天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(7)

 ティレーマとフィルセルが難を逃れていた頃、休息に向かうジニーと別れたルウェンはミルファの元へ向かっていた。
 先程、剣の手ほどきで顔を合わせていたばかりだが、どうにも気になって仕方がなくなったからだ。
 ── 呪術師ザルームの安否が。
 もし、彼の身に何かあったなら、ミルファがあんな風に平然としていられるとは思えない。だからおそらく、命に別状はなかったのだろう。
 だが…表立って姿を見せない彼が、きちんとした手当てを受けたとも思えない。
 自分達と違い、腕を負傷しても術に影響は出ないのかもしれないが、それが元で腕のみならず身体に影響が出ていたとしたら──。
(…チッ、我ながらお人好しだよな、俺も……!)
 内心舌打ちしながら、ルウェンはその足を止めはしなかった。
 自分でも思うのだ。敵か味方かも定かでなく── 正体からして謎のあの呪術師に対し、ここまで心を砕く必要などないと。
 肝心な事は一つも話さず、あまつさえ皇女ミルファの支えになってくれなどと言い出して。
 ── 別のその事自体は嫌ではないし、むしろそうなれれば、とは思う。
 かつて仕えたソーロンに対してのものとはまた違うが、この半年にも満たない時間で皇女ミルファに対する忠誠心は育っていた。
 だが自分に出来る事は、剣になり、盾となってその身を危険から守る事だ。
 政などよくわからないし(興味もない)、ミルファがこれから抱えるであろう問題の多くに対して出来る事は少ないだろう。
 それはおそらく、ミルファの姉であるティレーマでも同じだ。
 今までの生き方が違いすぎて、真に彼女がミルファを理解するには相応の時間が必要となるだろう。…心の拠り所にはなれると思うが。
 だが安らぎを得たとしても、その苦しみを共に背負う事は出来ない。その行く手を時に導き、時に支える事が出来るのは、自分やティレーマではないのだ。
 ザルームのような者こそ、必要だと第三者でもわかるのに──。
(まるで…あの言い方じゃ、その内いなくなるみてえじゃねえかよ)
 ここまで来て、放り出すのか。
 それとも── そうしなければならない、理由があるのか。

『私は…『影』です。光と共に在る事は許されません。ミルファ様に必要なのは、同じ場所で支えてくれる手です。こんな── 汚れた血に塗れた醜い手では駄目なのですよ』

 あの時に聞いた言葉を思い出す。
(…汚れた血、だって?)
 一体、それはどういう意味なのだろう。
 この自分の手も、今までに多くの血で汚れてきた。多くの命を奪い去った。罪深さで言うならば、自分も相当なものだと思う。
 そんな自分では良くて、彼では駄目だという理由がよくわからない。
 比喩でなければ、その言葉の通り、彼の血が何らかの理由で『汚れて』いる事になるが、病気でも持っているとでも言うのだろうか?
(いや…、まさかそんな意味じゃねえだろ)
 では── 一体?
(…わからん。ったく、何から何まで謎だらけの奴!!)
 苛立ちながらも、それを努めて表に出さずにルウェンは進む。途中で顔見知りに会った時に変に誤解されても困るからだ。
 やがて所々に瓦礫が散乱した道の向こうに、半分焼き焦げた看板を下げた宿が見えてくる。そこが皇女ミルファが仮の宿にしている場所だった。
 言いたい事も、聞きたい事も増えてゆく一方だが、取り合えず無事を確かめてからだ。ルウェンはよし、と気合を入れるとその宿の中に姿を消した。

