天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(5)

 大部分の復旧が終わり、パリルの街には元の穏やかな雰囲気が生まれつつあった。
 まだ撤去しきれない瓦礫や、焼き焦げた後のある石造りの壁や、抉(えぐ)られた道など、魔物のよって受けた傷跡は残っている。
 だが、一部ながらも人が戻った事で、廃墟だった頃にはなかった活気が見られるようになっていた。
「剣の手入れですか?」
 街角で詰まれた木箱の一つの腰掛け、休憩がてら愛刀を磨いていると、背後からそんな声がかかった。
 振り返らずとも声の主はわかる。ルウェンは背後に目を向けてにやりと笑った。
「おう。二、三日したら出立だからな」
 予想通り、顔馴染みの赤毛の少年が興味深そうな顔で彼の手元を見ている。
 復興作業中は皇女ミルファの指示を伝える為、作業をする兵士よりも多忙だった伝令達だが、ようやくその忙しさから解放されたようだ。
 そのまだ何処か幼さを残した顔には、若干の疲れは残っていたが、表情はすっきりと明るい。
「伝令の方も落ち着いたようだな、ジニー」
「ええ。大部分の作業が終わったので、今の内に休息を取るようにと指示が出ました。…いよいよですね」
「ああ、そうだな」
 そう── パリルを出立したら、目指すは帝都、その次は皇帝の座す帝宮だ。
 今まで反乱軍に対しては妨害らしい妨害を受けていないが(せいぜい、西に向かう途中で魔物に襲われた程度だ)、いくら何でもこれから先はそうも行かないだろう。
 だからこそ、今の内にとルウェンも剣の手入れをしていたのだが──。
「もしかして、緊張してるのか?」
 何処となく肩に力が入っているような気がして尋ねると、ジニーは少し、と照れ臭そうな顔で肯定した。
「おかしな話ですよね。僕らは直接には戦いには参加しないのに……」
「いや、別におかしくはねえだろ。俺もそうだし」
「え? ルウェンさんでも緊張する事ってあるんですか?」
 心底意外そうに言われて、ルウェンはちょっと傷付いた。
「…ジニー、お前俺を何だと思ってるんだ?」
 まるで心臓に毛が生えていると言わんばかりの言葉である。確かに肝が据わっている方かもしれないが、緊張くらいはする。
「俺も人の子だぞ。緊張くらいするに決まっているだろう」
 じとりと睨まれて、ジニーは慌てて謝った。
「あ、済みません。だって、ルウェンさんはいつも堂々としているし……。魔物相手に対等に渡り合える人が緊張するのかと思ったら、ちょっと意外で」
 しどろもどろの答えに、ルウェンはやれやれと表情を和らげた。
 こういううっかりした発言をするという事は、それだけ自分に対して気を許してくれているという証明なのだろう。
 最近では南領の兵とも馴染んできて、世間話をするようにもなったが、完全に打ち解けたとは言い難い。
 ルウェン自身はその内静まると思っていたセイリェンの戦いでの英雄視は今も続いており、誰からも一目置かれる態度で接されるのだ。特にそれは同世代やそれよりも若い世代に顕著だった。
 そういう意味では遠慮なしに話す事の出来るジニーやフィルセルは、ルウェンにとっても特別な存在だと言えた。気を使わなくて良いので楽なのだ。
(…そう言えば、この頃フィルの姿を見ないな)
 怪我をしている時は恐ろしい以外の何者でもないが、そうではない時は屈託のない、そこにいるだけで周囲を明るくする少女である。
 姿を見ないとなると、何だか妙に周囲が静かに感じてしまうから不思議だ。
「なあ、フィルはどうしたんだ? この頃、全然姿を見ていない気がするんだが」
「え? フィルですか? それなら施療師の一員として地方神殿に行ってますけど」
「はあ!? ──…だ、大丈夫なのか?」
 フィルセルに看護を受けた身として、思わず地方神殿にいるパリルの人々に同情してしまうルウェンだったが、ジニーは平然とした顔で頷いた。
「大丈夫ですよ。フィルは大人しく治療を受ける人には親切ですから」
「── えーっと……」
 ジニーにはそういう意図はなかったようだが、大人しく治療を受けなかったと言外に言われたようなものである。ルウェンはぐっと言葉に詰まった。
 そんな事はないぞ! と反論したい所だが、脱走しようとしたり、安静と言われながらもこっそり隠れて素振りをしたりと、フィルセルの指示を無視した前科が邪魔をする。
 だがジニーはルウェンの内心に気付いた様子もなく、更に続けた。
「それに最近、ティレーマ様にすごく懐いてて。今回も同行して、一緒に戻って来るという話でしたよ」
「…ティレーマ様に? ああ、そういやくっついてた記憶があるな」
 少々意外な組み合わせだったので、ルウェンの記憶にも残っていた。
 皇女であり神官でもあるティレーマと施療師見習いのフィルセルに接点らしいものはなく、何で一緒にいるのだろうと思ったものだ。
「フィルは昔から年上の女の人に弱いんですよ。南領にいた頃でも同世代の友達がほとんどいなかったせいか、女官の人達に可愛がられていましたし」
「…で、年上の男には容赦がないと?」
「── …まあ、そうですね」
 ルウェンの突っ込んだ質問に、一応自分も『年上の男』に属するジニーは苦笑いする。だがすぐにふと思い出したように、でも、と言い添えた。
「あれでフィルはルウェンさんの事を気に入ってますよ?」
「あれでか!?」
 今まで受けた数々の仕打ちを思い出し、顔を引きつらせるルウェンに、ジニーはええ、と頷いた。
 確かにフィルセルの親愛を示す表現はわかりにくいが、それなりに長く近くで見ている者には単なる嫌がらせなのかそうでないかはわかる。
「フィルは基本的に天邪鬼なんで、気に入っている人程ちょっかいかけるんですよ。…まあ、たまに勢い余ってやり過ぎてしまうみたいですけど」
「…勢い余って、ひびの入った肋骨を張り飛ばされる身になれ……」
「は、はは…そう言えばやられてましたね……。あと、南領主様やザルーム様には一目置いてますよ。お二人共、フィルにとっては恩人ですからね」
「…恩人? って、フィルの奴もザルームと面識があるのか」
 言いながらもそう言えば、と思い出す。
 初めてジニーと顔を合わせた時、フィルセルはやって来たジニーに言っていた。

