天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(8)

 ルウェンが去り、一人残されたミルファは、ぐっと胸元を握り締めて深呼吸した。
 …半月もの長い間、顔を見なかったせいか、名を呼ぶ事だけでも少し緊張する。結局、半月前も肝心な事は何も確認出来ないままだった事を思い出す。
 危機を救ってくれた男の事も、あの青い月が本当の所、何だったのかも。
 ── そもそも、どうして自分を皇帝にしようとするのか、今日こそは確かめようと心に決める。いつかは、はっきりとさせなければならない問題だ。
 これから帝都へと進軍する今は、それを明らかにするのに相応しいかもしれない。
 そう思うのに…どうしてこんなに『怖い』と思うのだろう。 
 自分は、何をそんなに恐れているのだろう……?
 その恐れを振り切るように、ルウェンが齎(もたら)した腕の傷という口実に背中を押されるようにして、この半月もの間、口に出来なかった名前を紡ぐ。
「…ザルーム」
 今まで、いつも呼べばすぐに姿を現した。一体いつから、それが当たり前になったのだろう。
 本当はいつでも、彼は自分の元を離れる事が出来たのに……。そうしないと無意識に思い込んでいた。

「── お呼びでしょうか、ミルファ様」

 やがて目の前に、赤味を帯びたローブ姿が現れる。陰鬱な声もその姿も、半月前と変わった様子はない。
 ザルームはそのまま略式の礼を取って控えた。…今までのように。
 呼びかけて── もし、姿を見せなかったら。そんな事を考えていたミルファは、心の中で安堵のため息をついた。
 胸元を握り締めていた手を緩め、改めてその姿を見つめる。見た所では重傷を負っているような感じではない。
 ルウェンが言っていた傷は、どうやら大事ないようだ。
「…腕を負傷したと聞いた。大丈夫なのか?」
 自分でもぎこちなく思える程、何処か不自然な会話の切り出し方だった。だが、呼び出した理由の一つには違いない。
 その問いかけに、ザルームは軽く驚いたように沈黙し── やがて布の内からぼそりと呟きが零れ落ちた。
「ルウェン殿、ですか……」
 それが怪我の事の出自を示しているのは明白で、ミルファは頷いた。
「先程ルウェンがここに来て話していった。ルウェンも心配しているようだったぞ。…結構深い傷だったそうだが……どうしてあの時、報告してくれなかった?」
 言いながらもその言葉が、何処かザルーム詰るような感じになるのが自分でもわかった。
 まるで小さな子供みたいに、報告してくれなかった事に対して拗ねているようだと。
 だが、ルウェンから負傷していた事を聞いて、ショックを少なからず受けたのは事実だった。
 ── その容姿から素性まで不明な事だらけの彼の、隠し事が一つくらい増えた所で動揺などしなくても良さそうなものなのに。
 そうだ…ザルームは余りにも隠し事が多過ぎる。だから、自分はいつも不安で──。