+ + +

「…ルウェン?」
 扉を叩き声をかけると、中から不思議そうな声が返って来た。剣の手ほどきを終えてから大して時間が過ぎていない。何用かと思ったのだろう。
 やがて中から入室を許す声がするのを確認して、ルウェンは室内へと足を踏み入れた。
 本来ならば皇女の私室に足を踏み入れるなど許される事ではないだろうが、行軍中である為、身の回りの世話をする女官など当然いるはずもない。
 また、ミルファもティレーマも自分の身の回りの事は自分でやれる為、周囲に人をほとんど置かず、結果として間に人を介さずとも会えてしまうのだった。
 少々警戒心が薄すぎないか、と思わないでもないが、ザルームという強力な番人がいるなら問題なかろうと今までは片付けていた── が。
 …場合によっては、そちらでも問題が出て来る事に今更気付き、内心冷汗を流しながらルウェンは一礼した。
「突然申し訳ありません、ミルファ様」
「いえ…今は特に急ぎの用もありませんから構いませんが── 何用です?」
「ええと…その、ザルーム殿を呼び出して頂きたいのですが……」
「ザルーム…ですか?」
 予想外の言葉がルウェンの口から飛び出した為か、それとも別に理由があるのか。あるいはその両方によってか── ミルファの言葉には動揺と困惑が漂っていた。
「ルウェンはザルームとは顔見知りだと…認識していましたが?」
 言外に直接呼び出せばいいだろう、と言わんばかりの言葉はまったくもってその通りなのだが。
 ── 何故かその言い草が、妙に引っ掛かった。
 呼び出すとしても、ミルファならば特に労力はかからない。ただ、呼べばいいだけのはず。何より、それだけの事を惜しむ性格でもない。
 内心首を傾げながら、取り合えず自分では無理だという事を示そうと口を開く。
「…伝令の方でもここしばらく姿を見ないという話を聞きまして」
「え……?」
 まさか、と思った事を肯定するように、ミルファは軽く目を見開く。
 つまり── ザルームが周囲に対して姿を見せなくなった事を、知らなかったという事だ。
 もちろん、ザルームがミルファの前には姿を見せていた可能性はあるが。
「私も例の、地方神殿での一件があって以来、彼とは一度も会っていないのです。あの時負傷していたようですから…もしやそれで体調が優れないのかと」
「…負傷……? ザルームが、ですか?」
 返って来た反応は、そんな事は全く知らなかったと言葉でも態度でも表していて、少々ルウェンには意外に感じられた。
「もしかして、ご存知なかったのですか?」
 念の為に確認すると、若干青褪めた顔でミルファは唇を噛み締めた。
「…ええ。報告は、受けていません」
「そうですか……」
「その…傷は、…深かったのですか。動けなくなりそうな程に?」
「傷口自体を見てはおりませんので、何とも……。ただ、かなりの出血でしたから、それなりの深手ではないかと思います」
「…そう……」
 答えながらも、ルウェンはミルファの言葉に疑念を抱いた。
 負傷していた事に気付かなかったのは、ザルームが隠しきったという事だろうからいいとして。
 仮にも今まで側に控えていた人間の事である。その姿を見せなくなった事を知らなかったり、半月も前の傷の具合を心配するのはどうだろう。
 ここ最近で、彼がミルファの前に姿を見せていたのだとすれば、そんな心配はしないはずだ。── という事は。
(…皇女ミルファも、奴とかなりの期間、顔を合わせていないって事か?)
 まさかそんなはずは、とすぐに否定しかけるが、いや待てよと思い返す。
 光と共に在る事は許されない── あの時のザルームの言葉は、これからではなく、あの時すでに始まっていた事だったとしたら。
 思うと同時に、ルウェンはミルファへ尋ねていた。
「…いつからです?」
「え?」
「いつから、ザルームと顔を合わせていないんですか?」
「……!」
 よもやそんな事を尋ねられると思っていなかったのか。ミルファは目を見開き、絶句した。
 打てば返るような反応が常の、彼女らしからぬその様子で確信を深める。皇女ミルファもまた、彼の姿を見ていないのだ── それも、かなり長い間。
「…そんな事を聞いて、どうするのですか。ルウェン」
 やがて落ち着きを取り戻したミルファが、どこか挑発するように尋ねてくる。それが決定打だった。
「── 答えられない程、会っていない訳ですね。もしかしてあの日……地方神殿の一件以来ですか」
「……」
 反論は、ない。
 口惜しそうにも、苦しげににも見える表情で唇を引き結んだミルファは、やがて疲れたようにため息をつくと小さく頷いた。
「…ルウェンの言う通りです。あの青い月が現れた日から、ザルームとは顔を合わせていません」
「── 何か、意見の相違でも?」
「いいえ。そんなものではありません。私が…私がただ、臆病なだけです」
 臆病と言い放ち、口元に自嘲するような笑みを浮かべるミルファは、ひどく痛々しく見えた。
 時折見せていた、孤独感を漂わせたあの表情とも違う。
 まるで、暗闇の中に一人取り残された子供のような── 身動きする事すら恐れている、そんな印象をルウェンに与えた。
「…私はいつも、知る事を恐れてばかりいる……」
 やがてぽつりと紡がれた言葉に、ルウェンは何もいう事が出来なかった。
 励ますのも間違っている気がするし、そんな事はないと否定するのも違うような気がする。何と言ってやればいいのかわからない。
 そして多分、ミルファは誰の慰めも否定も…肯定も欲してはいないに違いない。それが出来るのは── 自分ではないのだ。
 ルウェンもまた心の内でため息をつき、やはり慣れない事はするもんじゃねえな、と苦く笑う。
「ともかく、まずは一度二人で話し合うべきでは?」
 一体、ミルファとザルームの間に何があったのかは知らないが、まずはそこからのように思えた。
 ザルームの皇帝側の人間ではないという言葉を信じるとして、今のこの時期に旗頭であるミルファと参謀的な役割を果たすザルームが仲違いしているようでは、その内何らかの影響が出るだろう。
 数日後には帝都に向けて進軍するのだ。二人の関係が今後の士気に関わるかもしれない以上、まずはこちらの主従関係が最優先だと結論する。
「取り合えず、私はここで席を外しますよ。ザルーム殿の傷の具合が気にかかっただけですから」
 実際は聞きたい事が山ほどある。だが、自分がいては言いたい事も言えないだろうとルウェンは判断した。
 ── 自分が抱える疑念と、ミルファが抱える不安が、同じ根で繋がっているなどと思いはせずに。
 言うだけ言って、さっさと立ち上がったルウェンを呆然と見つめていたミルファは、彼が扉に手をかけた所で我に返ると、慌てて声をかけた。
「ルウェン……!」
「はい?」
「その…── ありがとう」
 礼を言って貰うような事は何もしていない気がしたが、ミルファの表情に前向きさを垣間見て、ルウェンは微笑んだ。
「いいえ。…それじゃ失礼します」
 扉を閉じながら、ルウェンはこれで取り合えずは何とかなると楽観的に考えていた。もし傷の具合がよくなくても、ミルファから言われれば手当ても受けるだろう。
 五年もの長い間、側に仕え、それを許した二人である。よもやミルファが、ザルームに関して彼と大して変わらない程度の事しか知らないなど、思いもしていなかった。
 その程度の絆だとは信じたくなかったかもしれない。
 ── 共にはいられない、あの言葉をなかった事にしたかったのかもしれない。
 あれもミルファとの仲違いから出てきた、一時的な言葉で彼の本心ではないのだと。
 今も耳に残るザルームの言葉を振り払うように頭を振ると、ルウェンはその場を退出した。

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