天 秤 の 月
第四章 呪術師ザルーム(22)
直射日光を避けた室内は薄暗い。
外からは作業の音や人の声がするものの、その全ては遠く、部屋の中は静まり返っていた。
そこに置かれた寝台に、ミルファは寝かされている。
その額は汗に濡れ、その唇からは時折苦しげな吐息が漏れた。
「── もう、丸一日が過ぎますね」
感情を感じさせない落ち着いた声が響く。
寝台の横には二人の人間がいた。一人はティレーマ、そしてもう一人は医師のリヴァーナである。
「今の所は『今までの疲れが出た』という事にしてますが…あまり長引くようでは、確実に士気に関わるでしょう」
体温を測り、脈を取りつつそう呟く口調にはさほど深刻さは感じられないが、内容は深刻そのものだった。
しかも、下手すると反乱軍の侵攻がここで止まってしまう可能性すら孕(はら)んでいる。
今はリヴァーナの機転により、何とか誤魔化せているが──。
「一体何があったのか存じませんが、肉体的な疲労だけではこんな事にはなりません。どちらかと言うと、ひどく精神的な負担がかかっているように思われます。…ティレーマ様、何か心当たりは?」
「…あります。でも、話せません」
リヴァーナの問いに、ティレーマは硬い表情で答える。
「話せない?」
「わたくしも全てはわかっていないのです。ですから…話せません」
答える表情は暗い。それは室内が薄暗いせいだけではなく、実際顔色が優れないからだ。
── もしかしたらその余波が及ぶかもしれません
呪術師ザルームがミルファへかけた術を解く際に口にした言葉に間違いはなく、ティレーマも今朝方まで臥せっていた。
ティレーマだけではない。やはりその場にいたルウェンも、ティレーマほどではないが余波を受けてしばらくはまともに動けなかったと言う。
強制的に解除された呪術は形を変え、純粋な『力』となってその場にいた人間に襲い掛かった。
逆を言えばそれだけの力を使わねば、ミルファの記憶を封じる事は出来なかったとも言える。
── ザルームはあれからまた姿を見せない。
側にいただけで動けなくなる程の力である。術者である彼だけが無事だとはとても思えないが……。
(呪術師の事はよく知らない…けれど、あの方はやはり何かが違う気がする)
彼が力ある呪術師であるのは確かだろう。だが、もはや才能などという言葉で括れるものではない。
異常だ、とティレーマの直感は告げていた。
これだけの力を使いこなせる呪術師が、今まで無名であるはずがない。名を秘す必要もないはずだ。
ザルームに接した人間が必ず抱く感想を、ティレーマもまた抱いた。
(…あの方は何者なの……)
そして何故彼は、記憶を封じてまでミルファを生かそうとしたのだろう──。
「…話せないというのを、無理に聞くつもりも、それだけの権限も与えられていませんが……。いつまでも誤魔化しはききません。その事はわかっていらっしゃいますね?」
「ええ。わかっています…」
旗頭であるミルファの存在なしには、帝都への進軍は難しい。それは戦の事などろくに知らないティレーマにとて想像は出来る。
誰も、ミルファの代りにはなれないのだ。
「リヴァーナさん、あなたには感謝しています。あなたがあの時来てくれなければ、ミルファの異常が周囲に知られていたかもしれません」
「それは不幸中の幸いと言うべきでしょう。私がミルファ様の部屋を訪れたのは、全くの偶然ですから」
満足に動けない状態で扉がノックされた時は、どうなるかと思ったものだ。
やがて扉の外から呼びかける声がリヴァーナの物である事に、ティレーマはどれだけ安堵したかわからない。
南領から自ら志願して従軍したというこの医師ならば、ミルファを委ねる事が出来ると思ったのだ。
数少ない女性の医師の中で、主治医とまでは行かないまでも、ほぼミルファ専属のように位置づけられている事をティレーマも知っていたからだ。
リヴァーナは一目で事態を察し、ミルファを寝台へと運び、うまく身動きの取れないティレーマとルウェンが回復するまで、誰も中に入れないようにしてくれた。
下手にこの出来事が外部に漏れては、という心配はそれでかなり解消された。
重臣を筆頭に数人の人間がミルファに会いに訪れたが、医師であるリヴァーナの『しばらく安静が必要』という言葉を受け、黙って帰っていった。
他の人間だったなら、何処までそれを信じてもらえたかわかったものではない。
