天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(18)

 神殿に赴いたルウェンを含む数名は、主位神官の私室へと通された。
 本来ならば相応の部屋で、それなりの手順をもって対話が行われるはずなのだが、普段は使われない部屋という理由からパリルの民に解放しており、手順を踏むにも人手も時間も足りないと判断された為だ。
 ティレーマの体調不良を理由に、面会を渋る主位神官とのやり取りの後、何とか対面の許可を得たルウェンは、神官の一人に伴われてティレーマの元へと案内された。
 連れて行かれた先はなんと厨房で、しかもティレーマは腕まくりをし、一気に食い扶持が増えた結果、今まで以上の量が必要となった食事の準備を手伝っている最中だった。
 仮にも皇女であり、しかも聖女と呼ばれる人物である。
 そのような肉体労働に従事しているとはまったく想像もしていなかった為、ルウェンは最初、そこにいるのが目的とする人物だとしばらく気付かなかった。
 伴った神官が声をかけ、その声に手を止めてこちらを振り返った事でようやく認識する有様だ。それ程、ティレーマはその場に馴染みきっていた。
「…何か?」
 見るからに神殿の人間でも、パリルの民でもないとわかるルウェンに気付き、ティレーマは困惑を隠さずに声をかけた神官へ答える。
 初めてティレーマと対面したルウェンの感想はと言えば、『もったいない』の一言だった。
 神官という立場もあり、化粧気一つないものの、その美貌はまったく損なわれてはいない。主位神官の言葉通りまだ本調子ではないらしく、顔色は良くないが、結果としてそれはティレーマを儚げに見せていた。
 もし恋愛事が御法度の神官でなかったら、多くの求婚を受け、今頃はとっくに何処かへ嫁いでいたに違いない。
 だが、当然ながらそんな事を面と向かって言えるはずもなく。
 最初の感想は横に置いて、どう説明すべきかと言いよどむ神官に先んじてその場に膝をつくと、皇女に対する礼を取って口を開く。
「お初にお目にかかります、ティレーマ皇女殿下。私はルウェン=アイル=バルザーク…皇女ミルファ様に剣を捧げる者です」
 その口上に、目に見えてティレーマの表情が変わる。そしてその赤瑪瑙の瞳が、真っ直ぐにルウェンへと向けられた。
 ミルファの時も思ったが、ティレーマは外見的には全くソーロンにもミルファにも似ていなかった。血が繋がっている事が不思議な程に、外見的な共通点はない。
 なのに、そういう目は不思議とルウェンの知る二人を彷彿とさせた。
「…ミルファの……」
 ぽつりと呟き、ティレーマは居住まいを正した。
 まだ袖は折り曲げたままで、手は粉で白く汚れていたものの、それだけで何処か無防備にも思えたティレーマを包む空気が、ピンと張り詰めたようなものへと変わる。
 ── そこにいるのは、一介の神官ではなく、正に皇帝の血を引く皇女だった。
「ご丁寧な挨拶、ありがとうございます。ですが見ての通り、少し手が離せない状態です。しばらくお待ちくださいますか?」
 言われるまでもなく、邪魔をするつもりは毛頭もない。ルウェンは立ち上がると、頷いて同意を示した。
「構いません。いくらでもお待ちしますよ。…何ならお手伝いしますが?」
 思いついたように付け加えられたルウェンの言葉に、ティレーマは虚を突かれたように目を丸くする。
 よもやミルファからの使者が、そんな事を言うとは思いもしなかったのだろう。やがてその表情が微かに和らぎ、苦笑混じりの答えが返る。
「いくら何でも、皇女に仕える騎士にそのような事はさせられません。お気持ちだけ、受け取らせて頂きます」
 その台詞だけ見ると、それはこちらの台詞だといくらでも突っ込める発言だったが、今までそうした生活がティレーマにとっては『当たり前』だったのだと理解し、ルウェンは軽く肩を竦めるだけに留めた。
「そうですか? まあ…確かに生まれてこの方、一度もパンの生地など練った事はありませんから、下手に手伝うと逆に足を引っ張りそうですが」
 別段茶化すつもりもなく、思った通りの事を口にしたのだが、ティレーマはその言葉に小さく笑いを漏らした。
 いつの間にかティレーマの周囲にあった張り詰めた空気が消えている。
 笑われるような事を言っただろうか、と内心首を傾げていると、ティレーマは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて言った。
「特別、難しい事ではありませんよ。…やってみますか?」