 いつか、裏切られてしまうのではないかと。
 いつか、自分の元を去られてしまうのではないかと。

 …もちろん、今まで追及してこなかった自分にも大いに非がある事はわかっている。
 知る事を怖がって、尋ねる事が出来なかった。知る事で── 今の関係がなくなる気がしてならなかった。
 心から信じる事が出来ない苦しみと、信じたいと願う気持ちの間で、いつも自分はそのどちらにも足を踏み出せなくて立ち竦んでいる。
 自分から断ち切る事も、手を差し伸べる事も出来ない、不安定で不可解な自分達の関係は、果たして何なのだろう。
「ミルファ様に無用の心配をかけさせてはならないと思いましたので……。申し訳ありません」
 謝って欲しい訳ではないのに、ザルームは頭を下げてそこで話を終わりにしてしまう。
「ザルーム…私は別に報告しなかった事を責めているのではない」
「……?」
 ミルファの言葉に、不思議そうに布で隠れた頭が持ち上がる。
 その奥にあるであろう目を見つめて、ミルファはともすれば言葉を飲み込んでしまいそうな自分を叱咤した。
(── 逃げるな!)
 まだ聞きたい事があるのだ。こんな所で逃げては、どうしようもない。
 軽く唇を引き結ぶと、小さくコクリと咽喉を鳴らし、ミルファは思い切ってルウェンからザルームが負傷していた話を聞いた時に、心に浮かんだ思いを正直に口にした。
「お前は私に、心配も…させてくれないのか?」
 その一言がミルファの口の滑りを良くした。そのまま、今まで心の内に沈んでいた思いを形にする。
「私は── お前の主なのだろう? お前は、私の従属。なのに私は、お前の事を何一つ知らない。何一つ、教えてもらっていない」
 ザルームの忠誠心を疑っている訳ではない。彼に対しての不審感は── まだ、心の奥に棘のように刺さっているけれど。
 ただ、それが純粋なもののように感じれば感じる程、募ったのはそれだけの価値が本当に自分にあるのか、という事だった。
 もちろん、主従関係を結んだ後から、自分なりに努力はしてきた。けれど、彼が自分の前に現れた時は、ただの世間知らずの子供でしかなかったのだ。
「…私は、お前と会った時、本当に無力だった。世間の事など興味もなかったし、民の生活など想像した事もなかった。兄上のように高い志なども持ってなかった。なのにどうして、お前は私を選んだんだ?」
「……」
「お前は、私に皇帝の御座につけと言った。単に…一番生き残る確率が高いだけで、私に助力する事を決めたのか?」
 ── 皇帝になる可能性があれば、誰でも良かったのか……?
 心に浮かんだ最後の言葉だけはそのまま飲み込む。それだけは、言ってはならない気がして──。
 その代わりのように口をついて出たのは、別の言葉だった。
「私は── お前がわからない」
 口にしたと同時に、後悔する。だが、一度出てしまった言葉をなかった事には出来ない。
 そのまま続く言葉を考えあぐねて沈黙すると、それまで黙っていたザルームが静かに口を開いた。
「…ミルファ様。私は確かにあなた様の従属でございます」
 暗い声音はいつも通りなのに、その言葉は何処か今までとは違うような気がして、ミルファはまじまじとザルームの顔の辺りを見つめた。
 近くに人気がないせいか、やけに静かに感じられる。結果として続いた言葉は、明確にミルファの耳へと届いた。
