天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(6)

 さらさらと時間が零れ落ちてゆく。
 引っ繰り返した砂時計の、残りの砂がどれだけ残っているのか誰にもわからない。
 けれど確実にその時は迫っている。…刻々と。

 ── …食われるぞ、何もかもを。

 かつて聞いた言葉が、次第に現実味を帯びてゆく。
 それは果たして『契約』を無視した結果なのか、それとも単に『終焉』が近付いている為なのか。
 そっと、ローブに包まれ隠された左腕に触れる。
 先日の術で犠牲にしたそこは、動かす事は出来るものの、感覚が麻痺し、触れる指の感触を感じない。
 彼は容貌を隠す布の内で、小さくため息をついた。
 果たしてあとどれ位、側にいる事が許されるのだろう。
 果たしてあとどれ位、自分を失わずにいられるだろうか。

 わかっている事はただ一つ。
 審判の日は── 近い。

+ + +

 ここは森ではなくて、しかも歩きやすいように足元が整えられた街道だったけれど。
 『森の番人』という別称を持つ獣は、その名に相応しい動きで前方を走る『獲物』に向かって駆け出した。
 不意打ちで受けた光はそれなりの威力を秘めていたが、殺傷力はまったくない。回復してしまえば、彼等の動きを制限する事もなかった。
 人間── しかも体力的には男に劣りがちな若い女達の足は、彼等が普段狩る生き物に比べればずっと遅く、その差は見る間に縮んでゆく。
 追いかける六匹の内、二匹は他と比べれば身体が小さい。おそらく、この春生まれたものだろう。
 数だけを見れば、群れを作って生活するガーディにしては少ないと言えたが、その獰猛さが変わるはずもなく──。
(…追い着かれる……!!)
 獣の荒い息遣いを身近に感じながら、ティレーマはひやりとしたものを背筋に感じた。
 目くらましはもう効かないだろう。
 彼等が『森の番人』と呼ばれるのは獰猛さもさる事ながら、非常に賢い生き物だからだ。まったく無効ではないだろうが、油断していた先程とは違う。
 そうなると── 攻撃手段を持たない二人に取れる手段はほとんど残されていなかった。
(わたくしが…足止めをすれば……)
 簡易な結界を張れば、相手がガーディだとてその攻撃を凌ぐ事は出来る。現に、ティレーマは過去に何度かそれで難を逃れてきた。
 だが、そうしても六匹のガーディが全てティレーマに向かうとは限らない。もし、一匹でもフィルセルの方へ行ってしまったら──。
(…出来ない)
 あまりにも危険性が高過ぎる。
 せめて自分以外の人間も含めて結界が張れれば良いのだが、それにはそれなりの集中と精神的な余裕が必要だ。
 だがこのままでは二人ともガーディの餌食になるのは目に見えて明らかだった。
(どうしたら……)
 うまい解決策が見つからないまま、出来る事はひたすら前に向かって走るだけ。だが、いくら体力があろうとずっと全力疾走など出来るはずもない。
「…きゃあっ!?」
 僅かに前を走っていたフィルセルの足がもつれた。
 体勢を取り直そうとするものの、勢いがつき過ぎてうまく行かず、そのまま地面に転倒してしまう。
「フィル……!」
「い、ったあ……」
 小さく呻くフィルセルを抱き起こし、抱え込むように走ろうとして── ティレーマの目はまさに自分達へと迫る、灰色の生き物を捕えていた。
(── …っ!!!)
 反射的に身体が動いていた。
 フィルセルの身体から腕を放し、そのままガーディの牙から庇うように広げる。
 唾液に濡れて輝く白い牙が、その咽喉元目掛けて飛び掛る──!!
「っ、ティレーマ様っ!!」
 フィルセルの細い悲鳴が聞こえた。もう駄目だ、そんな風に覚悟を決めたその時だった。

「── メイ・プロス・テス」

 何処からともなく、そんな声が聞こえたかと思うと、まさにティレーマの咽喉笛に噛みつかんとしていたガーディが、その直前で跳ね飛ばされた。

 ギャウッ!!

 仲間の悲鳴に、第三者の介入に気付いたのか、後に続こうとしたガーディ達が動きを止め、低姿勢のまま周囲を見回す。
(今のは……?)
 激痛を予想していたティレーマも、何が起こったのかわからず、呆然と立ち尽くす。その少し乱れた髪を、優しい風が揺らした。
(風……?)
 西領でもこの辺りは穏やかな風が吹く事で知られているが、木立の中にまで吹き込んで来たにしては、周囲の木々は静かだった。
 ティレーマとフィルセルの周りにだけ、風が取り巻いている。── 守るように。
「ティレーマ様! ぶ、無事ですか……っ!?」
 先に我に返ったのはフィルセルだった。
 先程転んだ拍子に膝が擦り剥け、僅かに血が滲んでいたが、それに構わず立ち上がって立ち尽くすティレーマに駆け寄る。
「あ、あたしを庇うなんて無茶しないで下さいよ…!! ティレーマ様に怪我とかされたら、あたし……っ」
 半泣き状態のその顔に、ようやくティレーマも自分を取り戻した。
 確かに今のは無茶以外の何物でもなかったと思う。無意識の行動だったとは言え、今更ながら冷たい汗が流れる。
「…取り合えず怪我はしてませんから。それより…誰かが助けてくれているようです。今の内にここを離れましょう」
「そ、そうですね……!」
 ガーディはまだ目の前にいる。だが、その賢さ故か、再び襲い掛かろうとはしてこない。
 小さく威嚇するような唸り声を上げながら、周囲を警戒している。ティレーマとフィルセルの行動も気にはなるようだが、第三者の存在の方が気になるようだ。
 そこに再び暗い声が響く。