「そう言えば、リヴァーナさんは何の用で…?」
思えば、そもそもリヴァーナがミルファの部屋を訪れた理由が不明のままだ。事実をそのまま伝えられない罪悪感も手伝って、ティレーマはリヴァーナへ尋ねた。
「急ぎの用ではなかったのですか?」
「急ぐ用事ではありませんが……」
答えつつ、リヴァーナは軽く肩を竦めた。
「私経由で手紙が届いたので渡そうと思ったのです」
「…手紙、ですか?」
「ええ、あれです」
言われて指し示された方を見ると、部屋の隅に置かれた書き物机の上に何か包みが置いてあった。
思い返してみれば、確かにそんな包みを抱えていたようにも思うが──。
「…あの、あれはどう見ても『手紙』には……」
それが真実、手紙なのだとしても、大きさ的にも厚さ的にもあり得なかった。だがリヴァーナは真顔で肯定する。
「仰りたい事はわかります。あれで、最初はちゃんと『手紙』だったんですよ。距離が離れていない内は比較的すぐに届きましたしね。それが南領から離れて時間がかかるようになるにつれて、数日分まとめて送ってくるようになりまして」
「……。それはまた、何と言いますか…変わった方ですね」
「ええ。何というか、労力の使いどころを勘違いしていると思うんですが、ミルファ様もミルファ様で律儀にお返事なさるので……」
軽くため息。常に鉄面皮なリヴァーナにしては珍しいが、それだけ参っているのだろう。
間に入るリヴァーナに同情しつつ、ティレーマは思い浮かんだ疑問を尋ねた。
「一体、どなたがこれを?」
リヴァーナの言葉からわかるのは、差出人が南領の人間という事くらいだ。
ミルファが南領でどのような生活を送っていたのか詳しくは知らないが、姉として(やり方は少々難があるものの)ミルファへ心を砕いてくれる存在に興味を抱いた。
「そうですね…保護者の一人、って所でしょうか」
「保護者? と言うと…南領主様、ですか?」
南領妃サーマが南領主の娘であった事を思い返しつつ、ティレーマが問い返すと、意外にもリヴァーナは首を横に振った。
「ジュール様ならこんな非効率な事などなさらないでしょうね…。あの手紙は、将来南領主夫人になるであろう人の仕業です」
「し、仕業……」
「ジュール様の婚約者なのですが、私とは幼馴染でして。色々理由や事情があって、婚姻自体はまだですが、実質的にも現在の南領の女主人ですね」
「そうだったんですか。ではミルファにとっては…義理の叔母に当たる方なのですね」
「正式に夫人となれば、そうなりますね。ミルファ様を心配する余り、私が従軍すると知ってこれ幸いと手紙攻撃を……」
(手紙── )
リヴァーナの言葉に耳を傾けつつ、ティレーマは思い返す。
思えば、帝宮を出てからミルファと再び繋がりを持ったのも、ミルファから届いた一通の書簡からだった。
今もまだ手元にある。処分すべきか悩んだが、結局出来なかったのだ。
生まれて初めて、『肉親』から届いた手紙という事もあるだろう。
まだあれからそれほど時間が経った訳ではないのに── 何故か少し懐かしい。
「ミルファ様がこの様子では私の用も終わりません。…早くお目覚めになってくれるといいのですが」
リヴァーナの言葉に耳を傾けつつ、ティレーマは寝台に横たわるミルファに目を向けた。
(どうか、無事に目覚めて)
祈るように願う。
(みんな── あなたを必要としているのよ)
まったく気付いていない訳ではないだろう。
それでも何処か孤独の影を引きずる妹に、きちんと知ってもらいたいと思う。言葉だけではなく、心で理解してもらいたい。
多くの味方が側にいる事を。
反乱軍に属する兵士達だけではない。リヴァーナもその一人なのだろうし、ルウェンやフィルセル、ジニーだってそうに違いない。
遠く離れた南の地にもミルファを案じ、見守る人達がいる。ティレーマ自身もミルファが進む道を側で支えて行けたらと願っている。
そしてきっと── 姿を見せない、かの呪術師も。
「…大丈夫です」
自分に言い聞かせるように、ティレーマは口を開く。
「ミルファはきっと目を覚まします」
苦しげに身じろぎして掛け布から零れ落ちた手をそっと戻す。ミルファは戦っている── 己の心の中で。
呪術で無理矢理封じたほどのそれは、きっと残酷で心が砕けそうなものなのだろう。
想像する事しか出来ないが、それでも── 打ち勝って欲しいと願うのは、間違いだろうか?
