天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(9)

 やけに静まり返った宿屋の廊下を、ティレーマは幾分緊張した面持ちで歩いていた。
 普段でも静かなのだが、今日に限っては、いつも以上に自分の立てる靴音が気になる程だ。
 ただ妹に会って話すだけなのに、何故こんなに緊張するのだろうと内心首を傾げつつ、無意識に肩に力が入るのを止められない。
 まずは、無事に戻って来た事の報告と。これから先、同行するつもりで神殿に暇を告げてきた事を── それから、形ばかりだが神官でなくなった事も話さなければ。
 後は道中でガーディに襲われた事と、ザルームに助けられた事と……思い返すと、報告する事がいくつもある事に気付く。
(…あまり長居をしては、迷惑かしら?)
 ふと心配になるが、ここで遠慮してはいつまで経ってもこのぎこちない関係は変わらないと自分に言い聞かせる。
 長い時間を経て、時と人の手で磨きをかけられた結果、飴色を帯びた階段を昇り、三階へと辿り着く。
 三階の一番左奥の部屋をティレーマが、階段を上がってすぐの部屋をミルファが使っている。一度部屋に戻るべきか考えたが、間もなく夕食の時間だ。
 ティレーマはそのままミルファを訪ねる事にした。
 ほんの少しだけ躊躇(ためら)ってから、やはり年代を感じさせる扉を軽く叩く。
 この時間帯ならば自室にいるだろうと思っていたのに、返ってきたのは予想しない静寂で、ティレーマは困惑した。
(いないのかしら)
 それならそれで特に問題はないが── 意気込んでいただけに、少し勢いを殺がれたのも事実だ。
 ふう、と軽くため息をついて緊張を払うと、ティレーマは念のためと、もう一度扉を叩き、声をかけた。
「…ミルファ? いますか?」
 しばらく待ってみる。やはり戻って来たのは静寂で、一度部屋に戻ろうとしかけた時── 中で小さく物音がしたような気がした。
「ミルファ……?」
 もしかして寝ていた所を起こしてしまっただろうか、とふと思いつき、ティレーマはすぐにその考えを否定する。
 いくら多忙を極めるミルファでも、人々が動いているというのに、体調が悪くもないのに寝たりはしないだろう。
「ミルファ、あの……」
 それでもいつもならすぐに返ってくる声がない事に気が引けて、出直す事を告げようとした時、中から声が聞こえてきた。
「…姉上……?」
 それは、確かにティレーマの腹違いの妹── ミルファのものだったけれど。
 聞こえてきた声は、一瞬別人のものではないかと思えるような、憔悴(しょうすい)しきった声だった。
「ミルファ?」
 驚いて思わず扉に手をかける。鍵はかかっていなかった。
 何か── もしや急に体調でも悪くなったのではないか、その一心で扉を開くと、ミルファは部屋の中央に座り込んでいた。
「ミルファ!」
 慌てて駆け寄り、その肩に手をかけると、ミルファは床に向けていた目をゆらりとティレーマに向けた。
(……!)
 その生気の抜けた目に、ティレーマは思わず絶句していた。自分がいない間に、一体ミルファの身に何があったというのか── 。
「…ミルファ……?」
「……」
「こんな所に座り込んで…一体……」
「姉上……」
 何があったと問い質そうとするティレーマへ、ミルファはうわ言のように呼びかけ、その手を伸ばしてきた。
 そのままぎゅっと、縋るように腕を掴んでくる。
 強い力がこもっていた訳ではないものの、こんなミルファの姿を見るのは初めてで、ティレーマは動揺を隠せなかった。
 確かに今までも笑顔などほとんど見せなかったし、それ以外の感情を曝け出した姿に至っては一度も見た事がない。
 感情をどこかに置き去りにしてきたような── そんな印象が強かった。
 もう少し、自分を出しても良いのにと密かに考えてはいたけれど、いきなりこんな弱った姿を目の当たりにするなんて。
「…何が、あったの?」
 そのまま肩に乗せていた手で抱き寄せるようにしながら、そっと問いかける。
 今までの神官として過ごした日々でも、ミルファのような人々は数多く見てきたが、彼等に対するのと同じようには接する事が出来なかった。
 単純に同情し、慰めを言う事など、出来なかった。
「わたくしに、話せるなら話して。どうしてあなたはそんなにも傷付いているの?」
 傷付く、という言葉でびくりと小さく肩が揺れた。そして俯(うつむ)き、表情の見えない口から虚ろな声が紡がれる。
「傷? いいえ…傷ついてなどいません……。傷付くだけのものすら、なかったんですから……」
「……ミルファ?」
 明らかに様子がおかしい。
 思わず身を離して顔を覗き込む。泣いているのかと思ったが、予想に反してミルファの目に涙はなかった。
 ── こんな状態でも涙が出ないのだ、ミルファは。全ての感情を閉じ込めて、一人で耐え切ろうとしている。
 その事実にティレーマはこれではいけない、と思った。
 人の心は、決して強靭なものではない。幾度も幾度も傷付いて、少しずつ強くなって行くものではないだろうか。
 一度打ちのめされた時、再び立ち上がるには相応の時間が必要なはず。
 傷も塞がっていないばかりか、その傷すら自覚していないなんて── これでは…いつか壊れてしまう!