「ですが、私に対して心を砕く必要などございません」
「…!?」
 ── それは、ミルファが聞きたかった言葉でも、予想していた言葉でもなかった。
「ザルーム……?」
「あの日、申し上げたはずです。この身が滅ぶまでお側に仕える事をお許し下さるのなら、何人にも御身を傷つけさせない事をお約束いたしましょう、と」
 それは確かに、あの嵐の夜に主従の誓いを交わした時に彼が告げた言葉だったけれど。あの時と今では、まるで別の言葉に聞こえるのは何故だろう。
「…我が身は、その為だけにあるのです。道具であれば良いのです。…『人』と思い召されるな。たとえこの身が滅んでも、あなた様が嘆く必要など何処にもないのですから」
「ザルーム!?」
 何を言っているのだろう。彼は、何を。
 道具? 人と思うな?
 ── そんな事が出来るのなら、こんな思いをするはずがないのに……!!
「…お前は、本気でそんな事を言っているのか」
 五年、だ。その月日は短いようでやはり長い。
 その間誰より近くにあり、助けとなった人を、特別視しないでいられるはずがあるだろうか。
 特別だと思うから、真実を語ってくれない事に不安を抱き、その言動に心を揺らすのだ。
 感情が逆転する。
 不安は怒りに、動揺は苛立ちに── 今までずっと、反乱軍を束ねる者として感情的になる事を避けていたミルファの感情が燃え上がった。
「それでお前は満足なのか!? それで……!?」
 食って掛かろうとするミルファに、ザルームは動揺すら見せなかった。
 ミルファの反応を見透かしていたかのように、落ち着き払った口調のまま、言葉を重ねる。
「良いのですよ、それで。…私はあなた様の助けになれればいい。ミルファ様が無事に皇帝となられれば、それで良いのです」
「…っ」
 気勢を殺ぐ言葉は、ミルファの心に突き刺さる。それは先程自分で飲み込んだ言葉を、肯定するかのような言葉。
 ── 誰でも良かったのだ。
 たまたま…自分が選ばれただけで。あの時、あの場にいたのが兄や姉であっても、彼はその力を貸したのだろう。
 不安や不審感を感じていた事すら、一方通行の感情が空回りしていただけなのだ──。
 怖いと、そう感じていたのは。…その事に無意識に気付いていたからなのだろうか?
「── ミルファ様…」
「…わかった、もう、いい」
 痛い。
 抜けた棘の後から、血が流れている。…今までずっと棘で塞き止められていたかのように。
「── もう…いい……」
 もう視線を合わせる事も出来ない。
 ぎゅっと痛みを堪えるように、胸元を握り締めて、唸るように告げたミルファに、ザルームは深く一礼をした。
 そして姿を消しながら、ザルームは感情の欠片もない、冷たい言葉を残す。
「…ミルファ様はもう、あの時のように一人きりではありません。多くの人々が支えになりたいと望み、手を差し伸べているのです。これから先、本当に助けとなるのは彼等です。── 間違ってはなりません」
 そして、一人きり。
 部屋に佇んだままのミルファは、糸が切れたようにその場に膝をついた。ぎゅっと、自分を抱きしめる。
 ザルームの言葉は耳には届いたが、心の中にまでは届かない。ただ、そうする事で今まで感じた事のない深い孤独感と胸の痛みに耐える事しか出来なかった。

