永久楽土
第一部 闇(くら)き導き神の祈り
ザイン=エルダ(2)
「…遅いですよ」
サマナに続いて食堂(とは名ばかりの、粗末なテーブルと椅子が雑然と並んでいるだけなのだが)に入ると、入り口付近から不機嫌な声が飛んでくる。
見れば、きつく髪を結いこんだ女が険しい表情で立っていた。
「申し訳ありません、ロディア様。…この子が、また支度に手間取りまして……」
サマナが即座に謝り、そして憎々しげな口調で言い訳する。
実際、それが間違ってもいないから、アウラは反論も出来ずにただ俯(うつむ)くしか出来ない。…怖くて、とてもではないが顔など上げていられなかった。
「またですか……」
女── 下女頭を勤めるロディアは、苛立ちを隠しもしない口調で呟く。淡々とした物言いは、余計にアウラの恐怖を倍増させた。
身を硬くするアウラに気付いているくせに、サマナは自分は関係ないとばかりに一礼すると、奥にある配膳台に足早に向かってしまう。ロディアもそれを咎めなかった。
ふと周囲を見れば、もうほとんど人はいない。皆、とっくに朝食を終えて、与えられた仕事をしに出ているのだ。
「…アウラ。お前は自分が人より幼いと思って、甘えた気持ちでいるのではないだろうね?」
「……!」
冷ややかな言葉に、反射的に顔を上げる。
そしてそんなつもりはないと言おうとしたものの、高圧的に見下ろしてくるロディアの視線を真正面から受けとめてしまい、否定の言葉は喉の奥で固まって痞(つか)えてしまう。
それでも何とか口を開こうとする前に、ロディアは弁解を許さない口調でアウラの言葉を封じた。
「今日は遅れた分、朝食は抜きです。自分に与えられた仕事に向かいなさい」
「……!」
そんな、と言いかけるものの、ロディアの有無を言わさない視線に動けなくなる。
昨日の夕食時も、人より作業に手間取ったせいでろくなものが食べられなかったのだ。
途端に空腹感が強く起こり、胃の辺りがきゅうっと縮まるような感じがした。
せめて水だけでも飲みたい、そう思うのに、けれどロディアに対する恐怖感は、空腹感よりも遥かに勝っていた。
「アウラ、返事は」
いやだ、という返事など最初から求めていない言葉に、アウラはただ頷く事しか出来なかった。+ + +
ふと、作業する手を休めて空を見上げてみた。
頭上に広がる青空は、高くそびえる壁で四角く切り取られてそこにあった。夢でみた何処までも続く空とは、全く違う。
それを確認して、アウラは再び作業を再開した。
ぶちっ、ぶちっ、と単調な音が手元で響く。アウラの小さな手が、そこここに生えた雑草を引き抜く音だ。
草を毟(むし)る度に、青臭い香気が立つ。アウラの手は、その匂いと草の汁とで染まっていた。
幼い為に力仕事などが出来ないアウラに与えられたのは、労力をそれ程必要としない代わりに忍耐を必要とする作業がほとんどだった。
ザイン=エルダは世界地図上では北方に位置する為、春の訪れは遅い。だが、暖かくなるとその短い春を惜しむように、一斉に草花は成長を始めてしまう。
花々だけでなく、その成長を妨げる雑草もまた、然りだ。
その為、アウラはここへ連れてこられてから毎日のように、指示された場所の雑草を引き抜き続けていた。
季節はようやく初秋になり、草花の成長する勢いは止まったものの、やはり短い夏の間に成長した雑草はまだまだある。
最初はどれが抜いてよい草で、どれは残さなければならないのかもわからなかったものの、この半年で大体は覚えた。必要に駆られて覚えざるを得なかった、とも言える。
その場所は必要以上に敷地が広く、毎日作業をしても、いつまでも終わりそうな感じがしなかった。
アウラ以外にも草むしりを申し付けられた者がいるはずなのに、今まで一度として誰かと一緒に作業をする事がなかった事自体で、その広大さがわかろうと言うものだ。
広い、広い庭園。磨かれた白い石で造られた建造物。
咲き乱れる花々は、全て雇われた庭師が開花時期や色合い、放つ芳香までも緻密に計算し尽くしたものばかり。
花だけではない。あちらこちらに置かれた彫像や、絵画、タペストリーなどはどれも一級品で、金額をつけられない程のものも少なくないという。
…それもそのはず、アウラが買われたのは、ザイン=エルダの国王が居城、王都の中心に聳(そび)え立つ王宮なのだ。
もっとも、アウラがその事実を知ったのは、つい最近の事だ。
何しろ、『下々の者』に位置するアウラ達は、当然ながら王宮自体に入る事など許されない。
王宮に足を踏み入れる事が許されるのは、下女頭であるロディア以上の身分を有する者だけで、それ以外は余程の事(たとえば、貴族の側仕えの下女になるなど)がなければ一生中に入る事もないに違いなかった。
王宮の隅の、高貴な人は決して見向きもしないような場所の草むしりなど、果たして何処まで意味があるのかわかったものではない。
それでも確実に恵まれていると言えるものがあるとすれば── 遠目でも、王宮内の美しいものを眺める事が出来る事、そして最低限の衣食住が保障されている事だろう。
後は…いつ死ぬのかと怯える必要がない事くらいか。
何しろ国王がおわす王宮ともなれば、国内で一番警備が厳重で、余程最悪の事態にでもならなければ最後まで安全なはずの場所なのだから──。
(…お腹、空いたな……)¥
手を休める事のないまま、アウラは小さくため息をつく。
横に少しずつ積み上げられて行く雑草が、食べられるものならいいのに、と何となく思う。そしたら少しは空腹を誤魔化せられる。
…もっともそれが食用可能であったとしても、そんなものを口にしている姿を誰かに見られようものなら、意地汚いとか言われて他の下働き達にどんなにばかにされるか、わかったものではないけれども。
何しろ、彼等はほとんどが同じような身の上でありながらも、仲間意識とかそういうものは希薄なのだ。
最下層に位置するが故に、他より優位に立とうとする意識が強いとも言える。
そんな事をしたって、ザイン=エルダの階級制度は厳しく、ましてや他国の生まれである以上、それ以上の身分になんてなれる訳ではないのに。
ただでさえ、最年少の上に非力なアウラは、彼等にとっては格好の獲物なのだ。自分より弱いから庇ってやろう、と思う以前にアウラを貶める事で憂さを晴らそうとする。
ロディアに与えられた仕事が単独で出来るものだった事が、せめてもの救いだった。
ぶちっ、ぶちっ。
黙々と草を毟る。仕事に没頭していれば、時間はすぐに経つ。一日だって、すぐに終わる。
そうすればまた── 夢の中に行けるから。
夢の中でなら、飢えも痛みも感じない。誰もアウラを傷付けない。
心を許せる者もなく、ただ虐げられる毎日に、今やアウラは眠りの中にだけに救いを求めていた……。