「ミルファ、こちらを見なさい」
 あえて強い口調で注意を惹(ひ)くと、ミルファはやはり何処か視点の定まらない目を向けて来る。
「……?」
 完全に自分の中に閉じこもってはいない事に安堵しながら、そのまま不思議そうな顔をするミルファの肩を強く掴む。
 そしてその淀んだ目を見つめたまま、厳しい口調できっぱりと言い放った。
「しっかりなさい。あなたはまだ、こんな所で立ち止まる訳には行かないはずよ?」
 そう、むしろこれからのはず。こんな所で全てを放り出すなど許されはしない。こんな所で、壊れてしまうなんて──。
「姉上……?」
「泣きたいのなら、泣きなさい。苦しいのなら、苦しいと言ってもいいのよ。あなたは皇女である前に、一人の人間だわ」
 どう言ったら伝わるのか。
 言葉にすると陳腐(ちんぷ)になる。その事がとてももどかしい。
「傷付いたのなら、それを癒そうとするのが当たり前の事なのよ。…誰も、責めたりはしないわ」
「…でも……私は──」
 今まで面と向かって言われた事のない言葉に、ミルファの瞳に困惑が浮かぶ。
 傷付いてなどいない。傷付く事自体、おかしな話だ。
 全てはこちらの一人相撲。一人で思い悩んで、必死になって── ただそれだけ。
 ザルームは自分を裏切った訳ではない。従者として、これ以上とない働きをしてみせただけだ。
 ただそれが── 誰の為であっても構わなかったというだけで。
 それを責める権利は、誰にもない。この自分にも。
「傷付いてなんて、いません、姉上。どうしてそんな事を……」
「自分に嘘をついては駄目よ。…苦しみを増やすだけだわ。ミルファ、あなたは傷付いている。これ以上とない程に。── 自覚なさい」
「嘘なんてついていません……! 私は……っ」
(── 私は……?)
