天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(21)

 人々の間を縫うように奥へと進む。
 これだけの死を前に、母の生を信じるなど愚の骨頂に違いないと思うのに…けれど、父が母までも手をかけるなど、どうしても思いたくなくて。
 やがて辿り着いたサーマの部屋の扉は、僅かに開いていた。
 どきり、と心臓が跳ねる。
 逃げ出してしまいたい気持ちを何とか抑え、開いた隙間からそっと中を窺(うかが)おうとした時、ミルファの耳に声が飛び込んできた。
「陛下…何故、こんな事を…?」
「愚問だな、サーマ。邪魔だったからだ。決まっているだろう」
 それは明らかにサーマと、父である皇帝の声だった。
 けれど、二人の口調は静かなものながら、触れれば切れそうな張り詰めた雰囲気がそこにある。
 細い扉の隙間から、窓辺に向き合って立つ二人の人間── 両親の姿が見えた。
 …思えば、こうしてサーマと皇帝が二人でいる姿を見た記憶がない。
 皇帝がこの離宮を訪れても、サーマが同席する事は滅多になく、ミルファと皇帝の二人で時間を過ごす事が普通だったのだ。
 子供心に疑問を感じなかった訳ではない。
 けれど、普段はいつも一緒に仕事をして、毎日ように顔を合わせている二人だから── と自分を納得させてきていた。
 けれど、今…それが自分の一方的な思い込みだった事を思い知る。
「そのような理由で? …見損ないました」
「見損なう?」
「人の命を、何だと思っていらっしゃいます。今のあなたに…『皇帝』を名乗る資格などございません……!」
 窓から月が見えていた。
 赤い。
 赤い── 血を吸ったかのような月だと思う。
 決して明るいとは言えない光の下なのに、何故かはっきりと皇帝の表情を見て取る事が出来た。
 そこにあったのは── 何処までも冷たい、憎悪。対するサーマの口調も、普段の落ち着きはなく手厳しさすら感じるもので。
 よく知るはずの二人が、殊更別人のように感じた。
「面白い事を言う。神官でもないのに、人を殺した位で『皇帝』の資格が消えるとでも?」
「そんな意味ではありません。…ご自分が一番よくご存知のはず」
「なるほど…確かにこれは『皇帝』にあるまじき、私利私欲の結果だ。その意味ではそうだな。ではもう私は『皇帝』ではない訳だ。ようやくこの重責から自由になれたという事か」
「自由? …── あなたは、間違っています。こんな事をしても、あなたは決して『自由』にはなれない……!!」
「黙れ……!! お前に何がわかる…この私の、何がわかると言うのだ!」
 会話は次第に口論とも言える激しさを増して行き── ミルファはただそれを、息を潜めて、見ている事しか出来なかった。
 こんな二人の姿を見たくはなかった。見たくはなかったけれど…目を逸らす事も出来そうにない。
 ふと目を離した瞬間に、何か取り返しのつかない事が起こってしまいそうで。
 だからじっと、声を殺して彼等のやり取りを見守る。まるで、悪い夢みたいだと思いながら。
 ── 否、いっそ夢だったらと願う。
 メリンダの死も、言葉なく転がっていた使用人達の惨い姿も、言い争う両親の姿も。
 それならば、どんなに良いだろう。けれど、ミルファの願いが叶えられる事はなく、事態はさらに悪い方へと進んでゆく。
「目を覚まして下さい、陛下…あなたが求めるものは、本当にこんな事なのですか!?」
 言い募るサーマに対し、皇帝は歪んだ笑みを浮かべた。果たしてそれは嘲笑だったのか、自嘲だったのか。
 やがて口を開いた皇帝は、暗い声で答えた。
「私が求めるもの── それは真実だけだ、サーマ」
「…真実?」
 思いがけない言葉だったのか、サーマの言葉に戸惑いが漂う。
「何を…知りたいと仰るのですか?」
「わからないのか? …そうだろうな」
 サーマの問いに、すうっと皇帝の腕が持ち上がり、その手に握られていた剣がサーマの喉元に突きつけられる。
 皇帝の行動を予測していたのか、サーマに動揺はないようだったが、その目がじっと自分の喉に向けられた剣を見つめているのがミルファの目にもわかった。
 ここに至るまでに幾人もの血を吸ったそれは、夜の闇の中、不吉な鈍い光を放つ。
「お前はいつも、そうだ。気付いているくせに、気付いていない振りをする」
「…どういう意味ですか、陛下」
「いつか、私が言った言葉を覚えているか? サーマ」
「言葉……?」
「『いつかこの欠落が、私を蝕(むしば)んだとしても…それは私が『皇帝』である前に一人の『人間』だったという証だ』」
「……はい、覚えております」
「ならば、お前はわかっていたはずだ。私がどんなに…『人間』でありたいと望んでいたかをな!」
「…!!」

 ザンッ!

