天 秤 の 月
第四章 呪術師ザルーム(4)
「ええっ!? 神官…辞めちゃったんですか!?」 聖晶を手放した事と次第を聞いたフィルセルは、パリルへと続く街道のど真ん中でそんな驚きに満ちた大声を上げた。 パリルの壊滅以来、すっかり往来の途切れたそこに、二人以外の人影はない。 いないが── その分、その声は必要以上に響き渡り、少し離れた木立からバササッと音を立てて驚いた鳥が飛び立つ程だった。 「フィル…そんなに驚かなくても……」 「す、済みません…でも、これを驚かずに何を驚けと言うんですか〜〜!!」 フィルセルも一般の人々同様、ラーマナに対する特別な信仰心はなく、神官の事などろくに知らないが、聖晶が彼等にとって重要なものであるという認識はある。 それをあっさり手放したなどと言われて、驚くなという方が無理に違いない。そう言葉でも態度でも訴えるフィルセルに、ティレーマは苦笑するしかなかった。 フィルセルでさえこれ程驚くのだ。他の人間もおそらく同様の反応を取るだろう。 (…ミルファはどうかしら) 未だ完全には打ち解けたと言い難い、腹違いの妹の反応を想像してみるが、何故かフィルセルのように驚く気がしなかった。 驚くよりもむしろ──。 (── 怒るかも……) 感情の起伏をほとんど見せないミルファだけに、怒る姿も想像し難い所だが、驚くよりはまだしっくり来るような気がした。 今更ながら、少々無謀な事をしてしまったかもしれない、と思ったが、それでもこの選択は間違っていないと自分に言い聞かせる。 「いくら形だけでも…聖晶を身に着けていて神官ではありません、なんて── あまりに説得力がないと思いませんか? フィル」 「…それは、そう思いますけど」 ティレーマの説明に一応は頷くものの、フィルセルはでも、と切り返す。 「── 聖晶がなかったら、命の危険が増してしまうんじゃ……?」 憚(はばか)るようにぼそぼそと言われた言葉は、的確にティレーマの痛い所を突いていた。 そう── そこが問題なのだ。 その事を理解した上で預けてきたものの、この点を突っ込まれると何も言い返せない。いざという時どうするかまで、すぐに考えつけはしなかったのだから。 命を狙われている自覚がない、と言われても仕方がない。だからこそ、ミルファが怒りそうな気がしたのだが……。 「…わたくしも、ミルファのように剣の使い方を学ぶべきかしら」 特に良い考えも浮かばず、何となく思った事を口にする。 今まで殺生だけでなく傷つける事自体を禁じられてきただけに、剣が使えたからと言って反撃など出来ないだろうが、何もないよりは良いような気がしたのだ。 しかし、それを聞いたフィルセルの反応は予想以上に激しいものだった。 「何言ってるんですか、ティレーマ様っ! そんな事する必要はありませんよ!!」 拳を握り締めての主張に思わず気圧されながら、ティレーマは言い募る。 「…でも、フィル。自分の身を自分で守れないから問題があるのでしょう?」 「そうなんですけど、でも駄目です!! 確かにミルファ様はルウェンさんから剣の手ほどきを受けていらっしゃいますけど、ミルファ様の場合は南領にいた頃にしっかり基本を学んでいるんですよ? ティレーマ様は今まで、剣なんか触った事もないでしょう。もし…うっかり手元が狂って怪我したり、か、顔に傷とかついてしまったら……!!」 答えつつも、実際そうなってしまった場合を想像してしまったらしく、フィルセルの顔から、さああっと音を立てる勢いで血の気が引いた。 「いやああっ、そんなの許せませんっ!! ティレーマ様のお顔に傷だなんてー!! ともかく駄目です、絶対に駄目ですっ。そうですよ! そういう事はルウェンさんとかに任せておけばいいんです!!」 至極真面目な顔で、立て板に水の勢いできっぱりと言い切る。 その迫力に負けて、間でまったく口を挟めなかったティレーマははて、と首を傾げた。 (ええと…今の主張だと、何だか命より顔の方が大事って聞こえたのだけど……) 実際その通りだったが、自身の美貌に関してまったく無頓着なティレーマは、まさかね、とそのまま流した。 「ルウェンさんとかって…ルウェンさんはミルファの騎士なんでしょう? 他の兵士の方々だって別の目的があってここまで来ているんですから、そんな事をさせるなんて……」 「そんな事、じゃないですよ! ティレーマ様はミルファ様の姉…皇女殿下なんですよ? 