天 秤 の 

第五章 皇帝カルガンド(7)

「行方不明って…自分で姿を消した訳じゃないのか? 本当に前触れもなく?」
 そのまま鵜呑みに出来ずに問い詰めれば、セイハッドは渋い顔で頷く。
「そうとしか言えない状態だ。…俺達も困ってるんだよ。この御時世だからな」
「…それは、最近の事なのですか?」
 流石に同業者の事には無関心でいられないのか、リヴァーナも横から口を挟む。
 ルウェンとリヴァーナの顔を交互に見比べ、僅かに迷った様子を見せたものの、セイハッドは再び口を開いた。
「ああ。噂になりだしたのはここ…半年くらいという所か。いつが最初かははっきりしないが、最初の内は数も少なかったし、比較的安全な西や南に逃げたんだろうって言われていたみたいだぜ」
 どうやら悩んでいたのは、リヴァーナに対して口調を丁寧なものにするかどうかについてだったようだ。
 結局面倒になったのか、今更だと思ったのか、ルウェンに対しての少々乱暴な口調のまま話す事にしたらしい。
「だが、その内そんな言葉じゃ不自然な状況がいろいろ出てきたって訳だ。もちろん、いなくなった人間は皆で探し回った。だが一人も見つからなかった」
 そこで僅かに声を落とし、何処か皮肉な口調でセイハッドは続けた。
「極端な話じゃ、曲がり角を曲がったら前を歩いていた人間が消えたってのもあるらしい。…今じゃ『影の国』に攫われた、なんて事を言い出す人間もいる始末だぜ」
(『影の国』、ねえ……)
 それは誰もが子供の頃に一度は耳にする言葉だ。黄昏時に入り口が開いてしまうという、恐ろしい化け物の国。
 このセイハッドの口からそんな単語が出て来る辺り、冗談めかしてはいるものの半ば本気でそう噂されているのだろう。
「いなくなった人間に何か共通点はないのか? たとえば…医師や施療師のようにある特定の職業だとか」
「それもいろいろ噂にはなった。このキーユではたまたま医師が続けて消えただけで、他はまた違うらしい。男女の差もさほどないし、職業もバラバラだ。何か共通点があったとしてもわかんねえ。今の所言えるとしたら、成人前の子供やかなり高齢の人間はその対象にはなってないって事くらいか? それもいつ引っ繰り返るかわからねえが」
「そうか……」
 セイハッドの言葉にルウェンは考え込む。
 今まで移動してきた場所ではそんな話を耳にしなかった覚えはない。調べてみなければ断言出来ないが、行方不明者が出ているのは帝都内だけの可能性が高い。
 各地で噂が立つほどとなると、それなりの数の人間が姿を消しているはずだ。一体彼等は何処へ消えたのか──。
(…報告の必要がありそうだな)
 果たしてその事が乱心した皇帝と関わりがあるかはわからない。だが、ルウェンの勘は告げる。おそらくこれはまったくの無関係ではない、と。
「…医師や施療師の不足は、反乱軍がこの地にいる間は多少融通出来るかもしれません」
 ルウェン同様、セイハッドの言葉に何かしら考え込むような様子を見せていたリヴァーナがぽつりと口を開いた。
「何処まで手が割けるかはわかりませんが……」
 その言葉に、目に見えてセイハッドの表情が明るくなる。
「状況が状況ですから、あまり長期間は無理でしょう。それでもないよりはマシのはずです。可能かどうかは一度持ち帰ってみなければわかりませんが」
「ああ、もしそう出来るのならありがたい。かなり助かる」
 素直な感謝を述べるセイハッドの顔を無表情に見つめ、やがてリヴァーナは小さく吐息をついた。
 それは普段、己の感情を表に出さない彼女にしては珍しく、何処かやりきれない様子だった。
「…今までの話を聞くに、あなたの奥方も特定の医師に診(み)せている訳ではないのですね?」
 その言葉に、セイハッドがはっと目を見開く。リヴァーナの言葉に、何かしら思う所があったという事だ。
「私がここまでついてきたのも、出来ればかかりつけの医師に話を聞いておきたいと思ったからです。ですが…状況から無理と判断しました。どうやらあなたもわかっているようですが……」
「……」
「…何の事だ?」
 訳がわからずルウェンがつい口を挟むと、何故か横にいたフィルセルにすごい勢いで部屋の隅に引っ張られた。
「フィ、フィル? 何なんだ、一体」
「いいから! …空気読んで下さい」
「読もうにも、何がなんだかわからないんだが…?」
 取りあえず、二人の話に水を差すなと言いたいらしい。
 しっかと腕も掴まれているし、リヴァーナとセイハッドも特に説明をしようとしないようなので、ルウェンはおとなしく見守る事にした。
 何がなんだかわからないが── フィルセルも妙に緊張した顔をしている所を見ると、わかっていないのは自分だけらしい── 何となくそれが良い話ではない事はわかる。
「…やっぱりあんたも、無理だと思うんだな?」
 ぎこちない沈黙を、セイハッドが破る。
 何処か疲れたような、同時に諦めの漂う言葉に、リヴァーナが頷く。
「きちんと診てみなければわかりませんが、あなたの奥方── イルニさんは元々丈夫な方ではないのでは? 妊娠が直接の理由だとは思いませんが、かなり衰弱しています。体力的なものを考えても、このまま出産すれば彼女も子供も無事では済まない可能性があります」
 残酷とも言える言葉に、フィルセルが小さく『やっぱり…』と呟く。
 その様子に、ルウェンは先程イルニと遭遇した時の事を思い出した。
 あの時、妙におとなしかったのは、医師と施療師と畑こそ違うものの、同じ可能性をフィルセルも感じ取ったからだったのだろうか。
 ただの貧血なのだとリヴァーナの言葉を鵜呑みして軽く見ていたルウェンは、事の深刻さに驚きを隠せなかった。
 出産が時として生死にもかかわる事は知識としては知っていた。知っていたが、自身が独身である上に男の身である為、そこまでの危険を感じた事はない。
 新しい命が生まれるという、おめでたい物だという意識しかなかった。
 けれど── それが決して良い事だけではないと、セイハッドの表情から思い知る。
「ああ…前に診せた医師もそう言っていたよ。子供は諦めた方がいいってな」
 静かに肯定する声は、我が身の事のように痛みを感じさせる。
「俺は当然止めた。特別、子供好きって訳でもないしな。…でも、産むって言うんだ」
「でも、それで、いいんですか? 下手したら奥さんまで死んじゃうんですよ…?」
 おそるおそる、フィルセルが確かめる。
 それが良いはずがない事は百も承知だろう。しかし、そんな幼い問いかけに対し、セイハッドは怒りもせずルウェンの知らない顔で微笑んだ。
「仕方ない。イルニがそうしたいなら、俺にそれを止める事なんて出来ないんだよ。…惚れた弱みってやつかな」
 完全な笑顔になりきれない表情が、彼の割り切れなさを物語っている。
 『死』というものが避けられないものだとしても、相手が大切な人間ならば、その永遠の別れが出来るだけ遅く訪れる事を祈るのは当然だ。
 現在、妻や恋人といった存在はいないが── 喪いたくないと思っていた人を、思いがけず喪った時の苦しさならばルウェンにも理解出来る。

