天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(19)

 それは約束。
 そして── 他の誰にも話せない秘密。
 けれど本当は、心の何処かで望んでいたのかもしれない。
 その秘密が誰かに暴かれる、そんな時が訪れるのを。

+ + +

「…サーマ、折り入って頼みがあるんだが……」
 彼がそんな事を口にしたのは、覚えている限りでは初めてのこと。
 サーマは正直、驚きを隠せなかった。
「いきなり、何を言い出すのですか。陛下?」
 彼── 皇帝は、サーマの夫である以前に、この世界の支配者という立場にある。
 飢える事も、寒さに凍える事もない。
 本人の希望により、贅を凝らした生活ではないものの、手にするものも口にするものも、そして目にするものも、吟味に吟味を重ねた上質のものだ。
 多くの人が彼が満たされた生活を送っていると思っているし、またそれは確かに真実ではあったけれど──『皇帝』の名を背負った彼に、人々が思うほどの権限も自由もない事をサーマは知っていた。
 そう…仮にも妻である自分に対して、堂々と頼み事をする事も出来ない程に。
 『皇帝』は為政者であるものの、その発言力は公にしか通用しない。
 否、公でも全てが通じる訳でもなく、彼が『是』と言ったからと言って、全てが変わる訳ではない。
 皇帝もまた、人間である。だからこそその一点に権力を持たせてはならない── 。
 それが遥か昔、初代の皇帝となった人物が遺した言葉だという。
 そしてその言葉は、数千年にも及ぶ時を超え、今もまだ守られ続けているのだ。
 だから彼は何かを強制させるような事は、余程の事でなければ口にはしないし、ちょっとした頼み事すら覚えている限りではされた事がなかった。
 そんな皇帝が人目を忍ぶようにして、『頼みがある』などと言ったのである。これを驚かずに何に驚けと言うのだろう。
 事態を深刻に受け止め、神妙な顔になるサーマに、皇帝は慌てたように口を開いた。
「い、いや…その、大した事ではないんだが」
 大した事ではない、と言いつつも、皇帝の表情には若干の緊張がある。あまりにも── らしくない。
 益々困惑したものの、黙って彼の言葉を待つ。
 常になく皇帝は言葉に迷っているようだった。視線も少々落ち着きがなく彷徨い、サーマの目を見ようとはしない。
 こういう様子の人間を知っている、とサーマはぼんやりと思った。
 遥か南の地、そこで暮らしていた頃の記憶。
 今でこそそんな素振りはないが、弟のジュールは子供の頃は結構な悪戯好きで。
 多くは笑って済ませられるような、他愛のない悪戯だったけれど、時折それだけでは済まないような事も当然しでかしていた。
 ── 今の皇帝の様子は、そんな父に叱られるのを恐れて挙動不審になっていた弟の様子に酷似している…気がする。
(…何か、心にやましい事でもおありになるのかしら……)
 ふと考えて、すぐにまさかと自分で否定する。
 仮にも皇帝に対してそんな風に考えるのは不敬に当たるだろうし、第一、心当たりが一つもないのだ。
 側に仕える時間は決して長いものではない。それでも、近くで見ていれば自ずと見えてくるものはある。
 何事も即断で率直な皇帝が決して考えなしではない事も知っているし、無体な行動を取るように見えて、その実、最低限の一線を越える事は決してしない事も。
 そう── 一生に関わる選択を一方的突きつけておきながら、ちゃんとその裏に逃げ道をも作ってくれている…そんな人だ。
 だからおそらく、彼がこれほどまで言いよどむ『頼みごと』も、口にしてしまえば実際は他愛のない事なのに違いないとサーマは思う。
「陛下。わたくしに…何か仰りたい事があるのでしょう?」
「う、うむ…」
「ご安心下さい。ここには今、わたくししかおりません。言葉を選ぶ必要が何処にございますか?」
 安心させるように言葉を紡げば、皇帝はじっとサーマの顔を見つめ── やがて、ぼそりと呟く。
「確かにそうなんだが…我ながら、何故こんなに気を使うのか果てしなく謎だ」
「…それ程に、言い辛い事なのですか?」
「そういう…訳ではないような気がするんだが…多分、今まで切っ掛けが掴めなかったせいで、思い切りがつかんのだと思う」
 自分の事だろうにまるで他人事のように分析する皇帝に、サーマは内心呆れもしたものの、この人にも思い切りがつかない事があるのだと、新たに知った彼の一面に軽い驚きを感じていた。
 それが表情に出ていたのだろうか、皇帝はふと微苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「意外そうだな? サーマ」
「え、いえ…そんな訳では……」
「私も一応、人間だ。迷う事くらいある。まあ…今の自分は確かに、少々らしくないと自分でも思うが」
 やがてその目が自分の顔から下がり、丁度腹部の辺りに向けられた。
 無意識に自分の手もそこに動く。まだほとんど目立たないが、そこには確かに小さな命が宿っていた。
「…本当に、そこにいるんだな」
 何処かしみじみとした物言いに、サーマは首を傾げた。