「…メイ・ピューレ・デンジェ・プロティアン・ナ・ウィルタ……」

「……あ」
 ともすれば風に紛れてしまいそうなその声を拾ったフィルセルが、驚いたような声をあげる。
「フィル……?」
「この声…── もしかして……。ティレーマ様、逃げましょう! きっと、もう大丈夫です!!」
「え?」
 途端に表情を明るくしてその腕を引くフィルセルに面食らいながらも、慌ててティレーマは足を動かす。
 逃げようとするその動きに、ぴくりと若い二匹のガーディが反応する。しかし、周囲の大人達の警戒する様子に、追いかける素振りは見せたものの、結局その場に留まった。
 再び駆け出しながら、ティレーマは何かを知っていそうなフィルセルへ尋ねかけようとして── やがて再び聞こえてきた不可解な言葉に質問を飲み込んだ。

「ウィルタ・ラピティータ・ペルセム・リアス・イ・アリム──」

(…これは…もしかして、古代語?)
 耳に聞き慣れた響きではないが、特徴的な発音は何処かで聞いた覚えがあった。
 確かまだ、西の主神殿にいた頃──。

「…メイ・シリング・シリンクル・ナ・フィーチス……」

 ざわ…っ……ざざ…ざあああ…ぁぁああああ…──っ!

「…っ、な、何!?」
 何処で聞いたかと記憶を辿っていると、突然前触れもなく周囲の木々が激しくその枝を揺らし始めた。
 まるでそこだけ風が吹き荒れているかのように、葉擦れの音がその場を支配する。だが、身体にはそれだけの風は感じない。
 音の嵐に思わず耳を塞ぎながら、二人は先を急ぐ。ガーディに、というよりはその音に追い立てられるような形で二人は前だけを見て足を動かす。
 その背後で、まるで意識の糸を断ち切られたかように次々にガーディが地面へ倒れ伏していったが、ティレーマとフィルセルがそれを目の当たりにする事はなかった。
 やがて木立の出口が目に入る。そこを抜ければ、パリルまでの道のりはあと半分だ。
 再び視界が開け、目前になだらかな丘陵が姿を現した所で、ようやく二人は足を止めた。
 完全に安全とは言いがたいが、木立に比べればガーディのような獣の出現も少ない場所である。
「は…っ、はあ……、こ、ここまで来たら…は…大丈夫、でしょうか……?」
 乱れきった呼吸を整えながら、フィルセルが声をかけてくる。
「…保障は、出来ませんけど…はあ……おそらく……」
 返すティレーマの声も呼吸が乱れ、震えていた。長距離を歩く事はあっても、全力疾走する事など滅多にない事だ。
 二人はどちらともなく、その場にへなへなと膝を着いて座り込んでいた。
「── 助かったあ……」
「何とかなりました…ね……」
 極度の緊張から解放されて、どちらともなく顔を見合わせる。そして同時にぷっと吹き出した。
「…ティレーマ様、お髪が…乱れてますよ?」
「フィルセルこそ……さっき転んだ時に、服が汚れたままですけど」
 必死だった証とも言えるだろうが、二人の有様は結構ひどいものだった。
 だが、ガーディに襲われて無傷なばかりか逃げ延びれるなど、滅多にない事だ。こうして笑う余裕がある事を、その幸運に感謝しなければならないだろう。
 そして、それを可能にしてくれたあの声の主に対しても──。
(あれは…一体誰だったのかしら)
 あの時に聞こえた言葉が『古代語』なのだとしたら、恐らく助け船を出してくれたのは呪術師だろう。
 唯一神ラーマナを信仰する神官に対し、自然そのものに宿る力を至上と考える彼等が神殿に姿を見せる事は非常に稀で、ティレーマ自身は過去に二度ほど会っただけだ。
 直接会話を交わした事はない。
 最初に会ったのはひどく年老いた老婆で、次に会ったのは中年の男だったが、共通して感じたのは何とも表現の出来ない『存在感』だった。
 威圧感ではなく、ただそこにいる事を強く感じさせる独特の空気。そうしたものを纏っているように感じられた。
 …錯覚だと言われれば、それまでだが。
 古代語を諳(そら)んじられるのは、今となっては呪術師と呼ばれる者のみ。その詳細な意味を知る者になると、さらにその数は少ないという。
 神殿に来たその二人は、西の主神殿に伝わる古書を読み解く為に、頼んで来てもらった人々だった。
 その時に一度だけ耳にした言葉が、先程聞いた言葉に少しだけ似ていたのだ。