+ + +

 かつて廃墟となった街は、人の活気を取り戻して。
 夕暮れ時、各家のかまどから出た夕餉の支度をする煙が、空へと細く伸び始める。
「あ、やっと着きましたよ。ティレーマ様」
「本当。一時はどうなるかと思いましたが…大きな怪我もなく、何とか明るい内に辿り着けたましたね」
 西へと太陽が傾き、その光が僅かにオレンジ色を帯びる中、ティレーマとフィルセルはパリルの街の目前にまで辿り着いていた。
 パリルの方から吹いてきた風に乗って運ばれてきた、微かに漂う煮物らしき匂いが、二人をほっとさせる。
 それは生活のにおい── 人がそこに、いる証。
 何しろ、ガーディに襲われたらまず無傷では済まないと言われているのだ。そんな危険に遭遇しながら、フィルセルが転んだ際に膝を軽く擦り剥いた程度で済んだのは、実際奇跡的な事だと言えた。
「ザルームさんのお陰ですね。後でもう一度、改めてお礼を言わせて頂かないと……」
 二人をあわやという所で救った呪術師── ザルームの姿を思い浮かべながら、ティレーマが呟くと、フィルセルも同意の声を上げる。
「あたしも言いたいです。今回もすぐにいなくなってしまって、十分にお礼が言えませんでしたし。── ミルファ様のお呼びなら、仕方ないですけど」
 再び歩き出したパリルまでの道のりで、フィルセルとザルームの関わりを聞いたティレーマはくす、と小さく笑いを漏らした。思い出し笑いだ。
「…あの方をよりにもよって『渡し守』と勘違いしたなんて……ふふふ……っ」
「あ、もう…忘れて下さいよ。だってあの時、本当に死ぬと思ったんですから!!」
 ぷう、と頬を膨らませて抗議するフィルセルに、ティレーマは何とか笑いを治める。
 『渡し守』とは生者と死者の世界を分かつ『川』で、死んだ人間の魂をあちら側へ運ぶとされるものだ。
 伝わっている姿形は恐ろしい化け物であったり、美しい女性であったりと、地方によって異なるが、共通しているものが黒い布を被っているという事だった。
 言われてみればザルームの姿格好に近いが、西領に端における渡し守の姿は性別のない子供の姿とされている為、ティレーマ自身はそこまでは連想しなかった。言われてそういえば、と思った程度だ。
 だが、フィルセルは彼の姿を見た瞬間、彼を渡し守だと思い込み、『あんたにまだ用はないわ、渡し守!!』といい放ったのだという。
 …ちなみに、南領の都ライエ周辺では目の見えない老人、という事になっているらしい。
「しかもいきなり何もない所から現れるんですもの。驚かない方が変でしょう?」
「…ええ、確かにそうだと思いますけど……」
 気持ちはわかるが、助けようとした矢先に渡し守扱いされたザルームは、さぞ面食らったに違いない。
 先程簡単に挨拶を交わした程度の相手だが、只ならぬ気配を感じた人物だけに、その様子を想像するとどうしても笑いが込み上げて来るのだ。
 必死に自己弁護するフィルセルがまた、それに更なる拍車をかける。
(…ミルファに仕えているという話も本当のようだし、フィルセルやジニーとも顔馴染み……あまり話せなかったけれど、きっと優しい方なのね)
 そう思いつつも、ミルファと共に行動するようになったこの半月に、彼の事を聞いていなかった事は少し引っ掛かる。
 ジニー経由でのフィルセルの話を聞くには、参謀的な役割を果たしている存在らしいが、今まで幾度もミルファと話をしたのに、その名前すら聞いていないのだ。
 それ程までに隠さねばならない存在なのか── それとも。
(まだ…普通の姉妹のようには、なれないって事かしら)
 心の中で苦笑する。
 十五年振りに顔を合わせてから、この半月で多少は打ち解けてくれ始めている気がするものの、まだまだ完全には心を許してくれていない。
 十五年も会わずに、しかもそれ以前もろくに交流のなかった自分達が、いきなり分かり合う事など不可能だと思うけれど。
 今まで生きてきた環境も、生き方も、まったく違う。価値観も、きっと今まで見てきたものだって──。
 どうしても埋める事の出来ない距離があるのだ。
 だから話してくれない事があっても、仕方がないと思う。それでも……。
(やっぱり、少し……淋しい、わね)
 関係ないと言われれば、そうかもしれない。
 自分は形だけとはいえ神官ではなくなったけれど、でもこの手は誰かを傷つける事を躊躇うだろう。自分が傷付く場面になっても、ろくに抵抗すら出来ないかもしれない。
 戦いの場では、本当に何も役に立たないのだ。
 それでもここにいるのは、ミルファが願ったから。側にいて、見届けて欲しいと望んだから──。
(…いえ、それだけじゃない)
 自分も、そうしたいと思ったからだ。
(…そうよ……こちらから、聞けばいいんだわ)
 手を伸ばさなければ。足を踏み出さなければ。向き合うだけでは、距離は決して縮まらないのだから──。
 やがてパリルの街の入り口が見えてくる。
 どちらにしても、戻ったらミルファに帰還を報告しようと思っていたのだ。それと、自分が今日決めた重大決心についても。
 あの木立で襲われた事はあまり話したくないが、今後も人が通る可能性のある道だ。話さなければならないだろう。…それ以外に、話をしたって構わないはずだ。
 急には無理でも、今ではたった二人の姉妹なのだ。家族なのだ。少し、普通の家族とは形が違っても、その事実は変わらない。
(話を、しよう…ミルファと)
 煙たがられるかもしれないし、詮索するなと牽制されるかもしれない。
 でも、自分が今神殿を出てこの場所にいるのは、ただ黙って見ているだけの為ではなかったはず。
 助けたいと── そう願ったからのはずだ。
 戦いでは役に立たないのなら、それ以外の事で役に立てばいい。血の繋がった家族だからこそ、出来る事がきっとある。
 だから…まずは話し合う所から始めよう。まずは、そこから──。

BACK / NEXT / TOP