天 秤 の 

第五章 皇帝カルガンド(6)

「もしかして、リンデルさんの奥さん!?」
 声を上げた酒場の従業員に、周囲の人間の目が一斉に集まる。
「知り合いなのか?」
「え、ええ。うちの店とも取引のある酒屋のご主人なんです。奥さんには一度も会った事がないからわかりませんでした。リンデルさんならさっきまで店にいたんですけど…そういや忘れ物をしたから一度戻るって……」
「行き違いか!」
 妻は妻でおそらく夫が困るだろうと、ここまで届けに来たのだろう。実に麗(うるわ)しい夫婦愛だが、状況はあまりよろしくない。
「誰か行って呼んで来てやれ!!」
「は、はい!!」
 従業員の一人が慌てて駆け出し、女性の身元がわかった事でその場はいくらか安堵した空気に包まれた。
「リヴァーナ、その人の具合は?」
「…軽い貧血のようです。安静にしていれば大事には至らないでしょう」
 リヴァーナの所見に、ほっと胸を撫で下ろす。
 ルウェン自身が腕が良いと思っている(出産や婦人病関係まで得意分野なのかは不明だが)専門家の言葉だ、これほどの保障はない。
 安心した所で、ルウェンはいつもなら騒がしいフィルセルがおとなしい事に気付いた。
 女性を診るリヴァーナの助手よろしく横に控えて、ずっとその様子を見守っていたようだが、その間一言も口を開いていない。
 流石にこのような状況で騒ぎはしないだろうが、かと言って黙り込んでいるのも違和感がある。
「どうした、フィル?」
 声をかけると、フィルセルははっと我に返ったように瞬きした。
「え? えと…何でもないです」
「……?」
 何だか様子がおかしい。
 変だと思いつつも、ルウェンは追求する事は出来なかった。従業員に連れられて件(くだん)の女性の夫が到着したからだ。
「イルニ!!」
 おそらく女性のものと思われる名前を呼んで駆け寄って来るのは、予想していたよりも幾分若い男だった。
 ルウェンと同じか、せいぜい一つか二つ年上といった所だろうか。
 子供が一人くらいいても確かに不思議ではないが、酒屋の主人と聞いていたのでもっと年齢を重ねた人物と思っていた。
「大丈夫か!? こ、子供は…!!?」
 見るからにうろたえている様子が初々しい。
 和む場面ではないはずなのだが、何となく微笑ましく感じて、ルウェンは気安く話しかけた。
「安心しろ、軽い貧血という話だ」
「そうですか!」
 男はほっとしたように肩から力を抜いた。
「ああ、あなたが妻を助けてくれたんですか? ありがとうございます! いくら感謝しても足りません! ああ、本当に良かっ……」
 ルウェンの報告に心の底から安堵した様子の笑顔が、何故かそのまま不自然に固まった。
 その目が驚いたように見開かれ、じっとルウェンの顔を凝視(ぎょうし)する。一体何事かと思ったその、矢先。
「お、お前…ッ、まさか、ルウェン……!?」
「…へ?」
「ルウェンだろ! そのツラ、忘れるものか! 生きてやがったのかよこの野郎ーッ!!」
 先程の笑顔は何処へやら、鬼気迫る形相で掴み掛かられ、ルウェンは心底慌てた。
「ちょ、ちょっと待て!? あんた一体……!!?」
 予想外の展開に、周囲も呆気に取られる。
 やろうと思えばそのまま振り払う事も出来たが、男の様子とこちらが名乗る前に自分の名前を知っているという事実から人違いという訳でもなさそうである。
 結果的にルウェンはおとなしく掴み掛かられるままになった。
「え、えっと…その、何処かでお会いしましたっけ……?」
 何となく火に油を注ぎそうだなと思いつつ尋ねる。
 初めてキーユに来たのは確かだ。
 という事はそれ以前に会った事があるという事で── 問題は何処で会ったか、だ。そこまで物覚えは悪くないはずなのだが、何故か思い出せない。
「……テメエ、忘れたのかよ」
 予想通りこめかみに青筋を立て、至近距離からぎろりと睨んで来る。ドスの聞いた声といい、先程のうろたえた様子とはまるで別人だ。
「オレとの勝負の最中に逃げやがっただろうが……!!」
「…あ……」
 その言葉と鋭い視線が記憶を刺激した。
「お前、あ、あの時の…!?」
「思い出したかよ」
「あ、ああ……」
 思い出した。確かに、知った人間だ。思わず心の中でルウェンは呻(うめ)いた。
(…うあ、最悪……)
 そして、一番思い出したくない記憶までも甦った。つい先程、再封印したばかりと言うのに。
 ルウェンの思い違いでなければ、おそらく間違いはない。
 フェード=ツェスク=バルザーク、あの男に不本意ながら拉致(らち)られた時の喧嘩相手だ。
 確か名前は──。
「セ、セイハッド……?」
 ようやく思い出した事で気が済んだのか、男── セイハッドは掴んでいた手を離した。
「クソ、よりにもよってお前に礼を言っちまうとはな……!」
 吐き捨てんばかりの言葉に、ルウェンは呆れた。
 正直、そこまで嫌われるほど接点はなかったと思うのだが。何よりも第一、今はそんな昔の話を蒸し返している状況だろうか。
「そんな事言ってる場合か? …ほら、早く嫁さんの所へ行ってやれよ」
「はっ! そうだった、イルニ!!」
 急かされてようやく現実を思い出したらしい。セイハッドが再び血相を変えて妻の元へと走る姿に、ルウェンはため息をついた。
(すげえ二重人格……)
 せいぜい顔と名前を知っている程度の付き合いだったが、まさかこんな男だとは知らなかった。果たしてイルニという女性は知っているのだろうか。
 知らないのだとしたら── 多分、一生知らないままの方が幸せだろう。
 ルウェンが何となく覚えているセイハッドという男は、少なくとも身重の妻の身を案じて駆け参じるような人間ではなかった。
 それが何らかの理由で変わったのだとしたら、おそらくそれは妻となったイルニと無関係ではないに違いないのだから。
「ルウェンさん…知り合い、だったんですか?」
 何も知らないフィルセルが不思議そうな顔で尋ねてくる。しばし言葉に悩みつつ、結局ルウェンは頷いた。
「知り合い…まあ、そうなるの、か……?」
 ── 果たして知り合いの範囲に、『暴力沙汰を通しての顔見知り』が含まれるのか激しく疑問ではあったけれども。