 言い返そうと口を開いたものの、途中でミルファは言葉を失った。
 言葉が、形にならない。声に、ならない。何か言い返さなければと思うのに──。
 けれど、心の奥底でティレーマの言葉に同意する自分がいる事もミルファは気付いていた。
 認めたくはない、そんなはずはないと思う一方で、自分の心が血を流している事を感じている。
 奥底に封じ込められた感情を吐き出してしまいたい、と訴えている。
 無意識にぎゅっと握り締め、爪が食い込んだ手を、そっとティレーマの手が包み込んだ。
「…わたくしでは、駄目ですか?」
 そして静かに問いかけられる。ミルファは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え……」
 呆然と目の前にいる姉を見つめた。
 今までそこにいるとわかっていながら、初めて目にしたような気持ちになる。
 ようやく自分をちゃんと見たミルファに微笑みかけて、ティレーマはもう一度繰り返した。自分の気持ちが伝わる事を祈りながら。
「わたくしでは、あなたの力にはなれないのですか? ミルファ」
「姉上……?」
「確かにわたくしは、戦いでは何の役に立ちません。むしろ足手纏いになる可能性が高いでしょう。それでも…あなたの愚痴を聞く位は出来るのよ」
 言いながら、ミルファの握り締めた手を開かせた。
 余程強い力で握り締めたのか、掌が爪で微かに切れて血が滲んでいた。そこに指先で触れ、『力』を送り込む。
 ミルファが暖かい、と熱を感じた時には傷は綺麗に癒えていた。
「それと…、こんな風に傷を癒す事くらいはね」
 くすりと悪戯っぽく笑って言われた言葉に、ミルファはぎょっと目を見開いた。一瞬の事で何が起こったのか理解していなかったが、今のは……。
「あ、姉上…今のはまさか…、《癒しの……!?」
 それは記憶に間違いがなければ、《聖女》のみが使えるという禁忌の力──。
「ええ、そうよ」
 そんなにあっさりと認めて良いはずの事ではないのに、まるで昨日の天気を答えるかのようなティレーマに、ミルファはそれ以上の言葉を失くした。
 しばし、沈黙。
 やがてミルファの口から零れ落ちたのは、微妙に疲れの滲んだ言葉だった。
「…姉上……そんな気軽に、そんな大層な事をしないで下さい……」
「あら、どうして? わたくしはただ、自分が出来る事をしただけの事よ」
 言いながらティレーマはその手を持ち上げた。
 傷一つなく白い── けれどもそれはミルファのものとはまた違う、『使われてきた』手だった。
「ねえ、ミルファ。わたくしはずっと…自分を持て余していたわ」
 聖女と呼ばれ、敬意を払われ── けれどその実、何も出来なかった日々を思い返す。
 皇女という身分さえなければと考えた事も、幾度もあった。もしくは聖晶を持って生まれなければ、とも。
 どちらでもあり、どちらでもない…その狭間で自分の生まれてきた意味は何なのかと、考え続けて来た。
「そのどちらかにならなければ、駄目だと思い込んでいたの。ずっと…今まで。だから人一倍、神官としての勤めに励んだし、神官としてすべきだと思った事は何でもしてきた。わたくしは神官として生きたいとずっと願い続けていたわ」
「……」
 皇女として育っていたらなら、きっとパンを焼いたり庭木の手入れをしたり、傷付いた人や生き物を手当てしたり── そんな事は一生する事がなかっただろう。
 ティレーマの手は、語らずともその日々を物語る。
 それはミルファにもよくわかる感情だった。
 皇女だからとただ守られる事だけは嫌で── 何でも自分でしてきた。身の回りの事も、剣の稽古も。
「でも、ミルファ。今はね、皇女である自分も受け入れようという気持ちになれたの。どうしてだか、わかる……?」
「いいえ……」
 柔らかな笑顔で問いかけられた質問に、ミルファが首を横に振ると、ティレーマは思いがけない事を口にした。
「…皇女だからこそ、いえ、皇女でなければ出来ない事を見つけたからよ」
「皇女…だからこそ……?」
「ええ」
 頷き、ティレーマは再びミルファの手を取った。
「ミルファ── あなたの『姉』は、『神官』では出来ないわ」
「…姉上……」
「血の繋がりだけなら、わたくし達は姉妹だわ。けれど、今までずっと会わずにいたし、育ってきた環境が違い過ぎて、わたくしはあなたに会うまで理解出来ない存在だと思っていた。正直に言えば『家族』というものがわからなかった。でも、あなたに会った時に思ったのよ。── 放っておけないって。手助けしたいと…自然にそう思えたのよ」
 初めてミルファを目にした時、ミルファがあまりにも幼い頃に会った南領妃に似ている事に驚いた。
 後で思えば、親子なのだから似ていてもまったく不思議ではないのだが、そこに今は亡き憧れの女性の姿を見て、一瞬動揺してしまった事は事実だ。