 その後、触り慣れないパン生地を前に、聖女ティレーマの指示の元、四苦八苦する騎士の姿が見られたという──。

+ + +

「お陰で早く終わりました。ありがとうございます」
 結局、パン生地のみならず、その他いろいろの作業を手伝う羽目になったルウェンに、ティレーマは労いの言葉をかける。
 怒涛の食事の準備が終わり、二人は別室で向かい合ってようやく話し合う体勢を取っていた。
「いえ、こちらも非常に貴重な体験をさせていただきました」
 と、生真面目に受け答えつつも、ルウェンは疲れた笑顔を浮かべた。
「おそらく、ティレーマ殿下手ずからパン生地の練り方を習う兵士など、他にはいないでしょうからね」
 そしておそらく、粉からパンの焼ける皇女というのも他にはいないに違いない。言外にその意図を汲み取ったのか、ティレーマは苦笑を浮かべた。
「…あの、わたくしを『殿下』と呼ぶのは、やめて頂けますか」
「はい?」
「わたくしは皇女である前に神官として生きて参りました。ですから今更皇女として扱われても、何だか居心地が悪いのです。…わたくしの事はただ『ティレーマ』と呼んで頂いて構いませんから」
「え、いや…ですがそれはちょっと……」
 言わんとする所は理解出来るし、その気持ちもわからないではなかったものの、そうは言われても、である。
 いくら本人が望んでいようと、皇女であり、しかも剣の主であるミルファの姉であるティレーマを呼び捨てになど出来るはずもない。
 心底困り果てて返す言葉に悩むルウェンに、ティレーマも困ったような微笑を浮かべた。
「ごめんなさい…困らせてしまいましたね。やはり我が侭ですよね。強要したい訳ではないんです。ただ、気になって」
「…はあ……」
 取り合えず、『殿下』という尊称はつけない方がいいらしいと判断し、ルウェンは本題に入る事にした。
「── それではティレーマ様、本題に入っても宜しいですか?」
「はい。…ミルファは、何と?」
 ルウェンはティレーマにミルファから託された言葉を伝えた。
 会って話したい事、神殿側に気遣いをかけたくないので、出来ればこちらに出向いて欲しい事──。
 ティレーマは静かな表情でルウェンの言葉に耳を傾けた。
「…ミルファは、わたくしに会う事を望んでくれているのですね」
 何処かほっとした様子で呟くと、ティレーマはルウェンに頷いた。そしてまだ蒼白さの残る顔に笑みを浮かべる。
「わたくしもこれ以上、この神殿を騒がせる事はしたくありませんし、ミルファの元に行くのに異存はありません」
 その瞳に浮かぶ明確な意志を確認し、ルウェンは立ち上がるとその手を差し伸べた。
「では、御足労願います」
 自分に向かって差し伸べられるルウェンの手に、ティレーマは不思議そうな顔を見せた。まじまじと手とルウェンを交互に見つめるティレーマに、ルウェンは内心ため息をつきながらずばりと言い放つ。
 主位神官から話を聞いていなくても、しばらく様子を見ていればティレーマの状態などお見通しだ。
「立って歩くのがやっとでしょう?」
「…!!」
 図星を指されてか、ティレーマの白い顔は一瞬で朱に染まった。
 育ちが違うとこうも違うのかと思える程、ミルファとティレーマは取る言動といい、外見的なイメージといい、実に正反対だ。
 だが、この短い時間でルウェンは二人に明らかに共通している部分を見つけていた。
「じ、自分で歩けます……!」
「そうですか? じゃあ、もし途中で歩けなくなったり倒れたりしたら、問答無用で抱きかかえて運ばせて頂きますが、それでも構わないんですね」
「── ……ッ」
 益々赤くなる顔に口惜しそうな表情を浮かべると、ティレーマは仕方なさそうにその白い手をルウェンに預ける。
 その手を澄ました顔で受けながら、ルウェンは心の中で一人ごちた。
(…本当に二人揃って、プライドが高いよなあ)
 苦しくても自分の中に抱え込んで決して弱音を吐こうとしないその精神は立派だが、傍で見ている身にもなって欲しいものだと思う。
 ミルファもティレーマも、その辺りがあまりにも似すぎている。
 だが、『頑張りすぎるな』と言った所で逆効果に違いない。だから敢えてルウェンは焚きつけるような物言いをした。
「辛かったら遠慮なく言って下さい。抱えて運ぶのが嫌なら背負いますので」
「…!? そちらの方が恥ずかしいではないですか! 大丈夫です、歩けますから!!」
「そうですか…それは残念です」
 大仰に肩を竦めて見せると、ティレーマは赤い顔のままぼそりと呟く。
「…あなた、結構いい性格をしてますね」
 その口調が心底口惜しそうだったので、ルウェンに思わず素の表情になって答えていた。
「よく言われます」

