天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(3)

 窓からは、午後の穏やかな陽射しが入り込んでいた。
 開け放したそこを通って吹き込むのは、微かに草の匂いのする初夏の風。
 その明るい室内に、二人の人間が向かい合って中央に置かれた椅子に腰掛けていた。
「── やはり、行かれるのですな」
 少し離れた所から子供の声が聞こえる以外は、音らしい音のないそこに、落ち着いた静かな声が紡がれる。
 この地方神殿を預かる主位神官その人のものだ。
 その問いかけに、その向かいに腰掛けていた人物── ティレーマは頷いた。
 光を受けて輝く金の髪は邪魔にならないようにきっちり結い上げられ、身に着けている服も神官のものだ。
 その姿はいつもと変わらないはずなのに、何処か違うように感じるのは何故だろう。
「はい、主位神官様」
 笑顔を湛えたその顔に、迷いは一切ない。
 ミルファ率いる反乱軍がパリルの復興を支援している間、神殿の代表として神殿とパリルを行ったり来たりする日々を過ごしていたティレーマだが、今日はパリルの復興状況を報告するだけの為に主位神官の元を訪れた訳ではなかった。
 長く世話になったこの地を離れる── その暇(いとま)の挨拶をする為。
「パリルの重要な箇所の復旧は数日もすれば終わるようです。ミルファはそのまま帝都を目指すようですし、わたくしも共にここを離れるつもりでいます」
「…ここに残ろうとは考えないのですか?」
 ミルファと再会した後のティレーマの様子から、そうするだろうと予測はしていたものの、主位神官はそう尋ねずにはいられなかった。
 皇女ミルファが進む道は、平坦なものではない。多くの人々が傷付き、血が流れ── 時として命も失われる事だろう。
 そんな人々を前にして、ティレーマが何もせずにいるはずがない。
 パリルの人々を救ったように、可能な限りの人々を救おうと考えるに違いないのだ。…そうする事で、自身の命が危うくなろうとも。
 対するティレーマも、主位神官が何を心配してそんな事を言い出したのか理解していた。その危惧が間違ったものでもない事も。
 けれど──。
「わたくしは、今まで皇女である事を他人事のように捉(とら)えていました」
 生まれ落ちた時から『皇女』である前に『神官』だった。今でも自分ではそう思っている。おそらく、これから先もそうだろう。
「けれど…気付いたのです」
 ティレーマは赤瑪瑙の瞳を細め、窓の外に向けた。
 明るい光。誰もが恋い求めるもの。けれど、それはそれが恩恵を与えてくれるからだけではない。
 暗い闇を知るからこそ、光の持つものの良さがわかるだけなのだ。闇があるからこそ、光は必要とされる。それはまた、逆も然りだ。
「わたくしは、皇女であって神官。そのどちらもがわたくしの真実だと。…『皇女』だからこそ、出来る事もあるのだと」
 だから、もう目を反らさないと決めた。
「ですから、もう…ここで一人、守りに入っている訳には行きません。…ミルファと約束したのです。最後まで…見届けると」
 再び視線を主位神官に戻すと、ティレーマはそのまま立ち上がり、一礼した。
「今までありがとうございました。ここで受けたご恩は、一生忘れません」
 その何処か晴れやかな表情を見上げ、主位神官はふう、とため息をつく。そしてその口元に微苦笑を浮かべた。
「やれやれ…本当にこれと決めたら頑固な方だ」
「主位神官様……」
「そこまで覚悟を決められているのなら、引き止めはいたしませんよ。ただし…一つ、私とも約束して下さいますかな?」
「約束、ですか?」
「── たとえ目の前に死の淵に立つ人間がいても、むやみに《癒しの奇跡》は使わないで欲しいのです」
「……それは」
 その約束は簡単には頷けないものだった。
 否、頷く事は出来る。ただ── 守れるかどうか、自信はなかった。
 たとえば、目の前でミルファが死に掛かっていたとしたら。…考えるまでもなく、自分はその力を使うに違いない。しかもすでに一度行使し、どのようなものか自分でも理解した力だ。
 だが、主位神官はそんなティレーマの気性を知った上で、更に念を押した。