 けれど目を合わせた時に、すぐにその認識は改まった。
 傷付いた瞳をしていた。
 傷付きながらも、必死に立って進もうとする意志が痛々しく見えた。
 父を討つのかと尋ねた時に、一瞬見せた翳りに苦悩を感じた。
 ── 多くの血が流れても、笑顔を忘れる程に傷付きながらも、憎めないのだと告白した言葉に、ティレーマの胸も痛みを覚えた。
 独りなのだ、と。
 言葉にも態度にも出さずに、ミルファは訴えていた。
「ラーマナの教義は、均衡と調和── 平等。それを実行する事は、人にとってはとても難しい事だわ。けれど、神官である以上はそうであるよう努力しなければならない。誰か一人だけを特別扱いなどしてはならないわ」
 それはミルファも知っている事だった。
 誰の特別にもならない代わりに、誰かを特別に思う事はない。── それは皇帝の在り方によく似ていて、不思議に思ったものだけれど。
 同時に思ったものだ。
 それは── もしかしたら、とても淋しい生き方ではないのかと。
「…わたくしは、神官である事を辞めました」
「── え?」
 しかし、突然前触れもなく口にされた言葉に、ミルファは目を丸くした。
 今…何だかとても、信じがたい事を言われたような。
「あ、の…姉上……? 今、なんて……」
「ですから、神官である事を辞めてきました。…形だけですけどね」
「──!?」
 それは、心に受けた傷すらも忘れ去ってしまえる程に衝撃的な告白だった。
 冗談だろうかと考えるが、ティレーマがこの状況で冗談を言うような人とは思えない。
 まさかと思いながらもいつも聖晶が下がっている胸元に目を向け、それが消えている事を確認し── ミルファはがくりと肩を落とした。
「な、なんでそんな事を……!」
 そんな事をさせたかった訳ではない。
 側で見届けて欲しいと願ったのは事実だけれど── 今までのティレーマの生き方を否定させるような事はするつもりはなかったのに。
 同時に無意識に自分がティレーマに重ねていたものに気付いて愕然となる。
(── 私は姉上に、ケアンの面影を見ていた……?)
 遠い日、家族以外で特別だった人。
 生きているのか、死んでいるのかすらわからない彼と同じ神官である姉に、その姿を見ていたのだ。
 そんなミルファの内心など気付いた様子もなく、ティレーマは軽く肩を竦めた。
「わたくしも辞めるつもりはなかったのよ? でも、主位神官様が許して下さったのです。…自由に、と」
「自由……?」
「ええ。だから今のわたくしは、えこひいきも出来てしまうの。『家族』第一に生きても許されるのよ」
 あっけらかんと言われた言葉は、少々乱暴な理屈のような気がしたけれど。
 それよりも気になるのは、聖晶がない事だった。
「でも……! それでは命の危険が…お父様は、姉上の命も狙っているのですよ!?」
 思わず責めるような口調になってしまい、口にしてから少し後悔する。
 ティレーマとて、その事を考えなかったはずがない。そこまで考えなしの人ではない事は、この半月でわかっている。
 だが、その言葉にティレーマは何故か小さく笑いを漏らしたのだった。
「…姉上……?」
 今のは笑う所ではないはずだ。怪訝さを隠さずに眉間に皺を寄せるミルファに、ティレーマはふふふ、と笑って口を開いた。
「ごめんなさい、あまりに予想通りだったものだから……ふふっ」
「予想……?」
 一体何の事だかわからない。だが、気がつくと先程までの呼吸すらも辛かった胸の苦しさが消えていた。
 痛みは痛みとしてまだそこにある。けれど、客観的にそれが傷である事を理解出来るくらいには心が落ち着きを取り戻していた。
 そこに笑いを収めたティレーマの優しい声が届く。
「ミルファ。わたくしは、あなたの味方になりたいと思っているのよ。今更、おこがましいかもしれないけれど、理解者になりたいと願っているの」
「…味方……?」

 ── ミルファ様はもう、あの時のように一人きりではありません……

 耳に甦ったのは、つい先程聞いたザルームの言葉だった。
 耳にした時は素通りするだけだったその言葉が、ようやく意味のある言葉として受け止められる。
「あなたを支えたい、助けたいと願っている人は、きっと他にもいるわ。あなたの騎士となったルウェンさんもそうでしょうし、反乱軍に属する兵士の方々や── その助けをする人達も」
 そしてティレーマは、完全には自分の言葉を受け止め切れていないミルファを抱き締めた。
 どうか── 伝わりますように。祈りを込めて、言葉を重ねる。
「…忘れないで。多くの人達が、あなたを必要としている事を」

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