 皇帝の言葉と共に凶刃はサーマの肩口から腹の辺りまでを切り裂いていた。
(── お母様……!!)
 悲鳴すら上げる事もなく、サーマが床へと倒れ伏す。たちまち床がサーマの血潮で染まって行く。
 その次第を瞬きする事すら出来ずに見つめるミルファの前で、皇帝はさらに信じがたい言葉を口にした。

「私が知りたい真実は一つだけだ。サーマ…本当にミルファは私の子か?」

(え…?)
 それはミルファを足元から揺るがせるだけの威力を秘めていた。
 今、皇帝は何を口にしただろう。
(まさか…そんな……)
 呆然と立ち尽くすミルファの耳に、サーマが弱々しく答える言葉が届く。
「それ…を、あなたが真実と…思うのでした…ら……わたくし、に、…否定の言葉は…ありません……」
 それは予想していた否定の言葉ではなく、ミルファを救う言葉にはなりえなかった。
 聞かなければ良かった。せめて── 耳を塞いでいたら。
 そうすれば…聞き間違いだと、思えたのに。

『ミルファ、これは秘密よ?』

 甦るのは、つい半日ほど前にサーマの口から聞いた言葉。

『わたくしはね、ミルファ…あなたのお父様がとても好きなの。だから、あなたを産む事を選んだのよ』

 確かに、そう言っていたのに。

『いいわね? 誰にも話しては駄目よ。でも…そうね。もし── わたくしが、陛下よりも先に死ぬような事があったら』

 ── あれは、別の意味を示していたとでも言うのだろうか。

『そんな事があったら、ミルファから陛下にだけは伝えて頂戴』

 問題は、サーマが明確な否定しなかった事ではない。
 父である皇帝が、そのような疑いを抱いているという、事実。
 すなわち── 少なくとも、皇帝がそう思うような出来事があったということ。
 そろそろ心の許容量を超えてきたからか、それとも他に理由があるのか、思考が覚束ないものになって行く。
(お母様は…お父様を裏切った、の…?)
 まさか、とすぐに否定する。
 ならば── わざわざあんな『約束』をする必要が何処にあると言うのだろう?
 けれどもし、…万が一の可能性として、サーマの言っていた『お父様』という単語が皇帝以外を示していたのだとしたら──。
(わたくしは…お父様の、子ではないの……?)
 もはやその妄想を、否定してくれる声はない。
「……ハハ………アハハハ………!」
 鼓膜を振るわせるのは、狂気じみた哄笑。
 ── 月が、そんな彼を見下ろしている。今夜流れた血を吸い取ったように、赤い光を放ちながら。
 そう言えば、いつか聞いた。
 月が満ち欠けを繰り返すのは、それが陰陽の天秤を司るからだと。
 光は影なしには存在出来ず、影もまた光なしには存在出来ぬ。時には光が、時には影が重みを増す事があろうとも、それはやがて元の重みに戻ってゆく。
 それこそが、自然の摂理。
 互いに影響し合い、それぞれにないものを補い合うのは、光と影のみにあらず── そんな事を話してくれたのは、今、目の前にいる父…その人ではなかっただろうか。
「…滅びるがいい……」
 軋むような声が、呪詛を紡ぐ。
 ── 何が、この人をこんな風に変えてしまったのだろう。
「絶えてしまえ…こんな、世界なぞ……!」
 ── 何が、この人にそんな事を望むまでに追い詰めたのだろう。
 窓から入る風に乗って、何処か潮をイメージさせる生臭い匂いが届いてきた。
(お母様……)
 力なく横たわるそこにはもう、生命の灯火が灯っている様子はなく。
 なのに、悲しいとも寂しいとも思わない自分は、父と同様に何かが狂ってしまったのだろうと漠然と思う。
 食い入るように見つめる先で、皇帝がゆらりとこちらを振り返った。
(コワイ)
 ここでようやく、恐怖感を覚えたミルファはこくりと喉を鳴らした。
 ゆっくりとした足取りで自分の方へ向かって来る── その目的はおそらく、この自分の……。
(…逃げなきゃ)
 母すらも手にかけたこの人が、この自分をわざわざ見逃すはずはない── 本当に自分が、母の裏切りの結果であるのならば。
 なのに足は完全に竦み、その場から動こうとしなかった。心の何処かで、まだ信じきれずにいた。
(きっと、これは夢なんだ。きっと、そう。目が覚めたら皆生きていて、お父様もこんな恐ろしい事はしていなくて、お母様はいつもみたいに笑ってくれて──)
 そんな事を考えている間にも、皇帝はすぐ間近にまで迫っている。
 あと僅かで扉が開かれる── そう思った時、不意に誰かに強く手を引かれた。
 強引に扉から引き離されたかと思うと、そのまま横の小部屋に連れ込まれる。そこは衣裳部屋で、奥に潜り込めばおいそれとは見つからない。
 まだ思考の追いつかない自分の身体を、あまり大きさの変わらない誰かが抱きかかえるようにして奥へと連れてゆく。
 何者か確かめなくても、その人物に恐れは感じなかった。
 この衣裳部屋が隠れるのに絶好の場所だと知るのは、母亡き今、自分以外ではあと一人しかいないのだから。
(── ケアン)
 言葉はなく、ただ自分を庇うように回された腕の温もりがやけに現実的だったけれど。重なり合う衣装の奥に蹲(うずくま)って身を隠しながら、ミルファは声もなく笑った。
 ── ほら、やっぱりこれは夢だ。
 だって、ケアンがこんな所にまで自分を助けに来るはずがない。彼の立場を考えず、一方的に非難した自分を。
 …こんな都合の良い事が起こるなんて、夢以外の何だと言うのだろう?
(目を覚まさなきゃ)
 こんな悪夢から、一刻も早く。
 幼い子供の頃と変わらない懐かしい温もりの中で、ただそれだけを願う。そうして── ふっと、糸が切れるように何もかもが闇に飲まれていった。

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