にも晒(さら)したくはない。
 そんなミルファの心情を理解してか、ザルームはミルファのその言葉に何も言わなかった。
 そのまま再び頭を垂れ、ぼそりと退出する意を告げるとそのまま姿を消そうとする。
「── ザルーム殿」
 そこにすかさず声をかけたのは、それまで沈黙を守って控えていたルウェンだった。
「…ルウェン?」
 何事かと声をかけるミルファに視線だけで応えると、ルウェンは口を開く。
「ザルーム殿に一つ聞きたい事があるのです。…後ほどそちらに伺っても?」
 実際にはルウェンもザルームに対して、一つどころではない疑問を抱えていたが、ミルファの前である事を考え、具体的な事は避けて来訪の意だけを告げる。
「── ええ、構いません。お待ちしております」
 ザルームはその意図を推し量るかのように僅かに沈黙したものの、結局ルウェンの言葉を受け入れた。
 そして再度ミルファに向かって礼を取ると、今度こそ姿を消す。それを見届けると、ルウェンはミルファに顔を向けた。
「では私も一度下がらせて頂きます。ザルーム殿も戻られたようですしね」
「ええ。十分とは言えないと思うけれど、今の内に身体を休めて下さい」
「…それはこちらの台詞ですよ。それでは失礼します」
 そのまま一礼し、ミルファの元を退出する。
 肉体的な疲労だけばかりでなく、これだけの軍勢をまとめて動かすという精神的な疲労がミルファの身体を苛(さいな)んでいるのは間違いなかった。
 にもかかわらず、決して弱音を吐こうとはしないミルファに、ルウェンは思わず苦笑を浮かべる。
 ── そこまで全てを一人で背負い込まなくても良いのに、と。

+ + +

 ザルームに続いてルウェンが立ち去り、一人になったミルファは小さくため息をついた。
 一瞬、すぐにザルームを呼ぶべきか悩んだものの、結局は実行には移さずそのままぼんやりと急ごしらえの天幕の天井を見つめる。
 少し気が緩んだのかもしれない。何だかとても疲れた気がした。
 実際、魔物に襲われてから今まで、気が休まる時間など一切なかったし、一人になる事もなかった。
 今も、本当は気を抜いて良い訳ではない事はわかっている。
 魔物だけが敵ではないのだし、『敵』の動きを把握している訳ではない。けれど──。
(…良かった……)
 ただ、そう思う。
 怪我人がいない訳ではないし、状況が好転した訳でもないが、反乱軍の中から死傷者が出ておらず、姉も命を落とさずに済んだという事に安堵する。
 そして…ザルームが無事に戻って来た事にも。
 あの蒼い月を見た瞬間に感じた胸騒ぎは、まだ心の底に残っている。月が消えた瞬間は、恐怖に近いものすら感じた。
 ── このまま、戻って来ないのではないのか。
 そんな気がして、殊更に先を急いだ。
 …どんなに自分がザルームに精神的に依存していたかを、思い知らされた瞬間だった。
 過去を振り返れば、あの主従の誓いを交わした夜から、こんなにも長い時間、ザルームが自分の側を離れていた事はない。
 自分もザルームに側を離れる事を自主的に求める事はなかった。
(…私は、何をやっているんだろう……)
 信じきれないなどと思いながら、行動はそれを裏切っているではないか。
 心の底では、信じきっているではないか。
 ── なのに。
 どうして感情はそれを受け入れようとしないのだろう。
 どうして、こんなにも人に心を預ける事が怖いのだろう。
 それは今まで、幾度も自分に問いかけた疑問。けれど、それに対する納得出来る答えはいつも返ってこない。
 …自分の事なのに、わからない。
 心の奥を掘り下げようと思っても、途中で手応えがなくなる。恐れが心を支配する。それ以上先を探ってはならないと。
 不自然なくらいに。
 その先に求めるものがある確信があるのに。
 ── 苦しい。
「…助けて……」
 思わず唇から漏れた呟きに、ミルファは自分で驚く。気がつくと、無意識に手は胸元を握り締めていた。…縋るように。
 ミルファはそんな自分に呆然となり── やがてその目を閉じた。
 …疲れているのだ。だから少しだけ── 心が弱くなっている。それだけのこと。
 そう、自分に言い聞かせて。