兵士様がその身を守るのは当然じゃないですか。── と言うか、ティレーマ様の護衛なら、むしろ誰もが進んでやりたがると思いますけど」 「……? 楽だから、ですか?」 「違います。…本当に自覚ないんですね、ティレーマ様……」 ティレーマの認識がずれまくった反応に、思わずため息が出た。 皇女という身分と神官という立場から、誰もが表立っては接近しないが、黙って立っているだけでも花のあるティレーマの人気は高い。 その事実を裏付けるように、ティレーマと親しくなった辺りから、フィルセルは兵士達によく声をかけられるようになった。…理由は語られずとも明らかだ。 話のついでのようにして話題に上るのは、最終的にはティレーマの事なのだ。あまりにもわかりやす過ぎて、からかう気にもなれない。というか、いっそ涙ぐましい。 彼等が従うミルファも十分整った外見をしているのだが、年若さの為か、それとも何処か人形じみた華奢な外見の為か、はたまた南領妃サーマの娘だからか、どうにも庇護欲の方が先行してしまうらしい。 セイリェンの戦い以来、統率者として心酔する者も多いが、その事が逆にミルファに向かう感情にそうした甘さがない事を示していた。 …それ以前に、ミルファにはそういう感情を抱かせる隙がない、とも言えるが。 対してティレーマは、神官として育ってきた為か、人に対する壁がない。庶民に近い生活をしていた事も理由の一つだろう。 結果として、今ではすっかりティレーマは反乱軍の兵士達の憧れの存在となっている。知らぬは本人ばかりだ。 (そんなティレーマ様だからこそ、声をかける事が出来たんだけど── …!?) と、そこまで考えたフィルセルは、はっとある事に気付いた。 ── 形だけとは言え、神官でなくなったという事は。 「…ティレーマ様」 急に真顔になったフィルセルに、何事かと窺(うかが)ったティレーマはその顔色に目を見開いた。 「どうしました、フィル? 何だか顔色が……」 「大丈夫です、何でもないですから。それより…神官を辞めた事は、ミルファ様以外には言っちゃ駄目ですよ?」 「え?」 急にそんな事を言われ、ティレーマは面食らった。 唐突ともいえる話題の飛躍に付いて行けないながらも、いくら何でもそれは無理があるだろうと思う。 先程のフィルセルのように、聖晶がない事に気付く人間が出て来るだろうし、もしその理由を尋ねられたら答えない訳には行かないではないか。 第一、秘密にする理由も特に思い当たらない。確かに皇帝側に知られると問題があるかもしれないが、こういう事は黙っていてもその内知られる事だ。 「どうしていきなりそんな事を?」 全く理由がわからずに質問すると、フィルセルはぐっと言葉に詰まった。 「え、ええと…ほら、だからですね?」 「???」 (い、言えない…変な『虫』がつくといけないから、なんて……!) 神官でないという事はすなわち、『手出しOK』という事だ。 もちろん、あくまでも形だけだし、神官に戻るつもりがあるティレーマがその気になるとは考えられないが、そうと知って暴走する人間が出て来ないとは言えないではないか。 それを心配しての忠告だったが、少々裏目に出てしまったらしい。 もっとも、別の意味で世間知らずのティレーマである。その通りに説明した所で、『虫』が何を示すか理解出来るか怪しい所だが。 「神官ではないと公表しなかったら、先程フィルが言った『誰かに守らせる』方法も出来ないんじゃないかしら?」 「うっ、そ、そうなんですけど」 フィルセルの心配を余所に、のほほんと言葉の矛盾点を突いてくるティレーマに、心の中でどうしたものかと頭を抱える。 変にティレーマを構えさせず、かつ、そうした『身の危険』に対する注意を喚起するにはどうしたら良いのか、うまい具体策が見つからずに困り果てたその時だ。 思わぬ所から助けの手が入った。 「── フィル、止まって」 不意に表情を引き締めたティレーマが、ぐっとフィルセルの腕を掴んで歩みを止めさせる。 「…ティレーマ様?」 「シッ、…黙って」 ふと気がつくと、周囲は木立に囲まれた視界の悪い場所に差し掛かっていた。 街道の両横に広がる木々が道の上に枝を伸ばし、重なり合い、陽射しを遮って視界を薄暗くしている。 サワサワという葉擦れの音がする以外は、他に音らしい音がしない。 だが、西の主神殿から単身旅をした経験のあるティレーマは、そこに紛れた微かな気配を感じ取っていた。 