+ + +

 ミルファとティレーマの対面はその日の内に行われた。
 お互いに疲労は隠せなかったが、二人が二人ともすぐに会う事を望んだ為だ。
 直接顔を合わせるのは十五年振りという姉妹ながら、互いに向き合った二人に涙の気配は一切なかった。
 部屋に入り、ミルファを見た瞬間こそ驚いたような顔を見せたものの、二人きりになるや否や、ティレーマは迎えたミルファを見据え、厳しい口調で問いかけたのだ。
「…姉として問います。ミルファ、あなたは── 本気で実の父を討つ気ですか?」
 全く似ていない姉を真っ直ぐに見返し、ミルファは静かに肯定した。
「はい」
 その何処か思い詰めたような瞳をじっと見つめ、ティレーマはそのままミルファの方へと歩み寄った。
 そして今度は幾分口調を和らげて言葉をかける。
「それが罪だとわかっていても?」
「承知の上です。私は…お父様を討ちます。この手を血に染めてでも」
 手を伸ばせばすぐに触れ合える位置で、しばらく二人は見詰め合った。
 まるでお互いの心の内を探り合うかのように、その視線は絡み合ったまま、どちらも反らそうとはしない。
 しばしの沈黙。
 やがてそれを破ったのは、ティレーマだった。
「…ばかね……」
 口元に浮かんだのは、労わるような微苦笑。…そして。
「…!?」
 ぎょっとミルファが目を見開く。それ程に、ティレーマが取った行動はミルファをひどく驚かせた。
 柔らかな温もりが自分を包んでいる。姉が自分を抱きしめている為だと理解するのに、しばらく時間がかかった。
「…姉上……?」
「…来てくれてありがとう、ミルファ。そしてごめんなさい…わたくしはあなたを誤解していました」
「誤解……?」
「ええ」
 答える声が耳元でしたかと思うと、ティレーマの身体が離れた。
「あなたの真意が今までずっとわからなかったから……。関係のない人々を巻き込んで、多くの血を流して── 自分の命可愛さにそうしているのなら、とても許せないと思っていました。でも……」
 直接会ってから交わした言葉はほんの僅か。
 それでもティレーマはミルファがそんな事を目的として動いている訳ではないと理解出来た。
 笑う事も涙も忘れたその顔で、ミルファが内に抱え込んだ痛みや絶望がどれ程深いのか、多少なりとも伝わって来たのだ。
 このような表現をするのはミルファに対して失礼かもしれないが…まるで寄る辺を失った迷い子のようだと思った。
「…違うのね。あなたは今でも、お父様を愛しているのね── こんな仕打ちを受けても」
 それはきっと、ティレーマ以外の人間が言ったなら、否定したに違いない言葉。そして同じ血を引いているからこそ、出てきた言葉でもあった。
 凍りついたような表情のまま、ミルファはまじまじと姉を見つめ── やがて消え入るような声でぽつりと、はい、と呟く。
「── 憎めないのです。憎めたら、どんなに楽かと思うのに……憎めない。今でも、まだ心の奥で思っているんです。これはきっと、何かの間違いだって……」
 けれど同時に、それが夢ではなく現実なのだとも理解している。もはや皇帝がこの世界のあらゆる人から必要とされていない事も。
「…もう、これ以上お父様に罪を重ねて欲しくない」
 だからこそ。
「お父様を討つ事でこれ以上の行いを止める事が出来るのなら…私は罪人になっても構わない」
 血を吐くような告白に、ティレーマは表情を改める。ミルファの決意の深さに、ティレーマも心を決めていた。
「ミルファ。…わたくしに出来る事はありますか?」
 宥めるような囁きに、ミルファはしばらく驚いたように姉の顔を見つめ── やがて縋るような声がミルファの口から漏れた。
「…── 見届けて、下さい」
 他には何も望まない。ただ、側で見届けて欲しい。自分がこれから歩む道を──。
 その願いを受けて、ティレーマは安心させるように頷いた。
「…必ず。約束するわ」
 誓うように告げ、もう一度妹の身体を抱きしめる。…励ますように。
 ミルファもまた手を伸ばし、おずおずと姉の身体に手を回す。
 ── 長い事触れる事のなかった人の温もりは、何故だかとても懐かしい感じがした。



 第三章 聖女ティレーマ(完)   第四章へ続く

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