+ + +

「本当に、うちの妻がお世話になりました」
 ルウェンに掴みかかって来た時の様子の片鱗も見せず、セイハッドは深々とリヴァーナに頭を下げた。
「ばたばたして申し遅れましたが、私はセイハッド=エバン=リンデルと申します。このキーユで酒屋を営んでおります」
 場所はセイハッドの自宅である。
 具合の悪いイルニを下手に動かす訳にも行かず、酒場の従業員にも協力を仰(あお)いで何とか運び、先程自室に休ませたばかりだ。
 リヴァーナが付き添う気でいるのは明らかだったし、フィルセルもそれが当然のような顔をしていた為、一人残る訳にも先に戻る訳にも行かずにルウェンもここまでついて来たが、何となく居心地が悪い。
 あれからリヴァーナ達の目を気にしてか、セイハッドが突っかかってくる様子はないものの、時折目が合えばぎろりと睨み返して来る始末で、居心地が良いはずもない。
「医師様がいなかったら、イルニは一体どうなっていたか……」
 想像したのか、その顔が苦しげに歪む。
 感謝の言葉にも偽りは感じられない。本気で妻の身を案じているのだろう。
 かつての彼しか知らないルウェンから見れば驚くべき変わり様だが、自分自身も昔の自分からすれば想像も出来ないほど変わったのだから人の事は言えない。
「医師として当然の事をしたまでです。お気になさらず」
「いえ、気にしますよ!」
 リヴァーナの言葉を謙遜と取ったのか、セイハッドはとんでもないと首を振った。
「実は…この街に限らず、帝都では医師や施療師が何処も減っていて…いたとしてもかなり高齢だったりして、気軽に呼びにも行けないんです。ですから偶然とはいえ、あの場に居て下さって助かりました」
「…何だと?」
 セイハッドの言葉に、思わずルウェンは口を挟んでいた。
 今の言葉は聞き捨てならない。医師や施療師はその役割から、人々の生活にはなくてはならないもの。その数が減ると言うのは本来ならあってはならない事だ。
 そもそも人命を預かる職業柄か、彼等は危険だからと我先に逃げるような小心者は少ない。なのに…数が減っていると言うのか。
 皇帝が乱心し、まともに都市機能が動いていない上、魔物すら現れるこの状況で?
「それは自分から街を出たのか? それとも……」
 ルウェンの問いかけに虚を突かれたように絶句していたセイハッドは、我に返ると心底嫌そうに口を開いた。
「知るかよ。と言うか、知っていたとしてもなんでお前に答えなきゃならん。関係ないだろ?」
「関係あるから聞いてるんだ!」
「…何?」
 何処か切羽詰った様子に思う所があったのか、そこでようやくセイハッドはまじまじとルウェンを見た。
 過去の確執からか、今まではルウェン自身を見ようとはしていなかったその目が、僅かに驚いたように見開かれる。
「お前…反乱軍の兵士なのか?」
 今更のように尋ねられた問いかけに、答えたのはそのやり取りを不思議そうに見ていたフィルセルだった。
「ルウェンさんって結構有名なんですけど、知らなかったんですか? 知り合いなんでしょう?」
「し、知り合いったって…その、特別親しかった訳じゃ……」
 流石にセイハッドも何も知らないフィルセル相手に全てを話す気にはならないのか、戸惑ったように口ごもる。