『あなたはザルーム様付きの伝令なんでしょう?』

 そう── あれは自分が面会謝絶だった事を知った時だ。
 何故かフィルセルが口にした『ザルーム』という名が意識に引っ掛かったお陰で、その時の事ははっきりと覚えている。
「え? ああ…そう言えば話してませんでしたっけ。そうですよ。僕とフィルは同じ時にザルーム様に会ったんです。正確には、フィルがもうちょっとで大怪我する所を助けて貰って、僕がその場に居合わせたんですけど」
「へえ…そうだったのか」
 ジニーならばともかく、フィルセルとザルームとなるとまったく想像できなかったが、理由を聞いて納得する。
「まあ、フィルはあれ以来ザルーム様とは顔を合わせていないはずですけどね。僕が伝令になるまで、二人ともザルーム様の名前も、それ以前に何処の誰かも知りませんでしたから。…ああ、そう言えばザルーム様もこの頃、姿を見ないんですよね」
「そうなのか?」
 元々、表立っては姿を見せない人物である。
 姿を見ないのが当たり前のルウェンには気にならない事だったが、接点のあるジニーには気がかりそうな様子を隠さずに頷いた。
「今は特に斥候とかの必要もないだろ? ザルームも今の内に何処かで骨休めでもしてるんじゃないか?」
「そうならいいんですが……」
「…何か、気になる事でもあるのか?」
「いえ、そういう訳じゃないんです。ただ、このパリルに来てから一度しか姿を見ていないので……」
「そうか」
 ジニーの受け答えに相槌を打ちながら、ルウェンは一つ思い当たる事を思い出していた。
 当のザルームと交わした、半月前のやり取りを──。