「…信じましょう」
もうミルファは、無力な子供ではない。
父である皇帝を討てるだけの力を手に入れた。身体が成長したと同時に、心もまた成長したはずだ。そこに賭けるしかない。
ティレーマは祈った。
けれどそれは常のように、唯一神ラーマナに対してのものではない。
神よりも大きく、捕らえどころのないもの。この世界を支配する、運命の流れそのものに。
少しでも妹にとって良い運命が訪れる事、それを祈る事しか今のティレーマに出来る事はなかった。+ + +
ザアアァ…ァア……
激しく降りしきる雨の音。闇の中に響くその音は、もうすでに耳慣れたものになりつつあった。
幾度も幾度も── 繰り返し見た夢。時に詳細に、時に曖昧に、見る内容こそ違えどもその雨音と廃屋の光景は変わらない。
目の前にはケアンが倒れている。それもいつか見た夢と同じ。
かつては白かった服を真紅に染めて横たわるその側に、彼は佇んでいた。じっとその視線を動かないケアンに向けている。
「…ザルーム……?」
呼びかけると彼はゆっくりとこちらへ目を向けた。
「── …我が君」
それは昔、初めて顔を合わせた時の状況に似ていた。
あの時は見知らぬ彼に驚き、それでも侮られてはならないと精一杯虚勢を張ったものだ。
そして彼の口から知った── 父が乱心し、兄や姉を手にかけた事を。その時とは異なり、ザルームは違う言葉を口にした。
「『過去』を受け入れる覚悟はお出来になりましたか」
「…過去……?」
問われる事でミルファは思い出した。
つい先程までの惨劇は、決して『夢』などではなく……。
「── みんな、死んでしまったのね……」
脳裏に焼きついた数々の光景が、洪水のように一気に押し寄せてくる。
南の離宮を襲った悪夢のような出来事。
言葉もなく床に転がっていた数々の骸(むくろ)。噎(む)せ返りそうな血の匂い。その血を吸ったような、赤い、赤い月──。
「…嘘を吐いてしまったわ。必ず戻ると、メリンダと約束したのに」
あれから五年。彼等の亡骸は今もまだ、あそこで自分の帰りを待っているのだろうか。
誰からも顧(かえり)みられる事も、花を手向けられる事もなく、ずっと──。
愛すべき人々の死は幼かった自分にはあまりにも重かったけれど、恐らくそれが単に賊の仕業だったのなら、忘れる事を望んだりはしなかっただろう。
忘れたいと思ったのは、それを行ったのが皇帝だったからだ。
大好きだった父が、女官達を、そして母を手にかけた事を信じたくなかった。
── そして耳にした、あの父の言葉も。
『私が知りたい真実は一つだけだ。サーマ…本当にミルファは私の子か?』
それが単なる父の妄想ではないかもしれない事が恐ろしかった。
…そして。
目の前に横たわる、彼を見つめる。
「『これ』も、実際に起こった事なの…?」
ひどく咽喉が渇いている気がした。軽く息苦しさも感じる。
微かに感じる悪寒は、おそらく『現実』の自分が発熱しているのだろうと思う。同時に『これ』が『夢』の形を取った過去の再現である事も、ミルファは理解しつつあった。
「…ザルーム」
無意識に口にしたのは、自身の記憶を封じた呪術師の名だった。
「…思い出した。私を生かす為に、お前は私に呪術をかけた」
現実を放棄した自分は、あのままだったなら今頃この場にいなかっただろう。過去を封じた事で己を取り戻せたからこそ、今ここにいる。
けれど── その代償は…。
「ケアンは…死んだのね……?」
実際に言葉にすると同時に、胸に大きな穴が空くような感覚を覚えた。
彼が危うい所を救ってくれた事を覚えている。
初めて会った日、彼を試そうと隠れた衣裳部屋へ自分を隠してくれた。その彼がどうして、命を落とすような事になったのだろう?