 そんなセイハッドとルウェンを交互に眺め、何となく察したのか、リヴァーナがフィルセルの言葉を補足した。
「── 帝都でも『返り血のルウェン』という二つ名くらいは聞こえているのでは? 反乱軍でもおそらく一、ニを争う実力者ですよ」
 初対面の時に『何処にでもいそうな普通の男』扱いをされた身としては、持ち上げられても何だか素直に喜べない。
「…リヴァーナ、それは言いすぎだと思うんだが」
「実際はさておき、それが一般論になりつつある事は事実です。あなたもあなたで、少しは自覚した方がいいと思いますよ」
 自分の事に無頓着すぎると言外に言われて、ルウェンは二の句が継げなかった。
 実際、今まで自分に対する評価など気にした事もない。セイリェンの戦い以降、反乱軍の中で受ける英雄視も、一時的なものだろうと軽く考えていた位だ。
 しかし、リヴァーナの言葉に対するセイハッドの表情が、彼の思うよりも世間が己の名を知っている事を証明していた。
「こ、こいつが…あの、『返り血のルウェン』だって…? 皇女殿下に剣を捧げたって言う、あの…? まさか……」
 呆然と呟き、まじまじとルウェンを見るその瞳には、もう先程までの刺々しさはなかった。信じられないと言う気持ちが半分、事実だと感じる気持ちが半分といった所だろうか。
 後押しするようにフィルセルも頷く。
「そうですよー。一人で魔物を倒しちゃう位、すごい剣士様なんです!」
 我が事のように胸を張るフィルセルに、セイハッドも流石に疑いを捨てる気になったようだ。
 実際、ルウェンという名はどちらかと言うとそこまでありふれた名でもない。別人と考えるよりは本人であると考える方が自然だろう。
 幾分ぎこちない沈黙の後、疲れたように肩を落とすとセイハッドは感想を漏らした。
「── 世も末なこった……」
「どういう意味だ、オイ」
 気持ちはわからなくもないが、本人を前にしてそれは正直過ぎると言うものだ。思わずむっとして問い返せば、セイハッドは鼻先で笑った。
「だってそうだろ? あの頃のお前を見て、今のお前が想像出来る奴がいたら、そいつは予見で飯が食えるぜ。しかし、そうか…お前が皇女様の騎士か……。世の中わかんねえなあ」
 それは確かに否定出来ない。その事はルウェン自身が一番不思議に思っている位なのだから。だがしかし、それをよりにもよってセイハッドに言われたくはない。
(お前こそ、変わりすぎだろーが!)
 余程言いたくて堪らなかったが、このままでは話が脱線したまま進まない。ルウェンは咽喉元まで出かかった言葉を無理矢理飲み込み、話を戻した。
「ともかく、先程の質問に答えてくれ。医師がいないというのは…?」
 ルウェンの言葉にセイハッドも何を話していたのか思い出したらしい。
 軽く咳払いすると、幾分深刻そうな口調で口を開く。
「…正確に言うなら、医師や施療師だけじゃない。前触れもなく人が行方不明になる事があちこちで起こっているんだ」
「行方不明…だって?」
 人が消える── それは何だか不吉な響きの言葉だ。
 予想もしていなかった答えに、思わずルウェンは横にいたリヴァーナと顔を見合わせた。

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