「絶対に使うな、とまでは私には言えません。ですが── これから先に待つ人々は、パリルの人の比ではない。ラーマナの教義に則れば、一人を救うなら他の全ての手を取らねばならない。ですが…そんな事は不可能です。それは聖女ティレーマ、あなたにもわかるでしょう」
「…はい。ですが……」
 言わんとする事はわかるが、やはり素直に頷く事は出来ない。
 そんなティレーマに、主位神官は真面目な顔のまま、予想外の言葉を口にした。
「── 聖女ティレーマ。これから先は、神官である事を忘れなさい」
「…え……?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 そのまま呆然と主位神官の顔を見つめ── やがて頭が意味を理解すると、さあっとその顔から血の気が引く。
「それは…どういう意味ですか」
 動揺を抑えきれず、微かに震える声で問い質す。主位神官の言葉はそれだけの威力を秘めていた。
 神官である事を忘れろ── それをこの神殿の頂点にある主位神官から告げられたという事は、神官に相応しくないとみなされたようなものだ。
 ティレーマは青褪めた顔のまま、それでも視線を下げる事なく主位神官を見つめた。
「わたくしは…神官の名に恥じる行いはした覚えはありません」
 確かに一度、禁を破った。
 西の主神殿を預かる主座神官からも、使ってはならないと言われた力を解放した。
 それでも── それが間違いだったとは思えない。助かるかもしれない命を、あの場で見過ごす方が余程罪深い事だったと今でも思っている。
 それは主位神官とて理解してくれたはずなのに──。
 突然の事に動揺するティレーマに、主位神官はゆるりと頭(かぶり)を振った。
「今のあなたに、神官という枠は邪魔になるだけです」
「そんな事は……!」
「落ち着いて聞いて下さい、聖女ティレーマ。私は何も、あなたが神官の資格がないと言っている訳ではないのですよ」
 言いながら主位神官も立ち上がり、そのままゆったりとした足取りで窓辺に向かう。そしてそのまま窓の外を眺めながら、落ち着いた口調で続けた。
「先程も言ったでしょう。ラーマナの教義はあなたの行いを阻害する。あなたの手は、二つしかない。…だから、神官である事はやめなさい」
 それは今まで神官であろうとしてきたティレーマとっては、何よりも辛い言葉だった。思わず俯(うつむ)き、唇を噛み締める。
 だが、その後に続いた主位神官の言葉は、慈しみのこもったものだった。
「神官ではなく── 皇女として、行きなさい。ラーマナの教えなどに囚われず、自分の心の赴くまま…自由に」
「…主位神官様?」
「その上で、先程の約束を守って下されば良いのです。神官である限り、教義という枷からは逃れられない。神官も、また人間です。全ての人間に対して公平であるなど、そうあろうと努力しても出来るものではない。そうなればいつか── あなたは追い詰められ、身動きが取れなくなるでしょう。…私はそちらの方が恐ろしいのですよ」
 それは、約束という形を取った主位神官からの餞(はなむけ)の言葉。神官という肩書きを取り払う事で、それに伴う様々な制約をなくしてくれたのだ。
 主位神官の深い思いやりのこもった言葉に、ティレーマはただ一言しか口にする事は出来なかった。
「ありがとう…ございます……」
 胸の奥が熱く、詰まったような感じがしてうまく声が出ない。
 そんなティレーマを振り返り、主位神官はいつもの人好きのする笑顔で微笑んだ。

+ + +

 主位神官の元を辞して、ティレーマは今まで私室として与えられていた部屋に向かい、荷造りをした。
 元々、私物は少ない。最後に服を着替えるべきか悩み── 結局そのままでいる事にした。
 その胸元に常にあった淡桃色の聖晶はない。
 今でも正式には西の主神殿の正神官であるティレーマは、ただ身を寄せていただけのこの地方神殿では、実質的には還俗は出来ない。あくまでも形だけのものだ。
 主位神官もそれがわかっていて、『神官である事を忘れろ』と言ったのだ。だからこそ、ティレーマは自ら聖晶を手放す形でけじめをつける事にした。
 命の危険から持ち主を守るというそれを、主位神官は最初受け取ろうとはしなかったが、口約束だけでは問題があるというティレーマの主張を受け入れ、最後には受け取った。
