天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(18)

 その日は、目が覚めた時から何か胸騒ぎがしていた。
 ── 何か、よくない事が起こるような。
 そうは感じても、外に広がる空はいつものように青く澄み、窓を開ければ爽やかな風が吹いていて。
 その心地よさを感じている内に、胸騒ぎのようなものも気のせいだったように思えてきた。
 …あれから、ケアンとは一度も顔を合わせていない。
 あの日の言葉どおり、彼の訪れはぱったりとなくなった。元より、今日明日で事態が変わるなど思ってはいないけれど。その事を考えると、淋しさと後悔は募る。
 せめて── 一言でも謝れていたらと思う。
 結果は変わらずとも、もっと違う別れ方が出来たのではないかと、思わずにはいられない。
 それでも、過去をやり直す事など出来ないとわかっているから、今やれる事をやるしかない。
 いつかまたケアンと会う事が出来た時、彼から教えを受けた者として恥じない者になること、それだけが今のミルファに出来る事だった。
 ── ミルファは、変わった。
 元々、読書自体は嫌いではなかったが、目に見えてその読書量は増えた。
 暇があれば図書室に籠もり、内容を問わずに興味を抱いたもの全てに目を通して行く。
 十二になるまでは南の離宮を元気に駆け回っていたのが、今ではすっかりなりを潜め、少しずつ母である南領妃を想わせる落ち着きを身に着けていった。
 …今ではもう、ミルファの事を『わがまま姫』と呼ぶ者は一人もいない。
 それは決して良いばかりの変化ではなかっただろう。それでも、サーマを筆頭に多くはそんなミルファを何も言わずに見守った。
 それは下手な慰めよりも、遥かにミルファにとって救いとなった。
 やみくもに何かに熱中する事で、胸の奥にある淋しさが紛れる。余計な事を考えずに済む。
 ── それも一つの逃避だとは、自覚していたけれど。
 そして今日も図書室に向かったミルファは、昨日途中まで読みかけたままの本を開いたものの、数頁ほど読み進めたところで、ふと視線を上げた。
(……?)
 何だか少し騒がしくなったような気がするが、まだ昼前で、時刻的にサーマが戻って来たにしては早すぎる。
 主であるサーマが皇宮に出ている時に、この離宮へ来客があった事は過去にはない。
 十二の年を迎えても、まだ表立って何かしらの役職を持つ訳でもないミルファを、訪ねて来る者がいるはずもなく。
 ── それまでの唯一の例外であったケアンが、ここを訪ねる理由はもうなく。
 人が慌しく行き来する気配が一度気になると、読書を再開してもどうも集中出来ない。
 早々に諦めたミルファは本を閉じると、図書室を後にした。