『…人の命に二度はない。そうだろう、ルウェン?』

 苦い思いと共に、思い出す人がいる。
 ソーロン=トゥレフ=ガロッド。皇女ミルファの異母兄── ルウェンが剣を捧げた最初の主。
 そして命をかけて、己の手で守るのだと誓ったのに、結局守りきれなかった相手だ。
 ルウェン自身も生死を彷徨(さまよ)うような重症を負ったが、生き延びてしまった今、そんな事は何の免罪にもなりはしない。
 …一人に、しなければ。
 あの状況で他に手はなかっただろうが、せめて側にいる事が出来ていたら。
 一体、何度そう思った事だろう。
 どれほどの苦痛の中で絶命したのか── 東の主神殿で見たその亡骸はあまりにも無残で。
 必ず、敵を討つのだと心に決めた。そうとも思わなければ、やりきれなかった。
 今こうして自分がいられるのも、ソーロンあっての事だ。
 乱心した皇帝の下にいるよりはと、それ以外に特に深い考えもなく東領へ下り、東領の都アーダで偶然ソーロンと出会った。
 客引きにあい、困っている様子なのを成り行きで助けたのだ。
 まさか皇子様が供もつけずに一人で歩いているなどと思いもしなかったので、結構失礼な事をやらかして怒らせてしまったのだが、結果としてそれが切っ掛けとなって側近くで仕えるようになった。
 後日、護衛もなしに一人でいた理由を尋ねると、何処か神妙な顔をしてソーロンは答えた。

『…「一人」というものが、どんな物か知りたいと思っただけだ』

 確かに第一皇子ともなれば、常に側に人がいただろうが、わざわざ知る必要のある事とは思えない。
 ルウェンなりに考え、『…反抗期ですか?』と余計な事を言ったばかりに、やはり怒らせてしまったのだけれども。
 激怒させてしまったのでそれ以上の事を聞けなかったが、何故かその言葉はやけに印象に残った。今となっては、もうその理由を聞く事も出来ない。
 …人が死ぬという事はそういう事なのだと、しみじみ思う。遺された側がどんなに悔いても、決してその結果が覆る事はない。
 出来る事と言えば、その人を覚えている事、それだけだ。
 セイハッドを見れば、その顔はどこか覚悟を感じさせる顔だった。
 きっと、今までに何度も悩んだに違いない。考えて話し合って── そして結果を受け止める事を決めたのだ。
「…わかりました」
 同様にじっとセイハッドの顔を見つめていたリヴァーナが静かに頷いた。
「そこまで覚悟しているのなら、私も出来るだけ尽力しましょう」
「…あんたがイルニを診てくれるのか?」
 少し驚いたようにセイハッドが尋ねる。いくら医師と言っても、自分とさほど年が変わらない相手だ。不安に感じるのも無理はなかった。
「ええ、乗りかかった船です」
 淡々と何も問題はないとばかりにリヴァーナは頷くが、その申し出に驚いたのはルウェンもだ。思わず隣のフィルセルに小声で尋ねていた。
「な、なあ…リヴァーナって、その、助産の経験って……」
「…知識はあると思いますけど、経験はほとんどないと思います」
 フィルセルも心なしか表情が強張っている。
「だ、大丈夫なのか!?」
「大丈夫も何も、リヴァーナさんは一度やると決めたら譲りませんから……。それに、従軍してきている医師はほとんど怪我とか病気の専門ばかりでしょう。他の人が診てもあまり結果は変わらないと思いますよ…?」
「そ、そうか……」
 言われてみれば生きるか死ぬかの戦いに妊婦が行軍するはずもなく、助産経験を積んだ専門医がいなくて当然だ。キーユに緊急時に頼れる医師がいないなら、多少畑違いでも診ざるを得ないだろう。
 …だろう、が。
(何だかなあ……)
 思わぬ所で思わぬ繋がりが出来てしまった。こうなるとルウェンも他人事ではなくなるだろう。
 ルウェンはまじまじとセイハッドを見つめ、縁という物の奇妙さにため息をつくのだった。

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