 閉じた目蓋の裏に広がったのは、遠い日の春の青空だった。

+ + +

 再び空が茜に染まる頃、皇女ミルファが率いる反乱軍は目的地へと辿り着いた。
 ── 丘に囲まれた、古びた地方神殿。
 そこは昨夜の出来事などなかったかのように、魔物の大軍が現れた気配は微塵も残っておらず、何も知らない反乱軍の兵士達は何事もなかったのだと認識する程だった。
 …事実を知る者は、ごく一握り。ミルファと一部の重臣、そして当事者である神殿にいる人々だけだ。
 神殿を見下ろす地点で足を止め、ミルファは使いを出す事にした。
 皇女である自分が自ら出向こうものなら、必要以上に仰々しいものになりかねない。それによって、神殿側に必要のない気遣いをさせるのは目に見えて明らかだった。
 しかも今は、神殿には寄る辺を失ったパリルの民がいる。彼等を抱えた状態では、神殿側も普段通りには対応出来ないだろう。
 出来れば自分の目で姉の無事を確かめたい気持ちがあったが、そうした事を考慮して、失礼に当たるとは思いつつも、ティレーマにこちらへ出向いてもらうよう求める事にした。
 神殿に向かう人間も、あまり人数を出してもいけないだろうと必要最小限に限り、神殿の状況を確認する者と直接ティレーマに会い、ミルファの言葉を伝える者のみにした。
「── そんな大役を私などに任せていいんですか?」
 その直接会って交渉するという、一番重要とも言える役を任されたルウェンは困惑を隠さずにミルファへ確認した。
 ミルファの人選を否定するつもりはないが、いくら剣を預ける騎士でも反乱軍の中では新参者である。ついでに、交渉事の経験は当然ながら皆無だ。
「あなただから頼むのです、ルウェン」
 だが、対するミルファはそんなルウェンの懸念を晴らすようにあっさりと頷いた。
 物心つくかつかないかの頃から一度も顔を合わせていない姉、ティレーマへ自分の言葉を運ぶのに誰が適しているか── 考えないはずがない。
「あなたは私が直接取り立てた騎士です。兵士の中では一番私に近い場所にいます。それに……」
「…それに?」
「姉上に対して、他の重臣と違って神官である事や皇女である事で偏見はないでしょう?」
「まあ…偏見を持つほど、面識もありませんしね」
 ミルファの答えに軽く肩を竦める。確かに他の重臣達は必要以上に敬意を払いそうだと思いながら。
 今まで『神』とは縁のない生活をして来たし、東の主神殿で世話になった際に、たとえ聖晶を持っているとしても、普通の人間と一緒だと理解している。
 しかも数年に渡るソーロンとの付き合いで、皇子・皇女だから特別という意識も薄かった。敬意は払うが、度を過ぎれば無礼になるという事は知っているつもりだ。
「わかりました。何とかうまく言って、聖女ティレーマをこちらまでお連れしますよ」
 ルウェンが少し茶化した口調で引き受けると、ミルファはほっとしたように表情を微かに緩めた。
「ありがとう。…頼みます」
「剣を預ける騎士として、剣の主の頼みを聞くのは当然ですよ。…ですが、念の為に聞いていいですか?」
「何です?」
「もし、聖女ティレーマが同行を拒否なさったらどうされます」
 それは可能性としては十分考えられる事だ。
 すでに考えを固めていたミルファは、その問いかけに当然のように答えた。
「その時は私から会いに行きます。…夜陰に乗じて、忍び込んででも」
 その些(いささ)か皇女らしからぬ発言に、ルウェンは一瞬目を丸くし── 次の瞬間破顔した。
「なるほど…ミルファ様の決意の程は理解しました」
 そして目元に共犯者の笑みを浮かべると、小声で付け加える。
「その際はこのルウェン、微力ながらお手伝いいたしますよ。実行に移される時は、是非お声を」

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