+ + +

「メリンダ、何かあったの?」
「まあ、ミルファ様」
 途中でサーマ付きの女官を見かけて声をかけると、メリンダはそのふくよかな身体を軽く屈めて略式の礼を取ると、サーマが戻って来た事を伝えた。
「お母様…? でも、今日は夜遅くまでかかりそうだと……」
「ええ、その予定だったらしいのですけどもね。…それが、陛下が体調を崩されたとかで」
「え? …お父様が?」
 それはミルファにとっては、晴天の霹靂に等しい言葉だった。
 今まで病気らしい病気にも罹(かか)らなかった人だけに、よもやそういう事態が起こるなど想像もしていなくて。
 皇帝である父とも、十二の祝宴以来顔を合わせていなかったが、元々頻繁に会う事のなかった人だ。
 普段はそういうものだと割り切っているものの、心配にならないはずがない。
「それで、お具合は?」
 心配を隠さずに口早に尋ねると、メリンダは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫でございますよ、ミルファ様。今日は大事を取られるそうですが、あれだけお忙しい方ですもの。ちょっとお疲れになっただけです」
「…そうよね」
 言われてみればそんな気もして。
 あからさまにほっと表情を緩めるミルファに、メリンダは励ますように殊更明るい声で繰り返した。
「そうに決まっておりますとも。このメリンダが保証いたします」
 どん、と胸を叩く仕草が可笑しくて、ついミルファが笑い声を上げると、メリンダも嬉しそうな笑顔を見せた。
(…やはり、ミルファ様は笑っておられないとね)
 ほんの少しまでは笑顔が絶えない勝気な少女だったのだ。
 だからこそ、ここしばらく見ていなかった笑顔が見えた事は、ミルファを見守っていた人間の一人であるメリンダには、ほっとする出来事だった。
 そうでなくても多感な年頃の今、どんな子供でも笑顔が消えている状態は、メリンダには不自然で危うい気がしてならない。
 皇女の身分を考えても、落ち着きを身に着ける事は決して悪い事ではないが── 。
 そんな事をメリンダが考えているとは知る由もなく、ミルファはすぐに表情を改めてしまう。
「…お母様は何処に?」
「サーマ様なら自室に行かれましたよ。今日はもう執務どころではないだろうから、と」
「そう、ありがとう。…今から部屋を訪ねても構わないかしら?」
「もちろんですとも。何を遠慮なさっているのですか。親の元を子が訪れる確かな理由など必要ですか?」
 今までならそのまま走り去っていたであろうミルファの、ぎこちない遠慮にメリンダはあえて呆れたような口調で答える。
 ミルファ相手でなければ、不敬にも当たる事は承知の上だ。サーマやミルファの気性をよく知るからこそ、言える言葉でもあった。
 離宮勤めともなると、基本的に家族ぐるみで皇宮に仕える事が常だ。広大な皇宮の敷地内にはそうした人々の住居も数多く建てられており、ちょっとした街並の規模がある。
 皇宮の外にこそ出る事は少ないが、逆に皇宮内の情報には事欠かない。当然ながら、他の離宮での話もよく耳に入る。
 たとえば、北の離宮では主である北領妃エメラが床にいる事が多い事もあり、何処かひっそりとして活気がないという話。
 たとえば、東の離宮では次期皇帝と目される皇子・ソーロンが年頃になってきたので、母である東領妃がその皇妃にふさわしい相手を、と本人の意向を無視して探し回っているという話。
 たとえば、西の離宮ではちょっとした事でも悲観的になりやすい西領妃の相手に、実の娘の皇女でも手を焼いているという話。
 ── そうした話を聞くにつけ、南の離宮が他とは少し違う事がよくわかる。
 南領妃サーマは、その身分ならば当たり前に受けるであろう敬意を嫌う傾向がある。
 新米の使用人であっても直接声をかけるし、多少の粗相があったとしても笑って許してしまう。むしろ逆に、そうした機会に離宮で働く上での問題点を尋ねてくる事すらあった。
 もちろん失敗全てを許容する訳ではないが、自分が皇妃であるからと仕える者を見下したりは決してしない。
 そして皇宮では当たり前のように使われ、むしろ主人に何か問われたらそう答えるようにと仕込まれる返事、『わたくしどもにはわかりかねます』という決まり文句が通用しない。
 一介の使用人に自主性を求める皇妃など、長い皇宮の歴史ではかなり稀な存在に違いなかった。
 最初の頃はあまりにも『一般的な皇妃像』とかけ離れていた為、面食らったものだ。
 その娘である皇女ミルファも、そんな母の血を引き、そうした姿を見て育った為か、女官であろうと下働きであろうと構わず話しかけ、そして対等の相手をする事を求めてくる。
 ── 本来なら、嗜(たしな)めるべきなのだろうとメリンダは思う。
 サーマはさておき、ミルファはこの南の離宮以外の場所とそこに確固としてある主と使用人の間にある壁を知らない。
 将来、南の離宮の外へと出る事になった時、今までのやり方が通用しない事でいらぬ傷がつくのではないかという心配もある。
 だが、結局いつもメリンダはサーマやミルファに対して、失礼にならない程に親身に接し、自分の言葉で自分の意見を口にしてしまうのだった。
 心のこもらない言葉にどれほどの意味があるのか── かつてサーマが口にした言葉が、いつも耳に残っているからだろう。
 ただ何故か、それだけ印象に残っているのに、その言葉をいつ耳にしたのか思い出せない。
 物覚えは良い方だし(だからこそ南領妃付きの筆頭女官になったのだ)、何より年下ながらも敬意を抱くサーマの言葉だ。
 恐らく、まだミルファが生まれていなかった頃だとは思う。
 些細な事だったのかもしれないが── 同時にとても重要な場面だったような気もするのだが……。
「そうね。そうよね。でも…何故か、今、行っていいのか迷ってしまったの」
 ミルファの苦笑混じりの言葉にはっと我に返る。メリンダは慌てて安心させるように顔に笑顔を貼り付けた。
「気にしすぎですよ、ミルファ様。むしろミルファ様のお顔を見れば、サーマ様も和まれる事でしょう。…後ほど、お茶をご用意します。久し振りにお二人でお過ごしになられては?」
 その提案に、何処か翳りのあったミルファの顔に再び笑顔が戻る。
「そうね、そうするわ。よく考えたら、お母様とゆっくりお話するのって久し振りだもの」
「ええ、それがよろしいですとも。すぐにご用意してきますからね。ミルファ様のお好きな焼き菓子と、サーマ様のお好きなお茶をね」
「うふふ…ありがとう、メリンダ」
「これくらいお安い御用ですよ」
 再びどんと胸を叩くと、ミルファは笑いを零した。そして一度頷くと、小走りとまでは言わないものの幾分早足でサーマの私室に向かう。
 そんなミルファを見送り、メリンダはほっとしたように微笑んだ。
 ── 南領妃サーマは、一部では未だに『出過ぎている』だの、『皇妃という立場を勘違いしている』だのと、否定的な目で見られている。
 女の身で望んで政治の世界に足を踏み入れるなど── メリンダにはとてもではないが出来ない事だ。よく知らない世界であっても、そこ針の筵(むしろ)であろう事は容易に想像がつくからだ。
 恐らく、メリンダの知らない所でサーマは幾度も傷付いただろう。
 それでもサーマが今の場所に立っていられるのは、誰でもない、血を分けた娘であるミルファがいるからだと思う。
 長くサーマの側に仕えていればよくわかる。
 ミルファと接する時にだけ、その表情は母親のものになるだけでなく、張り詰めていたものが緩んだような、穏やかなものになるのだ。
 それはおそらく、『南領妃サーマ』しか知らない者が見れば、目を疑ってしまうのではないかと思える程に顕著なものだ。
 心の拠り所── サーマにとって、ミルファは明らかにそう呼べる存在に違いなかった。
「…さ、急いでお茶の支度をしないと」
 皇帝の体調不良という自体は、決して歓迎されるものではないが…激務なのはその片腕として働くサーマとて同じだ。
 折角の機会である。親子水入らずでのんびり過ごしてもらいたい、メリンダは心からそう思い、ミルファが向かった方角とは逆の方角へ足早に向かった。