 聖晶がなくても聖女としての力は使えるし、神官としての術も使える。
 今の状態ならば、主位神官がティレーマに聖晶を返し、またティレーマがそれを受け取る事を拒否しなければ、また元の神官に戻る事も不可能ではない。
 ── 今だけ。
 全てが終わる時までの、限られた自由だ。
 だからこそ、ティレーマは神官服を脱がなかった。それは、戒め。この自由に溺れてしまわない為の──。
 こちらに戻って来る度に少しずつ整理や掃除をしていた為、準備はすぐに整った。
 部屋を出て玄関へと向かう。
 その途中で幾人かの神官達とすれ違ったが、彼等はこのままティレーマがここを離れるとは思っていないのか、荷物を持っていても特に気に留めた様子もなく、いつも通りの笑顔で会釈してくれる。
 本当はちゃんと別れを告げたかったけれど、これでもいいような気がした。いつか必ずまた、ここに来ようと心に誓う。だから、お別れは言わずに。
 玄関先では共に神殿に来ていた少女がティレーマを待っていた。
「あ、ティレーマ様! 挨拶、終わったんですか?」
 医師も施療師もいなかった神殿に、怪我人の治療を目的に反乱軍から派遣されていた人々が数人、少し離れた場所で動き回っている。
 少女── フィルセルもその一人だった。
「ええ、待たせてしまってごめんなさい」
「大丈夫ですよっ。そんなに待っていませんから」
 従軍しているだけあって、肉体的にも精神的にも『大人』ばかりの医師団の中、最年少のフィルセルはどうにも目立つ。
 だが、その屈託ない明るさと人見知りしない性格は、パリルの、特に幼い子供達には歓迎された。
 施療師としての腕はまだまだだが、ともすれば沈みがちなパリルの民にその前向きな明るさは必要なものだった。適材適所とはよく言ったものだ。
 彼女を派遣する事に決めた人間がそこまで考えていたかはわからないが、いるといないのとではおそらく少々違う結果になっていただろう。
 ティレーマもまた、フィルセルの明るさに助けられた一人だ。
 何しろ当然ながら、反乱軍は知らない人ばかりで、ついでに不信心者も多く、神官に囲まれて生きてきたティレーマにとっては、なかなかに馴染みづらい場所だったのだ。
 しかもティレーマは本人の意識はさておき、皇女である上に、反乱軍を率いるミルファの姉である。どうしても遠慮が先に立ち、近付いて来ない。
 そんな中、ティレーマに自分から声をかけて来た数少ない人間の一人がフィルセルだった。
「…あれ? ティレーマ様、聖晶は?」
 僅かな変化を目ざとく見つけて、不思議そうに尋ねて来る。一番最初に言葉を交わした時もそんな感じだった。
 それが聖晶ですか? 紅水晶みたい。綺麗ですね〜♪ ── それが第一声。
 一応、ティレーマがミルファの姉という事はわかっていたようだが、好奇心が勝ったらしい。それ以来、気がつくと顔を合わせると話をするような間柄になっていた。
 時折、フィルセルと一緒にいるジニーという名の少年が言うには、自分はフィルセルに『懐かれた』らしく、ついでに何故か同情するような目を向けられたのだが、その真意は今の所不明のままである。
「来た時はつけてましたよね……? も、もしかして落としちゃったとか!?」
 早合点して、自分が落とした訳でもないのに「大変、探さなきゃ!」と慌てるフィルセルに、ティレーマは思わず吹き出した。
「…何で笑うんですか、そこで」
「く…ご、ごめんなさい。ええと…そうね、ここで立ち話をするのもなんだから、歩きながらにしましょう。フィルの方はもういいの?」
「はい、あたしは特に荷物とか持って来てませんし。他の人達も明日の様子を見て戻るそうです」
「そう…じゃあ、行きましょうか」
 何事もなかったかのように促し、ティレーマは先に歩き出す。
 傾きかけた陽の光が、背後から道を照らし出す。途中で一度足を止め、背後を振り返りかけたが、結局そのまま振り返る事はしなかった。
 自由に── 何物にも縛られる事なく。心の赴くままに、信じた道を進む。だから振り返る必要はない。
 また、いつかここに戻って来るのだから。

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