 今の口調では、まるで長年子に恵まれず、ようやく初めての子を持った男のようで。
 すでに六人の子を持つ父親でもある彼の言葉にしては、少々奇異に感じられた。
「陛下…?」
「頼みというのはだな、他でもないその子の事だ」
「え?」
「…その、だな。子に名を付けさせて貰いたいと思ったのだ」
「名を…?」
 やはり何処となく歯切れが悪い口調で切り出されたのは、全くサーマが予想もしていなかった事だった。
 思った通り、実際に口にすると他愛のない事だった訳だが── よもやこんな頼み事とは。
「何故、と聞いてもよろしいですか?」
 疑問を隠さないサーマに、皇帝は小さくため息をつき、渋々と口を開く。
「…実はな。今までもずっとその機会を窺(うかが)っていたんだが…エメラもトゥリエもアーチェも、私が話を切り出す前にとっくに名前を決めていて……」
「── 機会を逃し続けた、という訳ですか」
「そういう事だ。まあ…、一人だけ名付けて変に問題にされては困るからな。今までは自分でも最終的には自粛してきたんだが」
「まあ……」
 それはそれで仕方がない話だろう、とサーマは同情を込めて思った。
 子は余程の事情がない限りは母の姓を継ぐのが一般的である。
 故に、市井では命名は父親がつける事が多いが、皇家においては母である皇妃が名付ける事が普通だとサーマもすでに聞いていた。
 当然、自分以外の皇妃達も子を身籠る以前からそのような話を聞いていただろうし、聞き及んだ彼女達の気性を考えるに、父である皇帝の意向などないものと思って名を決めてしまったに違いない。
 当たり前だと思ってのその行動は、誰にも責められはしない。皇帝もそう思ったから、今まで自粛してきたのだろう。
 かくいうサーマも、皇帝が言い出さなければ、特に相談もせずに自分で生まれてくる子の名を付けただろうから──。
「その理屈で行くと…この子にだけ名を付けるのも、問題になるのではありませんか?」
 彼の心情は理解できたものの、その部分が気になって確かめると── 皇帝は視線を僅かに逸らしつつ、ぼそりと呟く。
「…だから、折り入って、と言ったんだ」
 居心地の悪そうな、それでいて何処か開き直ったその言葉にサーマは呆れた。
「こっそり、という事ですか?」
「── やはり、駄目か」
「駄目とか、そういう問題ではない気がするのですけど」
「…だよなあ……」
 たかが、自分の子供の名を付けるか付けないかの問題。
 恐らくそれは、とても些細な問題に違いなかった。普通の夫婦なら── お互いに譲り合って、話し合って…それで片付く問題だ。
(…本当に、『皇帝』とは不自由な立場ね……)
 口にすれば不敬にも取られかねない事を考えつつ、ふとサーマは疑問に思った。
 そんな些細な事に、彼は何故こんなにも執着を見せているのだろうかと──。
「陛下」
「何だ?」
「…そんなにも、付けたい名前がおありなのですか?」
 サーマの問いかけは皇帝の虚を突いたらしく、彼は驚きを隠さない顔を見せた。
 やがてその顔は、何処か悪戯を思いついた子供のような笑顔になる。
「頼みを聞いてくれるのか、サーマ?」
「それとこれとは別です── と言いたい所ですけれどね。…先程申し上げたでしょう。ここには今、わたくしと陛下しかおりません。知る者がいないのなら…それは秘密にもなりはしません」
 この場にいる二人が口を閉ざせば、このやり取りはなかった事になる。
 それが苦し紛れの言い訳とそう変わらない事は承知の上だったけれど──。
「詭弁だな、サーマ。…だが、感謝する」
「感謝されるような事はしておりませんよ。…それに、陛下。簡単に名付ける権利をお譲りするつもりもありませんから」
「何?」
「まだ、男児が生まれるのか女児が生まれるのかわかりません。陛下がそれほどまでに付けたい名は、どちらのものでしょう?」
「…男、だな」
「では、生まれてくる子が男なら陛下が、女ならわたくしが…名付けるというのはいかがです?」
 サーマの奇妙な譲歩に、皇帝は呆気に取られた顔を見せ── やがて仕方ないな、という表情で頷いた。
「サーマ、そんな条件をつけるという事は、お前も付けたい名があるのか?」
「ええ」
 その問いかけにサーマは笑顔で答え、珍しく見せたその笑顔に、皇帝は軽く目を見張る。
 彼が何に驚いたのか理解せず、サーマはそっと下腹部を撫でながら続けた。
「前から決めていたのです。もし、子が生まれる事があるのなら…と。…陛下は何と名付けるおつもりなのですか?」
 さりげなく探りを入れると、皇帝はにっこり笑ってはぐらかした。
「はは、それは実際に生まれた時のお楽しみだ。お前も私が聞いたとして、教えてくれる気があるのか?」
「…まさか変な名前ではないでしょうね……?」
 一抹の不安を感じて問えば、皇帝は小さく吹き出し── やがて安心しろ、と口を開いた。
「いくらなんでも、子供の名前で遊ぶ趣味はないぞ?」
「ならば安心しました」
「変な事を心配するのだな。…普通の名前だ」
「でも、思い入れのある…?」
 サーマのあまり深く考えずの相槌に、皇帝は何故か苦く微笑んだ。
「陛下?」
「そうだな…思い入れは、あるのかもしれん。今ではもう── 誰も覚えていない名だ」

