天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(20)

 睡魔は確かに訪れているのに、何だか寝付けない──。
 意味もなく寝返りを繰り返していたそんなミルファの目を完全に覚まさせたのは、夜の静寂を切り裂くような悲鳴だった。
(何!?)
 反射的に飛び起き、耳を澄まして周囲の様子を窺(うかが)う。
 悲鳴が切っ掛けだったのか、先程までは静まり返っていた南の離宮の中がざわめき立っている。
 ── 今の悲鳴は、確かにこの離宮の中から聞こえた。
 壁を通して聞こえてくるざわめきは、重く張り詰めた雰囲気を伝えてくる。具体的な内容こそわからないものの、彼等の混乱と動揺は明らかで。
 …それは『よくない』事が起こっていると示していて──。
(何が…起こっているの?)
 このまま私室にいるべきか否かを考え── 大して考え込む事もなく、ミルファは寝台を飛び出していた。
 何かが起こっているのは確かなこと。そして、それが歓迎出来る事態でないのも確かに違いない。
 そんな状況で一人、寝台の中で事態が変わるのを待っているなど、ミルファにはとても出来なかった。
 恐怖もある。不安も、もちろん抱えている。
 だからこそ…動けなくなるような事になる前に、出来そうな事をした方がいい── そう思えた。
 当然ながら、ミルファの服装は夜着だ。動きやすいとも言えず、また夜の闇で目立ちかねない白く薄手の生地のそれは、余計に心もとなさを感じた。
 普段なら女官の手を借りて身に着けるからか、それとも恐怖感で震える指先のせいか、決して早いとも、乱れ一つないとも言えない着替えを済ませる。
 その間、外のざわめきは少しずつ静かになって行った。
 けれども空気に宿る緊迫感は少しも薄れる事もなく、むしろ時間が経つほどに深刻さを増しているようだった。
 好奇心というよりは、現状を知りたい一心で、そろそろと扉に向かう。そしてその扉に手をかけた、まさにその瞬間。
 ゴトリ、と何かぶつかるような重い音が、扉の向こうで聞こえた。
「…っ」
 反射的に後ずさり、息を飲む。しかし待てども扉が開く事もなく、それ以上の変化はない。
 その代わりに聞こえてきたのは──。
「…ファ、さま……」
「!」
 反射的に足が動き、手が扉を開いていた。
 その途端に流れ込んできたのは、胸を焼くような生臭い臭い。そして、扉の前に倒れている見覚えのある姿……。
「…メリンダ!!」
 先程まであった恐怖や不安は吹き飛んでいた。慌てて駆け寄り、その身体を必死に抱き起こそうと試みる。
 ずしり、と腕に重みが加わる。子供の力だから、という訳ではない事を無意識にミルファは理解していた。
 メリンダの左肩から背中までが、黒く染まっていた。生暖かく、ぬるりとしたそれが、メリンダの身体から流れ出したものである事は明らかだ。
 …それでも、認めたくはなくて。
「メリンダ、メリンダ! しっかりして、何が…っ」
 呼びかけは途中で途切れた。
 必死に抱き起こそうとするミルファの手を、思いがけず力強い手が握り返したからだ。
「…ご、無事ですか……?」
 力なく掠れたその声は、まるで別人のもののように聞こえた。
「ま…待っていて、す、すぐに誰か呼んでくるから…!」
 頭の中に思い浮かんだ考えたくもない最悪の事態を振り切るように口走れば、床に伏せたまま、メリンダは首を横に振った。
「…もど、てはだめです…逃げ…て……」
「でも…!」
 そうすれば、メリンダは確実に──。
「誰…誰が、こんな事……っ」
 今にも泣き出しそうなその問いに、メリンダは苦しい息の下で僅かに迷う素振りを見せた。
 言うべきか、言わざるべきか── この状況で迷う姿に、ミルファは直感のようなものを感じ取る。
 メリンダが言葉を選ぶような、そんな相手がメリンダにこんな仕打ちをしたのだと。
 そう理解した瞬間に、魔法のように混乱は治まった。
「…メリンダ、誰? 誰があなたにこんなひどい事をしたの……?」
 憑き物が落ちたように冷静さを取り戻したミルファにメリンダも何かを悟ったのか、答える決心が着いたらしい。
 やがて震える唇が、一つの言葉を紡ぎだす。
「陛下、が……」
 それは可能性の一つとしてミルファも考えた名前の一つながら、そうであって欲しくないと切実に思っていた名前だった。
「…お父様が……」
 呆然と反芻するミルファを痛ましそうに見つめ、メリンダは最後の力を振り絞って口を開いた。
「陛下は、ご…乱心あそばされました…。こちらの言葉など…聞いて、は下さいま…せん」
 その大きくやわらかな手が、そっとミルファの手を撫でる。その指先がぞっとするほどに冷たくて──。
「…お逃げください……」
「でも、メリンダ…── メリンダ…?」
 返って来たのは、永遠の沈黙──。
「…っ、や…嫌よ、メリンダ! メリンダ!?」
 縋り付き、乱暴に揺さぶり、名前を何度も呼ぶ。
 けれど、もう二度とメリンダが目を開く事も、ミルファに答える事もなかった。
 残されたのは、メリンダが残した言葉だけ……。