+ + +

「── お話とは何でしょうか、ルウェン殿」
 人々が休息に入り、一時の静寂が支配する中、そんな言葉で呼び止められた。
 声の方に顔を向けると、朝の薄い光の下、先程見たばかりの赤黒いローブ姿が佇んでいて──。
「…待ち伏せか?」
 話がしたい、と言ったのは自分の方だったが、よもやこんな所で待っているとは予想していなかった為、思わずそんな事を尋ねていた。
 てっきり、自分が彼の所在地(後でジニー辺りに確認するつもりだった)へ向かってからだと思っていたのだ。
 まるで自分が皇女ミルファの元を退出するのを待っていたかのような様子に、少し意外な思いを抱いた。
 何というか── 何か急いているような。そんな感じがした。
「そう受け止めて頂いても構いません……。先程、話があると言っていたでしょう。動き出す前が宜しいかと思ったのですが」
「そりゃ気を使わせたな」
 特に急ぐ話でもなかったが、彼の方から姿を見せてくれたのだ、この機会を逃す理由はない。ルウェンは早速本題に入る事にした。
「── あんたにはちゃんと聞いておきたい事があるんだ。だが、その前に…左腕を見せてくれないか?」
「……!」
 よもやそこに話が及ぶとは思っていなかったのか、それとも気付かれる事を恐れていたのか── 全身を布で覆い隠したその肩が、小さく揺れたのをルウェンは見逃さなかった。
「先刻、あんたが現れた時に血の匂いがした。地方神殿を見に行った時に怪我でもしたのか?」
「…お気づきでしたか」
 微かに苦笑の混じった言葉には、先程までは感じさせなかった疲労感が漂っていた。
「流石はルウェン殿…誰にも気付かれないだろうと思っていたのですが」
「いいから見せろ。その様子じゃどうせ大した処置もしてねえんだろ」
「大丈夫です。…出血はもう止まっておりますから」
「そういう問題か?」
 ザルームの見せた少々意外な無謀さに、ルウェンは眉を顰(ひそ)めた。
 先程よりも明るくなり、ザルームの袖に広がる黒い染みの範囲が予想よりも大きい事がわかる。
 袖の先だけかと思いきや、実際には左袖全体が他よりも黒味を増していた。身に着けているローブに切り裂かれたような様子はなく、一体どうやって傷を負ったのかも謎だ。
 相手がザルームでなければ、そのまま無理矢理にでも袖をめくって傷を確認する所だが、相手は姿を消したり現れたり出来る呪術師である。
 ここで逃げられたら、尋ねたい事も尋ねられずに終わりそうで、ルウェンは追求を諦めた。
「まあ、いい。後でちゃんと手当てしとけよ。それじゃ本題に入るぜ。── あんた、セイリェンで言ってたよな。『今の所は』味方だって」
「…ええ」
「今度は逃げるなよ。あれはどういう意味か、真意が知りたい。── あんたは皇帝側の人間なのか?」
 単刀直入に尋ねられた問いに、ザルームはゆるりと頭(かぶり)を振った。
「…いいえ。信じて頂けるかわかりませんが、陛下との繋がりはございません」
 その否定はルウェンの予測通りだった。
 最初こそ疑ったルウェンだが、ミルファへの献身は偽りのものには思えなかった。…だからこそ、疑問は募ったのだが。
「じゃあなんであんな事を?」
「…それは話せません。セイリェンでも忠告したはずです、ルウェン殿。事はあなたが思うよりも深刻だと」
「ああ、確かに聞いた。だが俺も言ったはずだぞ。── 相手がどんな化け物でも、手を引くつもりはねえ」
 互いに一歩も譲らない二人の間に、しばし沈黙が落ちる。睨み合うような激しさはなかったが、短くも息詰まるひと時だった。
 やがていつまでも続きそうだった均衡は破られる。先に口を開いたのはザルームだった。
「……。それ程にソーロン様の敵を討ちたいのですか?」
 試すような言葉に、ルウェンはにやりと口元に本来の笑みを浮かべた。
「それもある。でも今は…ただ、手助けしたい気持ちが強い」
 誰の、が抜けていても、その思いは伝わったようだった。ふと、張り詰めたような空気が緩む。
「そう思うならば…支えて下さい。あの方には支えが必要です。心を許せる誰かが──」
 だが、続いた言葉はルウェンの予想を超えていた。思わず目を見開く。
 その言い様ではまるで、自分ではそれが出来ないと言っているようではないか。今まで誰よりも側にいたはずなのに──。
「あんたがいるだろう? あんたが支えになればいい」
 言いながらも思い出すのは、皇女ミルファが時折見せる孤独な顔だった。
「皇女ミルファも、あんたにこそ支えになって欲しいと思っているんじゃないのか!?」
 言いながらも何故か無性に腹が立ってきた。
 確かにミルファは、初めて顔を合わせた時よりは柔らかな表情を見せるようになっていた。
 側に近くに仕える自分や姉であるティレーマに対しては、少しは気を許せるようになったのか、本来の少女らしい顔を見せるようになった気もする。
 だが、それだけだ。
「あんたが一番長く、側にいたんだろう? なら……!」
「── それは出来ないのですよ」
 感情のままに訴えた言葉を途中で遮るように、ザルームは静かに言い放った。
「私は…『影』です。光と共に在る事は許されません。ミルファ様に必要なのは、同じ場所で支えてくれる手です。こんな── 汚れた血で塗れた醜い手では駄目なのですよ」
「…!!」
 言いながら持ち上がった左手は、本来の色を失くして全体が赤黒い色に染まっていた。
「やっぱり怪我を……!?」
 普通の出血ではこうはならない。
 驚くルウェンに、ザルームは平然とした様子で再び左手を下ろした。そしてそのまま、話は終わったとばかりにすうっとその姿を消してゆく。
「ちょ、ちょっと待て!! まだ話は終わってねえぞ!?」
 そのまま掴みかかるが、伸ばした手はローブの端を掴む事も出来ない。
 結局ルウェンは、またしても話の途中で逃げられてしまったのだった──。