+ + +

 思えば、こんなに明るい時間からサーマの私室を訪れるのはかなり久し振りの事だった。
(…何だか、おかしな感じだわ)
 扉を前にして、ミルファは自分の感じる違和感に苦笑を浮かべた。
 市井の事はまったく知らないが、それでもそんな事で違和感を感じる子供はそういないだろう、と思う。
 ただ、母親に会うだけなのに。メリンダも言っていたではないか── 親の元を子が訪れる確かな理由など必要ですか、と。
 ミルファは自分にそう言い聞かせると、サーマの部屋の扉を叩いた。
「お母様、ミルファです。入ってもよろしいですか?」
 しばしの沈黙。やがて扉の向こうから入室を促す声が返って来る。中に入ると、幾分寛いだ服装に改めたサーマがミルファを迎えた。
「あの、お父様が…体調を崩されたと聞いたのですが」
「ええ…この頃お忙しい日が続いていましたから。疲労が一気に出てしまわれたのね。医師の診断では、しばらく安静にしていればすぐに元気になるだろうという事よ」
 メリンダと同様の事を答えつつ、サーマはミルファに椅子を勧める。
 それに従い、腰を下ろしながらも、ミルファは何だか落ち着かない気持ちが治まらなかった。
 胸騒ぎとでも言うのだろうか? 今朝感じたものと同じものが身体を支配する。
 ── 何かが、起こるような。
「お母様── 」
 それを訴えようとして、ミルファは言葉を飲み込んだ。
 前の席にやはり同様に腰を下ろしたサーマの表情が、いつになく暗い翳りがあるように思われたからだ。
「…ミルファ?」
 途中で言葉を飲んだミルファに、サーマが不思議そうに言葉を促す。
 何でもありません、と答えるにはいささか不自然な呼びかけである事はミルファにも自覚があった。
 何か言わなければ── そう思った先に、口をついて出たのはこんな言葉だった。
「…あの、お父様の側に着いていらっしゃらなくても、いいのですか?」
 無意識に出たものながらも、それは確かに心の何処かに引っ掛かっていた疑問だった。
 もっと小さい頃、幾度かミルファも風邪をひいたりして寝込んだ事がある。そんな時、サーマは激務の合間を縫って様子を見に来てくれた。
 ── その時感じた安心感は、どんなに親しくとも女官達では得られなかったもの。
 その事を思い出しつつ、サーマの答えを待つと、サーマはしばらく沈黙した後、苦笑いを口元に浮かべた。
「…ミルファ、陛下にそのような事をする必要はないのよ」
「え?」
 やがて返った言葉は、何処か自嘲のようなものを含んでいるように感じて、ミルファは耳を疑った。
 今までそんな風に、この母が言葉を口にするのを聞いた事がない。
「たとえ側に着いていたいと思っても…それは許されない事なの」
「…どうしてですか?」
「それはね、ミルファ…あなたのお父様が『皇帝』だからよ」
「── よく、わかりません。どうして皇帝だと、具合が悪い時に側にいて差し上げる事が許されないのですか?」
 何だか、とても理不尽な事のような気がする。
 皇帝と言えども、人間なのだ。病気の時に苦しさを感じるだろうし、子供ではないけれど、心許なさを感じる事もあるのではないだろうか?
「違うわ、ミルファ」
 そんなミルファの考えを見透かしたのか、サーマは静かに否定した。
「…逆なのよ」
「逆……?」
「── 陛下がいらない、とそう仰(おっしゃ)るの。…側に着く事だけでなく、心配する事すら許して下さらない。わたくしに限らず、わたくし以外の皇妃にも、側仕えにも…自分に厳しい方だわ。…時々、憎らしいほどに」
 そしてサーマは、何処か淋しげな表情で薄く微笑んだ。

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