『── ミシェリータ・ヒルト・チェイル・ルリアス・イ・マキュル・ヘリアス・アズー・プロティアン・ナ・グレイブ……これは、約束された子供が皇帝となり世界を統べた、というような意味じゃ。…すなわち、初代皇帝の事じゃろうの』

 枯れた老婆の声が、先程の暗い声音に重なる。
(そう言えば、フィルはあの声に聞き覚えがあるみたいだったけれど……)
 ふと思い出し、その事を尋ねようとした時、何処からともなく声が聞こえた。
「…お二人共、お怪我はございませんか?」
「!?」
「あ!」
 思いがけない事に、思わずびくりと肩を振るわせたティレーマに対し、フィルセルはぱっと表情を明るくする。
「やっぱり……! ザルーム様!!」
「…? ザルー…ム……?」
 聞き覚えのない名前と、フィルセルの嬉しそうな様子に当惑しながら、ティレーマはそろそろと周囲を見回した。
 傾き始めた太陽の下、広がるのは緩やかに続く丘陵。
 …やはり、周辺に人がいる様子はない。では今の声は何処から聞こえてきたのか──。
「…どなたか、いるのですか?」
 姿を見せない声の主に問いかける声が、僅かに固くなってしまうのも仕方がなかっただろう。
 面識のあるフィルセルとは違い、ティレーマは呪術師というもの自体に免疫がないのだ。ましてや、それが空間を渡る異能力を持つ者だなど、想像すら出来るはずもない。
 そんなティレーマの心の内を見透かしたように、声の主はすぐにはその姿を現しはしなかった。
「突然、声のみで失礼いたしました…ティレーマ皇女殿下」
 大地の底から響くような、暗い声。けれどそこに悪意がない事は感じ取れた。むしろ自分達を案じるような気配すら感じるのは── 気のせいだろうか?
「いいえ…先程、わたくし達を助けて下さったのはあなたですね?」
 その問いに対しての答えはなく、沈黙が返る。だがその沈黙が何よりの答えだった。ふ、とティレーマの表情が揺るんだ。
「危ない所をありがとうございました。…姿は、見せていただけないのでしょうか?」
「そうですよ! ちゃんとお礼を言わせて下さい……っ!!」
 ティレーマの言葉に、フィルセルも強く主張する。
「前に助けてもらった時も、名前も言わずに消えて── ずっと、お礼を言いたかったんですよ!? また助けてもらうだけもらって、お礼も言えないなんて嫌です!!」
 再び沈黙が返り── やがてその勢いに負けたかのように、くすりと苦笑する声が聞こえた。
 そして──。
(……!)
 座り込んだティレーマとフィルセルから少し離れた場所に、ゆらりと人影が現れる。
 おぼろげな赤黒い影のようなそれは、すぐさま輪郭を確かにし、それが全身を覆う布の色である事を明らかにした。
 ── 何もない所から人が現れるその異常な光景に、初めて目の当たりにするティレーマは流石に僅かな動揺を隠せなかったが、姿を見るなり歓声を上げたフィルセルのお陰で、すぐに自分を取り戻した。
「…ザルーム様、お変わりないですね! 助けて下さってありがとうございました!!」
「大きな怪我がなくて何より…そちらも相変わらず元気そうだ」
 慌てて立ち上がって頭を下げるフィルセルに、ザルームはゆるりと首を振る。
 顔馴染みらしいが、施療師見習いの少女と全身を赤黒い布で覆った呪術師の組み合わせは少々違和感のあるものだった。
 フィルセルの様子から、取り合えず反乱軍に与するものだろうと予測しつつも、ティレーマはその影のような人物に圧倒されていた。
 ただ、そこに立っているだけなのに──。
 一見した所ではむしろその存在感は希薄で、今まで目にした呪術師とは正反対だったが、そこから微かな悪寒すら感じる程の気配を感じる。
 まるで、力そのものが人の形をしているような── そこにある事自体、不自然な気さえする。
(こんな呪術師がいるなんて──)
 他をろくに知らないが、感覚的に目の前の呪術師が只ならぬ力を有する者であると感じ取る。無意識にその目は、フィルセルとザルームを交互に見比べていた。
 その視線に気付いたのか、ザルームがティレーマの方へと数歩進み出ると、その場に跪(ひざまず)く。
 そして皇家に対する礼を取り、未だ座り込んだままのティレーマへ静かに名乗った。
「…お初にお目にかかります、ティレーマ殿下。私はザルーム…ミルファ様に仕える呪術師でございます」

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