それは── 殺気。 (後ろと…横かしら。囲まれてはいないようだけど……) ちらりと横にいるフィルセルを流し見る。只ならぬ雰囲気を感じ取ったのか、緊張した顔で周囲を不安そうに見回していた。 やがてその目がティレーマに向き、抑えた声が尋ねてくる。 「…もしかして……何か、いるんですか?」 「── ええ」 怖がらせたくはなかったが、変に期待を持たせるのも良くない。 そう判断して言葉少なに肯定すると、フィルセルはきゅっと身を竦めた。そしておそるおそる口を開く。 「ま、魔物でしょうか?」 言われてその可能性がある事に気付いたが、すぐに違うと否定する。もしそうなら、わざわざ気配を殺すとは思えない。 だとしたら獣だろう。人の行き来があった頃は避けて出没しなかったそれ等が、行き来が途絶えた事で現れるようになったのかもしれない。 油断したと思ったが、後の祭りだ。 立ち止まった事で相手に警戒心を抱かせたのか、すぐに仕掛けてくる様子はないが、このままではその内襲ってくるだろう。 ── ここをどうやって切り抜けるべきか。ティレーマはすぐに決断した。 「フィル、落ち着いてわたくしの言う事を聞いてください」 「は、はい」 落ち着けと言われても、出来るものではない。しかし、フィルセルは硬い表情ながらもしっかり頷いた。 「これから目くらましの術を使います。…呪術師の使うもの程の威力は期待出来ませんが、時間稼ぎにはなるはずです。怖いとは思いますが目を閉じて── わたくしが走るように言ったら、すぐに走って下さい。この木立を抜ける事だけを考えて。…わかりましたか?」 「はい…っ」 このような危機的状況を前に、自分を見失わない辺りは流石だと感心しながら、フィルセルは言われた通りにぎゅっと目を閉じた。 それを確認すると、すぐさまティレーマは聖句を唱え始める。 「── 唯一の神ラーマナよ。我は汝に永遠の忠誠を誓う者なり。我、ここにその御力を貸し与え給う事を求めん」 ふっと身体の内に、力が湧き上がる。《癒しの奇跡》とは異なるその感覚は、随分と久し振りに感じるものだった。 (…フィルだけでも助けなければ) 当のフィルセルが聞いたなら、『立場が逆ですよ、それ!!』と突っ込んだに違いない事を考えながら、時期を窺う。 せめて今が夜なら、多少距離があっても効果が期待出来ただろうが、今はまだ明るい時分である。出来るだけ相手との距離が縮まる必要があった。 背後と側方の気配はじりじりとこちらに近付いてきている。向こうもこちらを襲う時期を推し量っているのだろう。 …あと、もう少し。 なかなか動かない気配に僅かな焦りを感じるが、ぐっと堪える。守る対象がいるからだろうか、もう身を守ってくれる聖晶がないのに、不思議と恐怖は感じなかった。 そして、それからどれ程の時間が過ぎた頃か。 ザッ! と繁みの鳴る音と共に、ついに背後の気配が動いた! 「…っ、我が手に光を!!」 間を置かず、振り返りざまに手を背後に向けると、それを中心に瞬時に眩い光が放たれる。 薄闇を切り裂く光のナイフは、まさに飛びかからんとしていた獣達の目を焼いた。 ギャン!! そんな叫びが上がる中、ティレーマは鋭く言い放った。 「走って!!」 言いながら、フィルセルの腕を引いて走り出す。 慌てて目を開いたフィルセルが、自分で走るのを確認してから手を離すと、ちらりと背後を確認した。 あの光に驚いて逃げてくれれば── そんな希望的観測は、残念ながら叶わなかった。 光の衝撃でよろめきながらも、獣達は逃げる事なくそこにいた。濃い灰色の体毛でそれが何か判断したティレーマは、そっと唇を噛み締める。 (…ガーディ……!) それは帝都周辺の森林を主な生息地にする、獰猛(どうもう)さで知られる獣。 よくよく考えれば、今は夏。この春に生まれた仔が、親について狩りを学ぶ季節だ。 目的が目的である為、この時期のガーディは空腹でなくても生き物を襲う。しかも獲物の弱点を教える為にか、一噛みでは仕留めず嬲り殺しにする事が多い。 狙った獲物は逃がさない。それが、この時期のガーディの特徴だ。 やがて光の衝撃から立ち直った成獣達が、体勢を立て直す。その目にあるのは思わぬ反撃をしてきた獲物に対する怒りだ。 そして灰色の獣は大地を蹴って駆け始める。人と獣、どちらの足が速いかなど比べるまでもない。 ── 事態は最悪だと言えた。 |