放心し意識を手放した自分を連れて、彼はどうやってあの廃屋まで辿り着いたのだろうか。
帝宮を出るだけでも至難だったはずだ。その上、嵐のような風雨にまで襲われて、大変でなかったはずがない。
── そしてあの廃屋で。
彼は『何か』を呼び出していた。
彼が口にしていた言葉は、ザルームの使う呪術と同じようだったように思う。何故、神官である彼が呪術を知っていたのだろう──。
封じていた記憶を取り戻しても、疑問は尽きない。だが、それよりも。
(私は…結局、ケアンに謝る事が出来なかったのだわ……)
こんな風に終わるなんて思ってもいなかった。
子供だった自分がつけた傷が、彼にとってどれほどのものだったかはわからない。ケアンの事だから、心無い言葉も許してくれていたのだろうとは思う。
だからこそ、危険を顧みらず助けに来てくれたのだろうし、命をかけて自分を生かそうとしたのだろう。
でも── でも。
(私は、こんな事は望んでない)
胸が痛い。
(私は…ケアン、あなたの死なんて望んでなかった)
謝りたいと思っていたのも、もう一度彼と笑って時を過ごしたいと願ったから。
「…どうして……!」
けれど── もう、それは叶わない。
「私の何処に…この私に、命を捨ててまで守る価値があったというの…!?」
ミルファの感情的な言葉に、それまで沈黙を守っていたザルームは静かに口を挟んだ。
「── 『彼』の本心が何処にあったのか…それはもはや誰にもわかりません」
「……」
「唯一つ明言出来る事があるとしたら、それは── 彼がただ、あなた様が生き延びる事を、心から願っていたという事実だけです」
「何故そんな事が言えるの?」
やりきれない思いが渦巻く。
大切な人達を失って、一人生き続けてどうして幸せになれるだろう。一緒に死んでしまった方が幸せだったのではないかと、今でも思うのに。
けれどケアンはミルファが生き延びる事を望んだと言うのか。
実の父に命を狙われても、母を失っても、それでも生き延びる事を願ったのか。
「ケアンが本当にそれを願った証でもあると言うの」
挑発的に突きつけた言葉に、ザルームはゆっくりと頭を揺らした。
「…ございます」
「え?」
骨のような白い指が、胸を示す。
「私が存在している事── それこそが、彼の望みの証です」
「…どういう事? 何故、お前がいる事が……?」
隠しきれない疑問を口にしつつ、ミルファは『時』が訪れた事に気付いていた。
本当ならばとっくに明らかになっていなければならない事だった。けれど心が枷となって長い間口に出来なかった疑問── それを明らかにする、その時が。
「…ザルーム、お前は何者なの?」
その言葉はするりと零れ落ちた。今まで出てこなかった事が不思議なほど。
そしてザルームまた、その時を待っていたかのように静かに答える。
「私は『影』── あなた様を皇帝にする為に生まれた者。契約という光によって形を得た…化け物です」
「化け…物……?」
「…ミルファ様も一度は耳にした事があるのではないでしょうか。かつては混在し、現在は二つに分かたれた世界の話を」
── それは古い伝承。太古の言葉を操る呪術師すら詳細を知らぬ時代の物語。
曰く、世界はかつて光と闇が混在していたという。
光の下で生きる者と闇の下で生きる者が共に存在し、それ故に世界は混沌と化し、争いは絶える事無かった。
それを嘆いた神が世界を二つに分けた。
光は光に、闇や闇に。人は人の、異形の者は異形の者の。
世界を分けた神の名は『ラーマナ』。それは天秤を司る神──。
「…知っているわ。でもそれは御伽噺ではなかったの?」
「いいえ。この世界の者は誰一人として知らないでしょうが── もう一つの世界は確かにあるのです」
「お前はそのもう一つ世界から来たとでも言うの?」
完全に否定は出来ないが、それでも信じきれずに尋ねれば、ザルームは首を横に振った。
「私はそちらの者でもありません」
否定し、しばらく彼は言葉に迷うように沈黙した。
ミルファは待つ。元々、常軌を逸した存在の彼が、どんな事を口にしても驚かない覚悟もあった。
だが、やがて続いたザルームの言葉は、そんなミルファの覚悟も及ばないものだった。
「その二つの世界の狭間にて『魂』を食らって生きていた存在。こちらの世界では『渡し守』と表現されている存在…それが、私なのです」