+ + +

 やがて月日は満ち、子は生まれる。
 生まれてきた子は皇子ではなく、皇女。
 母となったサーマは、生まれてきた娘に『ミルファ=ライザ=カドゥリール』という名を与えた。
「…残念ですか?」
「いや…、約束だからな。お前も子も、無事で何よりだ」
 苦笑混じりのその言葉には、何処か安堵感も漂っていて── その事に気付かない振りをする。
「ミルファ、か。少し珍しい響きだが…何か謂(いわ)れがあるのか?」
 話を変えるように問いかけた皇帝に、サーマは答えずただ微笑んだ。

 それは、最初で最後の約束。
 そして── 他の誰にも話せない秘密。
 もし、語れる者がいるとしたら。それは誰でもない── その名を受けた者だけ。

+ + +

(…そう言えば、結局…あの方が名付けたかった名前がわからないままね)
 恐らく聞いても良かっただろうし── 皇帝も答えてくれたのではないかと思う。
 けれど何となく聞きそびれてしまったのは、約束を交わした時に彼が見せた苦い微笑のせいだと思う。
(誰も覚えていない名前…もし、ミルファが皇子として生まれたなら、あの方は何と名付けるつもりだったのかしら……)
 目の前に座る娘を見つめながら、サーマはぼんやりと考える。今頃そんな事が気になるのは、恐らく何となく『予感』がするからだ。
 何かが起こる── しかも、あまり良くない事が── そんな、予感が。
 その予感が、サーマの口を開かせた。
「ミルファ、これは秘密よ?」
「え?」
 突然の言葉に、ミルファが驚いた声を上げる。
「秘密……?」
「今から話す事は、誰にも話さないと約束して頂戴。とても…大切な事なの」
 そう、とても大事な話だ。今までずっと、自分の内だけで抱えてきた── 秘め事。
 死ぬまで抱えて、持って行こうと思っていたけれど。
「…何ですか?」
 神妙な顔でミルファが言葉を待つ。
 サーマは立ち上がり、その耳元で秘密を打ち明けると、ミルファは一瞬不思議そうな顔になり── すぐにその理由を理解したのか、複雑そうな表情を浮かべた。
「お母様…」
「いいわね? 誰にも話しては駄目よ。でも…そうね。もし── わたくしが、陛下よりも先に死ぬような事があったら」
「…!?」
 予想外の言葉が出てきたからか、ミルファがぎょっとした顔になる。
「そんな事があったら、ミルファから陛下にだけは伝えて頂戴」
「お母様…! たとえ、冗談でも…そんな事、言わないで下さい」
(ああ…きっと、あの時…あの人もこんな気持ちだったのね)
 誰もがそっくりだと言う娘の姿に、過去の自分を重ねて。泣きそうな顔で訴えるミルファに、流れた時を思い知る。
 まだ、皇妃になるなど思いもしなかった南の地での記憶。── 自分は、何て遠い場所へと来てしまったのだろう。
 けれどこの選択を、後悔はしていない。
「そうね…ごめんなさい、ミルファ。でも、お願い。わたくしは…誓ってしまった。死ぬその時まで、あの方の片腕であると」
 ただの伴侶としての『妻』ではなく、支え助ける者である事を。そしてそれを、彼も望んだ。
 だから── 何があっても、自分の口からは伝えられない。
「お母様、でも…! …それで、いいのですか……?」
「……。ええ、いいのよ。伝える事は出来なくても── 誰かが…あなたが、知っていてくれるなら」
 …自分がただの臆病者である事はわかっている。
 子供の頃からずっとそうだった。本当は欲しいと思っているのに、自分からは手を伸ばさない。
 心の中で自嘲しながら、サーマは確かに迫り来る『何か』の到来を感じていた。

+ + +

 ── 遠い昔、まだ子供だった頃。
 初めて好きになった人が、死を前にして言った言葉。

『…君はいつか、本当に欲しいものを手に入れるだろう。でも…それは、君を苦しめるかもしれないね』

 その時は何の事かわからなかった。
 自分が何を欲しがっているのか自覚もしていなかったし、先の事など想像も出来なかった。
「…陛、下……」
 赤い月を背に、自分を冷たく見下ろす人。この人は、こんな目をする人ではなかったのに。
 床に黒い染みが広がってゆく── 自分の身体から溢れたものだ。
 不思議と痛みは感じなかった。ただ、悲しかった。
 結局自分は── 側にいながら、彼が本当に望んでいた事に気付いていなかったのだ。そして…気付いても、どうする事も出来ずに。
 サーマは手を伸ばそうとした。
 ── せめて、彼に知って欲しかった。自分の行いに、嘘はなかったのだと……。
「……っ……」
 もはや力の入らない身体は言う事を聞かず、腕を持ち上げる事すら出来ない。指先だけが力なく床を掻く。
 その瞳から、一滴、涙が零れ落ちた。


 そして── サーマの時間は終わりを迎えた。

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