見上げた空に浮かぶのは、青褪めた月。
星一つない空に君臨するその姿は、今にも消えうせてしまいそうな儚さだ。
天を覆うのは、濃い灰色の分厚い雲。何層にも重なり合うそれは、さらに月の輪郭を曖昧にし、その光を散らし、周囲の闇を深めている。
それはついこの間見た夜空とは余りにも違っていて、かえって現実感を呼び起こした。
── ここが、自分の居場所なのだと。
彼は小さくため息をついた。羨望ではなく、淋しさの混じったそれを耳をする者は誰もいない。
そう…誰一人。
その現実は認識する度に彼を打ちのめし、やり場のない感情ばかりが胸に蟠(わだかま)る。
叫びだしたいような感情を持て余しながら、焦る必要はないと自分に言い聞かせた。
(そうだ…まだ終わっていない。何一つ)
全てが奪われた訳ではない。
全ての手段が失われた訳でもなく、希望もある。
取り戻せないものがあるのは事実だが、失われたいくつかはこれから取り戻せるはずだ。
『── 我が主に、玉座を』
あの神官の少年が、命を代償に『闇の王』を呼び出したその時に。
運命は、彼に味方した。そうとしか思えないタイミングだった。
もちろん、それでも道は容易なものではない。たとえるならそれは、暗闇に差し込んだ一筋の光のようなもの。
見失えば二度と見つからないようなものに過ぎないが、それでもそれは絶望の中にあった彼にとっては何よりの僥倖(ぎょうこう)だった。
(…諦めて堪るか)
状況を打開する方法が見つかった今、なりふりなど構ってはいられない。
利用できるものは利用する。それが何であろうと──。
…── ズォオオオォォ……
その時、不意に地響きと共にぐらりと大地が傾いだ。
それはすぐに治まるが、大気を通じて周囲の動揺が伝わって来る。直に彼の元にも、状況を報告する為に人がやって来る事だろう。
日に日に増す地震。晴れる事のない雲。影響は静かに、けれど確実に出始めている。
人々が不安に感じるのも無理はなく、実際これが異常事態である事を彼は知っていた。その切っ掛けが──
自分にある事も。
それでも彼は真実を告げず、ただ人々を根拠のない言葉で安心させる事しかしない。真実を知れば、人々が恐慌状態に陥るのは目に見えて明らかだからだ。
…そうでなくても言えるはずがない。この地震が、世界が滅びつつある前兆だなどと──。
(だから、王になんてなるつもりはなかったのに)
その道を選ばなければ、こんな事にはならなかったかもしれない。それでも選んでしまった以上、王として生きてゆくしかない。
第一、王となった事を後悔はしていないのだから。
『…あなたなら、やれます』
誰一人言ってくれなかったその言葉を、言ってくれた人の為にも。
「失敗はしない……」
黄金の瞳に決意を宿らせ、彼は低く呟く。
(必ず、この賭けに勝ってみせる)
その為に、出来る範囲でいくつか布石は打った。
『敵』は正攻法で勝てる相手ではない。少しずつ、焦らずに──
自分を見失う事なく追い詰めなければ。
だが、一つだけ不安要素があった。ふと思い浮かんだローブ姿に危惧を抱く。
(…ザルームの奴、かなり侵食されてきているな。あれだけの術を使えば当たり前だけど──)
以前の忠告を守って呪法こそ使わなかったが、今度は大掛かりな召喚型呪術を使っていた。
これでは一体、何の為に『契約』で縛ったのかわかったものではない。
(あの状態じゃ…いつかは本当に──)
再び彼はため息をつく。
きっと本人もそれはわかっているに違いない。わかっていて…それでも契約を超える術を使うのをやめはしないだろう。
自分の命すら投げ出して、術を使ってしまうのだろう。──
ミルファの為に。
ばかだと思う。いくら尽くしても、報われないのに。
けれど彼は愚かだと思いながらも、その行いを強制的に止めたりはしない。それは自分自身もまた、ザルームと大して変わらない『ばか者』だと自覚しているからだ。
「まだ、死ぬには早い」
届かないとわかっていながらも彼は呟く。
「まだ…これからだろう?」
そう、勝負はここからなのだ。ザルームは契約を果たす為に。自分は…取り戻す為に。
遠くで彼を呼ぶ声がする。先程の地震の件だろう。
彼は一度思いを込めて月を見つめると、今度はどう言って人々を宥めようかと考えながら、人気のない廊下を歩き始めた。
+ + +
── 暗い……。
何かの音が聞こえてくる。…水音──
雨が降っている。
大地を激しく打ち付ける音がすぐ近くから聞こえてくる。風も悲鳴のような音を上げ、まるで嵐のようだ。
周囲はまるで目隠しをしたような闇。
夜だとしてもここまで真っ暗など有り得ない。何故かと考えて、ああそうかと納得する。
目を、閉じているからだ。
まるで頭の中だけが目を覚ましているような、そんな感覚。身体だけが外の音を余所に眠っている。
これだけうるさいのに目を覚まさないなんて、ちょっと問題がある気がしないでもない。
呑気に寝ている場合ではない気がするのに──。
「…ミルファ……」
聞こえてきた呼びかけるような声に、思考が途切れる。
(この、声は……)
懐かしい声だった。
そう言えば、数月ばかり彼の夢を見ていない。
だが、懐かしさは感じず、何故か強い違和感を感じた。
チャリ、と小さく金属の立てる音。目の前に人がいる気配を感じた。そこに、彼がいるのだろうか。
けれどどんなに願っても身体は言う事を聞かず、目は開かない。
「…感傷、かな」
やがて再び聞こえた声は、自嘲するようなもので。
何故だか不吉な予感を感じて、キリ、と胸の奥が痛んだ。
(これは── 夢、なの……?)