 ── 陛下はご乱心あそばされました

(本当に、お父様が…?)
 今際の際の言葉に、嘘があるとは思えない。けれども、ミルファはそれを受け入れる事が出来なかった。
(お父様はお加減が悪かったのではないの…?)
 それとも、それ自体が今の状況の予兆だったと言うのだろうか……。

『ミルファ、これは秘密よ?』

「──…お母様……」
 際限なく思考に囚われそうになりつつあったミルファを現実に引き戻したのは、昼間に聞いたサーマの言葉だった。
 まるで今の状況を予見していたかのように、サーマはミルファに『秘密』を打ち明けた。
 それは、本来なら『秘密』にすらならない事。
 …けれど、皇帝の妻であるサーマにとっては、隠さねばならない事で。
 もし、本当に父である皇帝が乱心したとして── それを知った母がどんな行動を取るのか、ミルファには簡単に想像が出来た。
 きっと、その身を危険に晒してでも止めようとするだろう。何処までも皇帝を支え助ける『片腕』であろうと──。
(お母様が、危ない)
 認識したと同時に、ミルファは立ち上がっていた。
 そのまま走り出そうとして、ふと思い出したようにメリンダの亡骸の元に戻り、苦労して仰向きにさせ、衣服の乱れを整えてやる。
 多忙な母の代わりに世話を焼いてくれた女官に対して、今のミルファが出来る事はそれくらいしかなかった。
(こんな所に一人にさせてごめんなさい、メリンダ。お母様の無事を確かめたら、絶対に戻るから……!)
 心の中で詫びながら、今度こそ走り出す。
 そこでようやくミルファは離宮の中が完全に静まり返っている事に気付いたものの、それが何を意味しているのかまでは理解しないまま、サーマの部屋へと続く通路に足を踏み入れ──。
「……っ!?」
 そこに広がっていた予想以上の惨状に息を飲む。
 灯火一つなく、途中に切られた空気穴から差し込む僅かな光に照らし出された通路には、累々と人の形をしたものが倒れていた。
 すっかり鼻が慣れてしまっているものの、その場に淀む生臭いような臭いが何であるのかは教えられずとも理解出来た。
(そんな……)
 異変に気付いて、各自の部屋から出て来た所だったのだろうか。
 その多くが夜着で、中には開きかけの扉に挟まるようにして倒れている者さえ見受けられた。
 メリンダの死を看取った事で感覚が麻痺してしまったのか。
 変わり果てた彼等の姿に、恐ろしさは感じなかった。その代わりにミルファの心の中を侵食して行ったのは、喪失感と絶望だった。
 ここで生まれ、ここで育ち── この離宮以外の世界をろくに知らない。
 そんなミルファにとって、目の前にある現実は、ある意味、世界の崩壊すら意味していた。
 …だからミルファは気付かなかった。
 もはやうめき声すら上げず、身体の何処かを赤黒く染めて横たわる彼等との思い出が頭を過ぎるばかりで、今の状況があまりにも異常であるという事に。
(ミンナ・シンデル)
 皇帝がいかに剣を得手にしていたとしても、短時間の上に一人だけの力で、これだけの骸を築けるはずがない事を。
(ミンナ・オトウサマニ・コロサレタ…?)
 一人の力で成したとしても、一太刀で命を奪うほどの斬撃を何度も繰り返せたはずもない事を。
(オトウサマガ・ミンナヲ・コロシタ……)
 それは十二歳の少女には、あまりにも衝撃的かつ残酷な出来事──。
 それでもよろよろと、覚束ない足取りながらも歩き出したミルファの頭の中にあったのは、サーマを見つけなければ、という事だけだった。

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