+ + +

 ── そして半月が過ぎた。
 あんな風に消えた以上、向こうから姿を見せる事はないような気がして、すっきりとしない思いを抱えたままで今日まで来たのだが、よもや自分以外にも姿を見せなくなっていたとは思わなかった。
 思い出すのは赤く染まった左腕。
 ジニーの様子を見るに、あの負傷は他には誰にも知られていないようだ。果たしてちゃんと手当てをしたのだろうか。
 今更ながら少し心配になった。
 どのような状況でどんな風に傷を負ったのかはわからないが、あれだけの出血である。何針か縫う必要だってあったに違いない。
 まさか自分で縫ったりはしないだろう。だとしたら、やはりそのまま放置している可能性が高い。
 ── 無謀もいい所だが、否定出来ない辺りが恐ろしい。無謀さではルウェンも相当なものだが、流石に傷を放置まではしない。
 小さな傷一つと侮って、剣が握れなくなっても困るからだ。
(傷の具合が悪い訳じゃねえよな……)
 うっかり失念していたが、ザルームはあの様子ではそれなりに高齢のはずで。つまり自分よりも体力は劣るだろうし、回復力も低いはずだ。
 やはりあの時、無理にでも捕まえて治療させるべきだったのでは、と思っても後の祭りだ。万が一の事など起こってはいないと思うが、もし起こっていたら寝覚めが悪いどころではない。
(…後で確認した方が良さそうだな)
 いくら何でもミルファの呼びかけならあのザルームも姿を見せるはずだ。
 まだ何処か不安そうなジニーを励ましながら、そんな事をルウェンは決意していた。

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