そう思いつつも、心の何処かが否定していた。これはただの夢ではない、と。
「……ッ!」
そして、まるで痛みを耐えるような息を詰める声がして。彼は何処かで耳にしたような、言葉の羅列を紡ぎだす。
「…メイ…カリェン…ダルーナ・マティオス……」
震える声は苦痛に耐えるものなのか、それとも別に理由があるのか。
もどかしい思いで必死に目を開こうとする。
早く── 早く目を開かなければ。
そんな焦燥感に支配される。そうしなければ、何かとても大切なものが失われてしまう、そんな気がして。
「グリナ…ラーナ・セルヴ…──」
けれどやはり目は開いてくれない。
(どうして…私の身体でしょう! 言う事を聞きなさい…目を開くの、開きなさい!!)
焦燥感はやがて恐怖に変わる。
(早く…止めなきゃ── !)
目が開かないのなら、せめて声だけでもと思うのに、咽喉も凍りついたように意識の命令に従わない。
そして── 最後の言葉が紡がれる。
「…カリェン・イ・ウェルシュ・ムーザ…イスト・ケルプ・ラーナ・ソアラ!!」
ざわ…っ、と悪寒が走った。
同時に感じたのは、間に合わなかった、という絶望感。
キィキィ、と動物が鳴くような耳障りな声がして、彼は聞きたくなかった一言を口にした。
「── 我が主に、玉座を」
瞬間、意識が途切れる。
そして次の瞬間、周囲の様子が目に入った。あれ程頑なに開かなかった目が、嘘のように周囲を映している。
まず目に入ったのは薄暗い── 今にも崩れ落ちそうな廃屋。
そして──。
(…嘘よ……)
目の前に、誰かが倒れていた。
白い、服。濡れそぼって土で汚れているものの、それが何を職業とする者が身に着けるものかわからないはずがない。
力なく幾分不自然な体勢で倒れたその人物の首の辺りが、黒く染まっていた。
否── 黒ではない。闇に漂う、錆びたような匂いはそれが実際には何の色をしているのかミルファに教えた。
じわじわと、白い服が染まってゆく。生命の色に。
思わず目を反らし、ミルファは自分の膝の上に置かれた物を見つけて硬直する。
(…聖…晶……──)
それは持ち主の身を、命の危険から守るはずのもの。そこにあってはならないはずのものなのに。
微かに光を帯びていたその空色の石は、ミルファが見守る中で急速にその色と光を失ってゆく。
(あ…あ、ああ……)
胸の奥から、何かがこみ上げてくる。
やがてそれは凍りついた咽喉を溶かし、形となった。
「…っ、いやああああああああ!!!」
+ + +
「── ッ」
声にならない悲鳴を上げて、ミルファは目を覚ました。
一瞬、自分が何処にいるのかわからず、呆然と天井を見上げながら荒い呼吸を繰り返す。
(…夢……)
じっとりと嫌な汗を手で拭いながら、ミルファはそろそろと身体を起こし、周囲を見回した。
質素な、必要最小限のものしか置かれていない部屋。
それがパリルの宿の一室である事を思い出し、ミルファは深く息を吐き出した。
(今のは…何……?)
夢を思い返してみる。
闇の中で聞こえた声と床に倒れていた姿は、確かに彼女が今も会いたいと切望する人物のものだった。
「…ケアン……」
冗談ではないと思う。
あれではまるで── 彼が死んでしまったかのようではないか。
はっと気付き、首から下げた鎖を引き上げる。そこに下がった聖晶は微かに光を帯びて、空の色を保っていた。
思わずほっとする。これでもし、その輝きが失われていたら。
…想像するだけでも嫌だ。
だが、今のが単なる夢だと片付ける事も出来なかった。何故なら──
夢に出てきたあの廃屋を、ミルファは知っているからだ。
あれは、そう…ザルームと初めて会い、主従の誓いを交わした場所だった。
(…どういう、事……?)
目を覚ました時、あの場にはザルームしかいなかったはず。けれど、思えば不思議ではあるのだ。
あの廃屋で目を覚ますまで、ミルファの中に記憶はない。
確かにその前まで、帝宮の南の離宮にいたはずだが、その時の空は晴れていた。血のように赤い月を覚えている。嵐の気配など、何処にもなかった──。
…何かが、おかしい。
もし、今見た夢が── 実際に遭った出来事だとしたら?
けれどミルファはそれ以上考える事は出来なかった。
ぎゅっと聖晶を握り締め、そんなはずはないと必死に打ち消す。けれど脳裏には、夢に出てきたあの痛ましい姿が刻み込まれ、いつまで経っても消えようとはしなかった。
まるで、それこそが真実であると訴えるように。